88 回る歯車
前世の技術力を惜しむアイヴィーだが、時間は待ってくれない。
「そのためには、侯爵様が、毒を撒く大義名分が必要なんです……! だからその方を解放してください!」
興奮したように訴える男は力加減ができていなかった。喉を締め付けられて、クインティーナは苦しげに呻く声が響く。
その姿を見たオクトスが即座に武器を捨てた。あまりに潔い判断だった。
「彼女を放せ」
(オクトス様……!)
――オクトスはいつだって、クインティーナを真っ先に助けようとする。
その決断に、クインティーナの胸は締め付けられた。
喜びではない。
自分の不甲斐なさにだ。
(こんな……足手纏いになりに来たのですか、私は!)
そうではない。助けたいから自らあの部屋を出たのだ。
結局助けられてばかりだが、それでもクインティーナは、助ける為に踏み出した。
(私だって、私だって!)
クインティーナはアイヴィーのように発想豊かではない。オクトスのような力もない。ミラノスのように博識ではない。
これだけはと誇れる物など、持っていない。
だからこそ。
(怯えて震えているだけでは、いられない!)
クインティーナは、隠し持っていた裁縫道具に手探りで触れた。
そこから針を引き抜いて、自分の首を拘束している太い腕に思いっきり突き刺す。
「ぎゃあ!」
突然の痛みに驚いた男の腕が緩み、クインティーナは咄嗟にその場にしゃがみ込んだ。
クインティーナの頭上を、素早く距離を詰めたオクトスのこぶしが通過する。
渾身の力で、男は顎を殴り飛ばされた。
『歯が飛んだ!!』
色々シリアスに考えていたアイヴィーが思わず叫ぶほど、綺麗に男の歯が飛んだ。
相手の武器を破壊するほどの怪力だ。クインティーナを助ける為に力んだのもあって、男は洞窟の奥へと吹き飛ばされた。
毒の山へと。
『あっ』
やばい、とアイヴィーが音にする暇もなかった。
吹き飛ばされた男は、地面から隆起している毒の岩に背中からぶつかった。その岩は存外脆く、男を受け止めきれず砕け散る。
「う、わ、ぎゃああ~~~~!!」
バランスを崩した男はそのまま背中から地面に倒れ込み――鋭く隆起した岩に、胸を貫かれた。
悲鳴に振り返ろうとしたクインティーナを、オクトスが抱き竦めて止める。後ろは見えなくなったが、前はオクトスの肩越しに確認できた。
だから、誰もが後ろを振り返る中、クインティーナだけが見た。
ニリスからペンタスへと絡みついていた魂の口元が、吊り上がるのを。
ほぼ同時に、ミラノスは男の体から魂が浮き上がるのを見た。
魂を物心つく前から見ていたミラノスだが、人が死ぬ瞬間を見たのははじめてだった。
母の死に際は見ていない。そして母の魂もみていない。息子が聖人だと知っていた母は、息子が心配しないようにすぐ天へ昇ったのだと思う。だからと言うか、死亡した直後の魂を見るのははじめてだった。
多少淀んでいたが、生きていた頃と変わりない魂が身を起こす。
呆然とした目は息絶えた体を認め……表情が憤怒に染まる。
『よくも――――!』
怨嗟の声が洞窟に――否、ミラノスとクインティーナ、アイヴィーの耳だけに響いた。
直後。
ずろろろろろ!
地面を何かが這いずる不快な音が、同じく彼らの耳にだけ届く。
ニリスの背から離れた女の魂が、蜘蛛のように手足を動かして怨嗟に染まった男に迫った。
彼が恨み言を叫ぶより早く、大きく口を開いた女が男の魂に齧り付く方が早かった。
続けて響いたのは断末魔。
オクトスが遺体を見せないよう配慮した結果、クインティーナは目にすることがなかった。けれど断続的に響く悲鳴と粘着質な音。ゴリゴリと骨を削るような音に、何が起きているのか察して震えが止まらない。
思いがけず直視する事になったミラノスは、足の力が抜けてその場にストンと座り込んだ。
「う、げ……っ」
『無理ないスプラッタ! 衝撃映像! モザイク必須!!』
思わず嘔吐くミラノスの背を、触れられないアイヴィーが撫でるふりをした。何を言っているのか半分わからないが、相手をする余裕もない。
胃液が込み上げてくるのを、喉を押さえてやり過ごす。目を逸らしたいのに、目を離すことができない。
オクトスとペンタスも、聖人達の様子がおかしいことに気付いていた。
見えない何か、異変があったと気付くも、見えない彼らは警戒しても避けることができない。
オクトスは震えるクインティーナを抱きしめて、見えない脅威から庇った。
ニリスは茫洋とした目で、そんな彼らを見ていた。
――ギチギチと鳴るのは歯の音だろうか。
体が割れたのではないかと思うほど、女の魂の口は大きかった。男に食らいついた瞬間、胴体が大きく脈打ったのは男を屠った影響だろう。
咀嚼と一緒にぐちゃぐちゃと揺れる体。どんどん水音は収まっていき、最後には硬い物同士がぶつかる鈍い音だけが響き。
ぐるんと振り返った女の顔は、もう人の顔をしていなかった。
縦に裂けた口から小さな牙が、人間の歯が大量に並んでいるのが見える。真っ黒に染まった体に反して真っ白い歯は、そこだけ浮かんでいるようだった。
口の横から頭皮が体毛のように生え、目は蜘蛛のように生えた手足に散らばっている。ぎょろぎょろとバラバラに動く目は、それぞれ色が違った。
ぎぎぎぎぎ、と虫の威嚇に似た音がする。
悍ましい姿に身を竦ませたミラノスの前で、それは。
嗤って、地面に沈んだ。
アイヴィー『なんで突然ホラーになった!! 言え!! せめて予告して!!』




