六章十三話 戻された小瓶
《王録》 六章 十三節
『残された小瓶は、死ねぬ者の名を水面に戻す。』
救護班が来るまでの時間が、妙に長かった。
長いはずがない。
僕が声を出してから、走る足音が来るまで、たぶん一分も経っていない。
でも、瓦礫の中の生命は、その間ずっと同じ場所にあった。
ゼロではない。
ゼロではない。
ただ、それだけ。
それを見ていると、息の仕方が分からなくなった。
✶
救護班は、最初に布を広げた。担架ではなかった。
担架に乗せる形が、まだ残っていなかった。僕は手を出そうとして、止められた。
「見つけた人は下がってください」
「生命が」
「聞いています。下がってください」
救護兵の声は固かった。
怒っているのではない。
何かを崩さないように、声を固くしている。
袖口は濡れていた。手袋の革には、薬草と血を洗った後の匂いが残っている。僕を止めた手は乱暴ではなかったが、指先だけが妙に冷たかった。
僕は一歩下がった。
靴底の下で、小さな破片が鳴った。
✶
桜華さんだったものは、布に包まれた。
名前を言うと、周囲の空気が少し変わった。
桜華さんは、いつも名前より先に声が来る人だった。廊下の向こうから誰かを呼ぶ声がして、振り向くとだいたい彼女がいる。そういう印象が、布の前では役に立たなかった。
放課後、誰かの忘れ物を見つけると、桜華さんは持ち主の名前より先に置き場所を覚えていた。机の横、窓際の鞄掛け、教卓の下。そういう細かい場所をよく覚えている人だった。
今、その人の場所を救護班が決めている。その事実だけで、喉の奥が詰まった。
不死。その言葉は便利すぎる。
便利すぎて、口にした瞬間に何かを取りこぼしそうだった。
死なない、という言葉は、この場では何の説明にもならない。
死ねない、なら少し近いのかもしれない。
そんなことを考えて、すぐにやめた。
考える順番が違う。
✶
詰所へ戻る途中、エリカさんに呼び止められた。
いつ来たのか分からなかった。
冒険者協会の腕章に、泥が跳ねている。
髪は後ろで雑に結ばれていて、結び損ねた短い毛が頬に貼りついていた。走ってきたのだと思う。呼吸は荒くないのに、肩掛け鞄の革紐だけが、胸のところで強く食い込んでいた。
「羽黒」
「はい」
エリカさんは、布包みを差し出した。
小さい。
親指ほどの硝子瓶が一本、中で硬い音を立てた。
包み布は乾いていた。乾いているのに、受け取る前から冷たそうに見えた。エリカさんの指の節には、古い傷が白く残っている。
「前に迷宮で回収した。正式には保管品だ。まだ鑑定名も固まっていない」
「それを、僕に?」
「お前にじゃない。救護班に渡せ。使うかどうかは向こうが決める」
瓶の中には、液体が少し残っていた。
透明ではない。
光を当てると、底の方に薄い金色が沈む。
「遺跡から出た薬だ。古い回復薬か、聖別水の出来損ないか、その辺りだとミラは言っていた」
「危なくないんですか」
「危ない。だから、普通は使わない」
エリカさんは、そこで一度だけ視線を戦場の方へ向けた。
「普通の形が残っているならな」
僕は瓶を受け取らなかった。
手が動かなかった。
エリカさんは、布包みごと僕の胸元へ押しつけた。
「持て。お前が見つけた反応だ」
その言い方は、優しくなかった。
優しくないから、手が動いた。
瓶の角が、服越しに胸へ当たった。軽いはずなのに、そこだけ重くなった。
✶
救護所の中は、薬草と焼けた布の匂いがした。
桜華さんの名前は、まだ札に書かれていなかった。
救護兵が僕の持ってきた小瓶を見る。
顔が変わった。
若い兵だった。頬の産毛に粉薬がついていて、目の下だけが黒くなっている。驚いた顔をしてから、すぐに仕事の顔へ戻した。
「どこから」
「冒険者協会の保管品です。迷宮の遺物だと」
「使用許可は」
「ありません」
自分で言って、舌の裏が乾いた。許可がない。
鑑定名もない。安全確認もない。
あるのは、ゼロではない生命と、布に包まれた体だけだ。
救護兵は瓶を受け取り、隣の軍医へ渡した。
軍医は長くは迷わなかった。
軍医の手は太かった。爪の間まで洗ってあるのに、指の腹だけが赤い。何人も触った手だった。
「薄める。直接は入れない。残存魔力を見る」
「はい」
手順が動き始めた。
それだけで、少し息が戻った。
✶
小瓶の中身は、水に落とされると、金色ではなく白く濁った。
血の匂いと混ざる。薬の匂いはしなかった。雨の後の石に似ていた。
軍医が布の端を少し開く。僕は目を下げた。でも、表示が見えた。
低い。低いまま、揺れた。一度、消えかけた。
顎の奥が、勝手に硬くなった。次の瞬間、生命がほんの少し上がった。
精神の表示は、見えなかった。生きているのに、そこだけが白く抜けている。
上がったのが生命だけだと分かった時、安堵より先に、新しい重さが増えた。
周りの誰かが息を止めた。僕ではなかった、と思う。
「反応あり」
救護兵が言った。
軍医は頷かなかった。
「続ける。喜ぶな」
その声で、救護所の中がまた手順に戻った。
✶
桜華さんの形は、すぐに戻らなかった。当たり前だ。人は壊れた物ではない。
部品を戻せば済むわけではない。それでも生命は、ゼロから遠ざかっていた。ほんの少しずつ。
見間違いだと言われたら、言い返せないくらい。
でも、僕には見えていた。
見えてしまっていた。
「羽黒さん」
救護兵が僕を見る。
「外で待ってください」
「でも」
「ここから先は、見つけた人が見る場所ではありません」
返事が出なかった。
「呼ばれたら戻ります」
それだけは言えた。
救護兵は小さく頷いた。僕を励ますためではなく、仕事の確認として。
外へ出ると、雨は止んでいた。溝の水だけが流れている。手の中に、小瓶の布だけが残っていた。
中身は、もうない。それでよかったのかは分からない。分からないまま、僕は布を握った。
生命のゼロと、生きている生命が、同じ処置台の上にあった。
救いに見えるものは、救いだけではなかった。
桜華さんは、死ねなかった。
僕は、それを拾ってしまった。
――――――――
面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。
https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews




