第六十四話 開花
◆ 九年前、アッシュが神と成った日。
万物が凍り付いてしまう様な、酷く冷たい一日だった。
呼吸をする度に肺が冷え、瞬きをする度に瞳が乾燥する。
窓が開かれた病室の中央には、独りの青年が佇んでいた。
灰色に染まった髪と痩せ細った四肢が特徴的な、死体にも似た青年だ。
だが、彼の心臓は正常に動き続けている。
「…………。」
本当に死んでいるのは、寝台に眠る彼の方であった。
体の端から解け落ちる様に零れた灰が床に溜まっている。
自身の身体が崩壊していると云うのに彼は一切動かず、
ただただ綺麗な仰向けとなって、目を瞑るばかりである。
アオタの心臓が止まったと判定されたのは、今日の朝だ。
それからは、生前の彼と交流の有った大勢の人物が、
せめて最後に一度だけでも会っておこうと此処を訪れた。
遺族は勿論、フヅキも、ウェブスも、紫雲の仲間達も。
…その間も、アッシュだけはずっと部屋の中へ留まり続けていたのだ。
常識の無い奴だと、彼を非難する者は居なかった。
アオタがアッシュの親友であり恩人であり仲間であり、
掛け替えの無い大切な存在だと云う事は、来訪する誰もが知る所であったから。
早朝から、夕方まで。実に十二時間以上。
一度たりとも座る事無く、泣く事無く、話す事無く。
彼はまるで亡霊の様にアオタの死に顔を眺め続けている。
未だ現実を受け止め切れぬ様に、立ち尽くし続けている。
「……アオタ。」
ぼそりと、アッシュが初めて声を発した。
振り絞る様に、何かを願う様に、…謝る様に。
癖の有る独特な発音で、彼は予想外の事を喋り出した。
「オレ、本当ハ――…化物なんダ。』
ずっと明かそうと思って明かせなかった、過去の話。
『生みの親モ育ての親も居なイ。オレは森デ独りだっタ。』
黙り込んで、独りで抱え続けていた、自分の話。
『あの時オマエが現レテ、オレは嬉しかっタ。』
『あの時オマエが仲間ニしてくレテ、オレは救ワれタ。』
『あの時オマエが、オレを人間ニしてクレタんダ。』
文字を教わった。常識を習った。戦い方を学んだ。
人との付き合い方を、仲間と過ごす日々の楽しさを。
人間の街で、人間として生きて行く方法を、知った。
化物として生まれたアッシュにとっては、この四年間の毎日が宝物だったのだ。
『…壊死病ハ、多分オレが持チ込んだ病気ダ。
オレがあの男ニ、あの宗教ニ、力を与エテしまっタ。
オレがアイツに協力した所為デ、大勢ガ死んだんダ…。』
アッシュは馬鹿では無い、既に黒幕も見破っている。
だが、それは余りにも遅すぎたのだ。もう手遅れなのだ。
彼が純真無垢であり、人を疑う事を知らなかった四年前。
あの頃にジェゴクと関係を持ってしまった時点で、結末は決まっていたのだ。
『アオタ、オレがお前を、殺シたんダ。』
直接的にアオタへ灰素を埋め込んだのは模倣者だ。
だが、その種を作ったのがアッシュであるは確かな事実。
そして、彼らアクヘリードが真に求めている物が何なのかも既に判明している。
『…アイツらは多分、オレの力を求めてル。
灰人トいう幻妖そのものを必要とシていル。
それガ手に入るまデ、殺戮を繰リ返スつもりダ。
だから、オレが行けバ、この壊死病ハ無くなル筈ダ。』
ジェゴクの目的は、己の主神を世界の覇者にすることだ。
異物である人間を取り除き、先を往く化物だけを奉り、
この穢れた世界を本来在るべき姿に創り替えることだ。
だが、其処に主神本体の意向は特段必要とされていない。
彼は、灰人という崇め敬い尊ぶ事の出来る存在さえ手に入ればそれで良かった。
眷属も、信者も、主神すらも。彼にすれば贄に過ぎない。
『オレ、もう、行くナ。……ジャアナ、アオタ。』
自身がこれからどんな目に遭うのか、確と理解しながら。
それでもアッシュはジェゴクの元へ行くことを選んだ。
これ以上、苦しい思いをする無実の民を増やさない為に。
踵を返して、十数時間ぶりの一歩を踏み出して……
――――アッシュの背中に抱き付く者が在った。
右脚も左腕も無い、不均等で不揃いな身体を動かして。
一度は止まったと判断された心臓を無理矢理起動させて。
自らの唯一無二の親友に、最期の言葉を届かせる為に。
「化物だとか、人間だとか。どっちでも良いんだわ!」
罅割れた頬を、アッシュの右肩に乗せながら。
すっかり伸びた青髪を、アッシュの灰髪に当てながら。
死の淵から蘇ったアオタは心の底からの想いをぶつける。
「俺は! アッシュっていう存在を認めてたんだ!!」
死体の腐敗を防ぐ為に開け放たれていた病室の窓から、
サラサラと、アオタから洩れ出ている灰が散って逝く。
此処に来て灰化の侵食度が急激に増加した様で、彼の身体は持って後十数秒だ。
「俺が死ぬのは俺の所為、自分が招いた結果だ!
