106 マブ
昨夜はさすがに、色々あって遠慮していたアイヴィーは、男爵家の敷地を飛び回っていなかった。
侯爵家は一度嫁いだ身なので遠慮などなかったが、人様の家なのに許可なく飛び回るのは良くないと思っての事だった。日本人の精神だろうか。礼儀を重んじたのだ。
と言うわけで昨夜はペンダントを持ったまま部屋に行って寝たミラノスの部屋でじっとしていた。年頃の男性の部屋なので、異世界男児の部屋ってどんな物だと好奇心が疼いたが、家捜しはしていない。そう、礼儀だから。
アイヴィーが好奇心赴くままにミラノスの部屋を調べれば、彼が「作業」に使用する工具や材料を目にする事になったのだが、彼女はそれをしなかった。
そして今朝許可を得て縦横無尽に行ったり来たりしていたのだが。
『なんかでかいのがおるー!』
偶然壁と壁を突き抜けた先が、センタスの部屋だった。
そして棚と棚の間に住み着く、魂とバッチリ目が合った。
心の準備をしていなかったアイヴィーは素で叫んだ。残念ながらミラノスにもクインティーナにも届かなかった。
(……って、思わず叫んだけれど、あの女達みたいに嫌な感じはしない……かな?)
じっとアイヴィーを見ているが、悪寒を覚えない。見た目の悍ましさにぎょっとするが、最初に見た魂と比べると可愛い物だった。
ちなみにミラノスはこの魂に盛大に怯えているのだが、幼少期のトラウマなのである意味仕方がない。そして魂を食べる魂の存在を知らなかったので、あの悍ましさを知らなかった。
恐らく今なら、多少怯えるかもしれないが気にせず父の部屋には入れるだろう。
そんなこと知らないアイヴィーは、そっとその魂に近付いた。
『あなたは……体が大きいけれど、魂を食べたわけではなさそう』
棚と壁の隙間にいる魂は、異様に体が細長い。頭と足を掴んで引き延ばしたような、そんな歪な薄っぺらい姿をしている。
ぎょろりと動く目は緑色。腐食の色だが、黒以外の色を持つだけであの女達とはまったく違った。
なにより、突然襲いかかってくるような様子はない。
『……あなたいつからそこにいるの? ミラノス達はあなたのこと知っている?』
思わず問いかけたのは、感覚としては返事が来ないとわかっているのに猫や犬に話しかけるような物だった。独り言に近い語りかけ。反応があるか確認するための挑戦。
数秒の間を置いて、それはこっくり頷いた。
(は、反応したぁあああああ!!)
アイヴィーはこの時、異文化交流が成功した心地だった。
『知っているの! それなら結構長い間ここにいるの? もしかしてここから動けない? 私と同じ憑依型? あ、憑依って知っている』
通じたのが嬉しくて、つい質問が多くなる。ワクワクした顔で魂に近付いた。
ミラノスには他の魂に近付くな、意思疎通はできないと言われていたが、すっかり忘れている。
見た目は完全にホラーだが、アイヴィーには大きい癖に動作が丁寧で、隙間に隠れて出られなくなった大型犬くらいに見えてきていた。ミラノスが知ったら正気を疑う。
『オ、マ』
(シャベッタァアアア!!)
アイヴィーは大興奮だった。
男とも女とも付かないひび割れた声。老人のようで、声をからした子供のよう。
不思議と、恐怖は抱かなかった。
『オマエ、ナニ?』
『――まさかの?』
無害そうな魂からの問いかけに、アイヴィーは大興奮も忘れてスンッと無になった。
『私って、まさか同類……魂側から見てマジで異質……? あなたが一般だとしたら、確実に異質だって見てわかるけれど。それって他の魂から見てもわかる異質さってこと?』
浮きながら足と腕を組んで首を傾げるアイヴィー。
アイヴィーからすれば、目の前の魂を見ても、何も感じない。さすがに怨霊……最終的に化け物になったあの魂と違うことはわかるが、それくらいだ。
『オ、マエ』
するすると、細長い指が伸びてきた。
手足だけでなく、指も異様に長い。
しかし、爪は鋭くなかった。
『オマエ、マブ』
『そこで区切られると大変複雑なのだけれど……』
俺とオマエはマブ。
激マブな女。
どれだ。
ちなみに激マブとは超魅力的という意味だ。
首を傾げるアイヴィーに、それは根気強く繰り返した。
『マブ、シ』
――眩しい。
意味を理解して、思わず瞬く。
『確かにうっすら光っているけれど……?』
それは腐食した緑の目を細め、伸ばした指を彷徨わせる。アイヴィーに触れるか触れないかの位置を往復した。
まるで、触れたら壊れてしまうと思っているようだった。
諦めて戻ろうとする指を、そっと握る。
ひんやりした、思ったより――思ったより人肌に近い触感に、思わず苦笑した。
『眩しいのは私だけじゃないよ』
――あなたも光っているじゃない。
色は違うが、他の魂も光っている。うっすらと、淀んだ色だろうが、光っていた。
それは夜道、ミラノスが燭台なしで移動できるだけの灯りになって、ぼんやり周囲を照らしていたはずだ。
その話を知っていたから、アイヴィーはそう告げた。
瞬間。
『オ……オオオ、オォオオオオオオ……ッ!!』
『おぉおおおお!?』
ぼろぼろと、それが涙をこぼしはじめた。
腐食した目から溢れる濁った涙に、泣き出した事実にアイヴィーが慌てる。掴んだ指も小刻みに震える物だから、慌てて両手で包み込んだ。
『なんだどうした私が虐めた!? なんか嫌だった!? 話し聞くよ私すごく時間があるから! ……あ、え?』
オロオロ慌てたアイヴィーは、それの流す涙が、どんどん透明になって行っているのに気付いた。
最初は腐った水のようだった涙が、まるで濾過されたように透明になっていく。
呆然と見上げた先で。
透き通るような青い目が、アイヴィーを見下ろしていた。




