76 呼び名の違い
ミラノスが消えた。
「ミラノス!?」
「ミラノス様!?」
同時に、オクトスとペンタスは視界を失った。
ミラノスが持っていた燭台が、唯一の光源だったのだ。慌てて一歩踏み出そうとしたオクトスに、アイヴィーの鋭い制止の声が飛ぶ。
『動かないで! 足元がない!』
「止まってくださいオクトス様!」
「う、お!?」
慌ててクインティーナはペンタスの上着を引っ掴んだ。制止の声と後ろから引っ張られる感覚で、オクトスはなんとか立ち止まった。
「足元がなくなっているんです、ミラノス様はこの下に落ちてしまわれたのかと」
「なんだと……すまない、一度下ろす」
「構わない」
その場にしゃがみ込み、負ぶっていたペンタスを下ろす。手探りで地面に触れたオクトスは、確かにぽっかり空いた穴を見つけた。
「クインティーナの言うとおり、この先は地面がない……」
「よく気が付いたな。こんな暗闇で」
「す、少しだけ夜目が利くのです」
光源のアイヴィーがいるので見えたのだが、さすがに言えなかった。
さらに言えば、その穴から下に下がったハシゴの存在も見えている。
これには、クインティーナが何か言うより手探りを続けていたオクトスが気付いた。
「ハシゴがあるな。ここから下に行けそうだが……どの程度深いのか。何も見えないぞ」
「落ちたヤツの持っていた燭台も消えたか?」
「落ちるときに風圧で消えたようだ。ミラノスは賢いからじっとしていると思うが、高さによって怪我をしているはずだ」
『私見てくるから、じっとしていなさい』
「あっ」
アイヴィーがするりと下降していく。
クインティーナにとっての光源がいなくなり、周囲は暗闇に染まった。
(こ、怖い……)
思わず握ったままのペンタスの上着を引っ張った。
「おいやめろ」
「あっ失礼しました!」
「大丈夫かクインティーナ。俺の手を握っていると良い」
「あ、ありがとうございます」
「やめろそれは俺の手だ」
「すまない、見えないばかりに」
「あれ? あれ?」
暗闇の所為で、男同士で手を握ったりクインティーナが見当違いの方に手を揺らしたりとなかなか混沌とした場になった。
ここにアイヴィーがいたら『お約束ゥッ!』とテンションを上げただろうが、残念ながらいない。
暫くわちゃわちゃと見えていないのに手を動かし続けた二人は、ペンタスの気が抜けたようなため息で制止した。
「おい、落ちたヤツの心配をしろ!」
「もちろん心配はしている。ハシゴの強度を見ているから待ってくれ」
いつの間にか、見えないなりに動いていたらしい。
アイヴィーに待っていろといわれたクインティーナはどうすべきか迷ったが、この暗闇ですぐ動けるわけもない。ミラノスが心配だったし、自然と黙った。
ペンタスは一人、頭を抱える。
「落ちたヤツはともかく……こんなに呑気な奴らを警戒するのも疲れてきた」
「何、疲れたのか。怪我をしているのだからそれはいけない。俺に持たれると良い」
「申し訳ありません。飲み物は持ち運べず、補給できそうな物は何も……」
「やめろいらない。やめろ」
再びわちゃわちゃと動き出しそうだった2人を制し、ペンタスは本格的に脱力した。土壁に背中を預け、足を投げ出す。令息とは思えない程行儀が悪いが、見えていないのだから気にしない。
「おかしな奴らだ。ペルデュラン男爵家かと思えば、本当は違うし」
「……ん? どういう事だ?」
「違うだろう。そっちの女、ライコア侯爵家に嫁いだ末の娘かと思ったが、お前達に敬称をつけて呼んでいる。近しいが、兄妹じゃないだろう」
クインティーナはハッとした顔で口元を押さえた。
すっかり安心して、侯爵夫人の皮を被り忘れていた。
「それに、嫁いだのはテレーザ嬢だろう? クインティーナという名ではなかったはずだ」
ペンタスの言葉に、目を丸くする。
「……え、なぜ」
「なぜ? おかしな事を言う。少し調べれば、侯爵がペルデュラン男爵家のテレーザ嬢を妻に迎えたのはすぐにわかる」
本当に不思議そうな声だった。
暗闇の中で、クインティーナとオクトスは視線を合わせた。合っていないが、合った気がする。
(どういう事です?)
しっかり調べてから来ているはずのペンタスが、正確な情報を手に入れていない。
情報収集に不備があったのか、それとも……元から、クインティーナをテレーザと扱っていたのか。
(あれ、結婚式でどうでしたっけ。お嬢様のお名前で呼ばれて……? いいえ! 私、名前で呼ばれていません!)
テレーザとも、クインティーナとも呼ばれなかった。
思い至ったクインティーナは唖然とした。
結婚式でも、侯爵家に来てからも、誰にも名前を呼ばれていなかった。
『ペルデュラン男爵令嬢』と呼ばれた。
(アイヴィーさんが普通にたくさん呼んで下さっていたので、気付きませんでした!)
となれば、わからなくなる。
無理矢理養子になり、クインティーナはクインティーナ・ペルデュラン令嬢として、ライコア侯爵家に嫁いだ――はずなのだ。
クインティーナはテレーザの身代わりになったが、それでもクインティーナとして嫁いだ。
それなのに、なぜ。
『――来ちゃだめクインティーナ!』
響いた大声に、クインティーナは大きく跳ねた。
『ここにあるの全部、毒だわ!!』
アイヴィーがずっと呼んでいたので呼ばれない事に気付かなかったクインティーナ。




