53 過ぎる夜
「よかったのか」
「いいんだよ」
小さな声に、小さな声で返す。
マイナはフルスの持つ燭台の明かりを頼りに進んでいた。
男が持っていた鞄を抱えるように持ちながら、闇を踏みしめて歩く。
男と遭遇した場所から離れて、塀伝いに目的の場所を探った。フルスが屈んで、茂みに隠された塀のひび割れに体を捻じ込んだ。
ここは、敷地内で言えば厨房の裏。数年前から放置されている、警備の穴だ。
放置されている理由としては、単純に見付かっていないからだろう。塀の内も外も、偶然か知らないが茂みに覆われている。普通は見回りの者が気付くが、ライコアへ近付こうとする者がそもそもいない。侯爵内でも、外ではなく内に監視の目が向いていた。
だからマイナもフルスも、誰にも見付からず行動する事ができた。
二人揃って忍び足で、厨房の中に入る。フルスは持っていた燭台を作業台の上に置いた。
そこで彼は、冒頭の質問を口にした。
相手を見ることなく、マイナは即答する。
「いいんだ」
「だが、もう」
「後戻りできないって言うんだろ」
じろりと緑色の目が、同じ色彩を持つ兄を睨む。
滅多に口を開かないフルスは、心配そうにマイナを見ている。
――今夜、事が起きるかどうかは賭けだった。
昨夜、ペンダントの捜索のために遅くまで起きていたマイナは、偶然塀の向こう側で揺れる灯りをみつけた。
最初はそれがなんなのかわからなかったが、同僚と合流するときに気付いた。同僚が持っていた燭台の明かりとそっくりだったからだ。
(つまり、あそこに誰かいた)
ライコア侯爵家を探るように、深夜に誰か近付いていた。
誰かが通りかかっただけなどとは思わない。立地的にも、爵位的にも、心理的にも、そう簡単に近付ける場所ではない。
ライコア家は聖人に関係する家だ。恐れ多いし、罰当たり。どれだけこの家が後ろ暗くても、信心深ければその分だけ近寄りがたく思うはずだ。
だが、まったくいないわけではない。
どこにでも、神を信じない破落戸はいる。
(その破落戸が、来たのかもしれない)
そう考えたとき、マイナが真っ先に思ったのは誰かに報せることではなかった。
(そいつ、使えないか?)
マイナの目的を果たすために、利用できないかと考えた。
思いつきを伝えたとき、フルスは危険だとマイナを止めた。
しかし最終的には一緒に来て、不届き者との交渉も邪魔しなかった。
だがそれは、放っておいたらマイナが突撃して危険だと判断したからだ。
不届き者は、思ったより話のわかる奴だったが、思ったより貧弱だった。
それでもマイナ一人では逃げられていただろう。
――彼の狙いはまだわからないが、それは向こうだって同じこと。
お互い目的はわからないが、侯爵家に……ライコア家に思うところがあるのは一緒だ。
(……だとしても、関係ない。あたしの目的を、絶対に果たしてやる)
鞄を抱えて黙り込むマイナを、フルスはじっと黙ったまま見ていた。
同時刻。
ライコア侯爵邸内にて。
『あア……チクジョゥ、チクショォ……!』
怨念の籠もった女の怨嗟が、地下室からじわじわと迫り上がっていた。
『イダイ……ァア痛い! ギャァーッ!』
地下室の奥には独房があり、独房の扉は鍵もかけられて、中には誰もいない。
しかし怨嗟の声は、激痛を訴える声は、独房の奥から響いていた。
声は女。粘着質で、恨みに満ちている。そんな声が、日中も日が差さない独房で響き続けていた。
独房の奥は暗闇だ。
その暗闇で、ほの暗い影が揺らめいていた。
『アァアア……! ゥアァアアァ……!!』
――その魂は、女の姿をしていた。
しかし手足は折れ曲がり、衣類は背中を中心に切り裂かれている。穴という穴から体液を垂れ流し、かろうじて窺える輪郭から女と判断できるだけで、その姿は凄惨だった。
『ナァンデェ……ッなァンデぁタシガ、ナァンデェ……!!』
それは、昨夜まで使用人によって鞭を打たれ続けた使用人。
ノインだった。
彼女は今朝方、激しい拷問の末に息を引き取っている。
独房にいるのはノインの魂。
彼女は自分が死んだことを理解せず、拷問の日々に囚われ、そして自らの罪を見つめられずにいた。
『ぁタシガ、ァニを……! ァルくなイ。ぁタシは、ァルくなイィイイイイイイイイッ!!』
悲鳴に近い咆哮が地下に響く。
地下だからこそ、その声は地上に届かない。
塀の外にいるアイヴィーにも、眠るクインティーナにも、この魂の訴えは届かなかった。
――それ以外には。
独房の天井に、黒いシミが広がる。
地べたを這いずるノインの魂は気付かない。
手足を折られたから、肉体から解放されても歩き回れない。ノインは死んだその時のまま、身動きがとれず怨嗟の声を上げるばかりだった。
天井のシミが広がって、液状のように天井が歪み――ねちょりと、粘着質な水音が響いた。
ノインの上に落ちてきた水滴。
ノインは魂になってからはじめて感じた「感触」に、視線を上げた。
天井から、口の裂けた女の顔が生えていた。
三日月のように、耳の下まで口角の上がった顔がノインを見下ろしている。
憎悪と激痛に苛まれていたノインは、この時はじめて恐怖を覚えた。
天井の黒シミから伸びた長い手が、手足の折れ曲がったノインの体を拘束する。
ずるりと伸びた首が、胴体が、口が、大きく開いてノインの魂を押しつぶした。
響くのは粘着質な咀嚼音と骨が砕かれる音。
魂に骨などないのに、不思議なことに硬い何かを砕くような音がする。
しばらくして、ずるりとソレが床を這いずる。
まるで血の一滴まで呑み干そうとする吸血鬼のような執念で入念に調べ、満足したように天井へ――地上へと昇った。
残されたのは暗闇の独房。
そこはいつも通りの、寒いくらいの静寂が落ちていた。
その頃の何も知らないクインティーナ「スヤァ」