お前なんかにその責任を横取りされてたまるかっ!」
或る意味では、壊死病がこの奇跡を齎したとも云える。
灰素に込められた『封』の力が、死の流れを抑えたのだ。
彼の魂を、ほんの僅かな時間だけ、現世に留めたのだ。
「…なぁアッシュ、俺達と生きてて、楽しかったか?」
『……アァ、アァ"!! 毎日ガ”最高ニ楽シカっタ!!』
「あははっ、だろ? それで良いだろ。もう、泣くな。」
窓からは突如として冬の冷たい風が吹き込んで来た。
だから、最期に、アオタはアッシュの涙を拭い取って…
「――アッシュ、またな!!」
…彼の魂は、声は、灰は、澄んだ冷気に攫われて逝った。
---
私はただ泣き叫ぶことしか出来なかった。
アッシュさんの呪縛を解いて終わりでは無かったのか。
多くの死者が出ても最後には丸く収まるのでは無いのか。
世界はそういう風に出来ているのでは無かったのか。
…私が見て来た物語がそうだっただけだ。
井の中の蛙大海を知らずとは正に私のことを表している。
綺麗な世界だけを、理想だけを語って。眼を逸らして。
世の中に蔓延る不条理から逃げ続けて来た結果がこれだ。
私は結局、大海へ泳ぎ出すことすらもしなかったのだ。
だから否応無しに小さな井戸を追い出された時、何も出来ずに溺れて沈むのだ。
大勢の人が戦士するという理不尽を。
フヅキさんが灰に呑まれるという理不尽を。
アッシュさんが正気に戻らないという理不尽を。
理不尽から逃げ続けて来た私では、受け止め切れない。
全ての希望を、光を失った私では、もう立ち上がれない。
「…………。」
辺り一帯を埋め尽くす灰死病患者達が私達へ迫って来る。
アッシュさんとの決着前にフヅキさんが追い払った者達。
生存者の気配と匂いを探って、再び舞い戻ったのだろう。
…あの数は、無理だ。とても独りでは対処し切れない。
――その時、掠れた声が眼前の人物から発された。
「……リエル…。」
「っ!?? 待って、喋らないで、すぐに治療…!」
全身のあらゆる部位を灰素に侵されたフヅキさんだ。
あの攻撃を直で喰らって生きているとは、凄い生命力だ。
だが、その命をも時間が経てば灰死病は蝕んでしまう。
兎に角『癒』だ。出来る限りの灰部を治せ、取り除け。
「無駄です。…私はもう、長く無い。」
「ダメ…! 諦めないで! 私が絶対助けるからっ!!」
「だから…、提案です。よく聞きなさい。」
瀕死の重体とは思えぬ力強い、有無を言わせぬ声だった。
延命措置を続けながらも、私は彼女の発言に耳を傾ける。
「化物を倒せば、その妖力の一部を奪い取れるでしょう。
その法則は、その現象は、相手が生物ならば有効です。」
だが、私の集中力は今の一言で完全に切れてしまった。
霧散して行く『癒』を無視し、彼女の顔を見つめる。
「…私は、過去に沢山の化物を討伐してきました。
また、灰死病に侵されている彼ら元人間も同様です。
そして私達は灰素の副作用で妖力が膨れ上がっている。」
「待って、待って…。フヅキさん…、」
「酷なことを言っているという自覚は有ります。
貴方に重荷を背負わせようとしているということも。
だから、これは飽くまでも私の願い。私の最期の我儘…」
「……う…うぁぁ………、」
「『封』へ対抗出来るのは、『癒』しか無いのです。
彼を止められるのは、…リエル、貴方だけなのです。
だから、お願いです。私の身体が完全に崩れる前に…、」
「……っ…ぇぅ……ぁぁああ……!!!」
「……ごめんなさい、リエル。――頼みました。」
かつて、シセルケトに於いてケタイが行使した妖術。
死者が冥府に逝くという流れを促進させる為の『癒』。
必要だったのは覚悟。代償は、…リエルという少女の心。
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もう真夜中だと云うのに遠くの空は茜色に染まっていた。
アッシュは、模倣者が負けたという事を何となくで悟る。
そのことに対して特に寂しさや悲しさは生まれなかった。
彼にとってその幻妖は他人に近く、親友を死に至らしめた仇ですらあったから。
自身を支配していたジェゴクも、既に死んでいる。
仲間とも決別した今の彼を縛り付ける物は何も無かった。
それ故に、したいこともすべきことも見付からない。
責任も役目も放り去った彼は、最早立派な一匹の幻妖と成り下がっていたのだ。
化物も人間も、見付け次第残さず殺してしまおう。
全てが灰に替わった世界の中で、自分の命も絶とう…。
アッシュが描く未来像は、奇しくもジェゴクが目指した理想の光景に似ていた。
「――行かせないよ、アッシュさん…。」
そんな幻妖の背後から、消え入る様な声が掛かる。
声の発信主が保有する妖力は莫大だ。身体から洩れ出る妖力を偽装する方法も知らない様子の彼女に、何年も化物の討伐経験を積み続けていたアッシュが気付いていない筈も無かったであろうが、向こうから呼び止め声が掛かるまでは決して振り返らない所が、受動的な性格のアッシュらしい。何はともあれゆっくりと首を振り向かせた彼が目にしたのは、『癒』特有の桃色粒子を煌々と輝かせるリエルの姿であった。
『フヅキはどうシタ、街ニ居た他ノ病人達ハ? まさカ、全員殺シテ来たカ?』
ただ純粋な興味だけを持って、アッシュがそう問うた。
尋ねられたリエルは、腰に差していた片手剣を引き抜き、
「…うん、殺した。私が皆、殺したよ。」
暗い顔を変えることも無く、淡々と回答する。
普段のリエルを知っている者ならば目を疑うだろう。
其処には、全ての感情を押し殺した無感情の少女が居た。
コロコロと表情を変える可憐な少女は、何処にも見当たらなかった。
「アッシュさんは、まだ支配されてるの…?」
『イヤ、意識ハ澄み切ってイル。九年ぶりノ感覚ダ。』
「じゃあさ、何でそんなに楽しく無さそうなの?」
『オレはアイツの支配ヲ一度として拒んデ無イからダ。』
「フヅキさんのしたことは、お節介だったってこと?」
『アァ、或ル意味そうかもナ。』
「だから、フヅキさんにあんなことをしたの?』
『…イヤ、それハ違ウ。もっと別ノ理由ダ。』
向き合う二人の距離は五十メートルにも満たない程度。
リエルが歩んでいる為、今も徐々に狭まっている状態だ。
今日は静かな夜だ、話すのに然したる不都合は無かった。
『 アイツの居ナイ世界ニ、価値ナンか無いんダ。 』
だから、アッシュの吐き捨てる様な嘆きもよく伝わる。
足を止め、リエルは彼の言葉に聞き入る様に瞼を伏せる。
そして数秒後、開いた藍色の瞳で再び相手を見据えると…
「それは、違うよ。アッシュさん。それだけは違う。」
キッパリと彼の言い分を否定して見せる。
「九年前、確かにお兄ちゃんは居なくなったけど…。
それでも、沢山の人が、今も必死に毎日を生きてるよ。
生まれが化物でも。独りぼっちでも。周りとは違くても。
きっと良いことがあるって信じて、皆生きてるんだよ。」
それは感受性が豊かなリエルだからこそ言える事。
光の少年に、孤児達に、自分自身に寄り添って来たから。
様々な生き方が在るという事を、その全てが美しいという事を知っているから。
「 この世界に価値はあるよ、皆それを信じてるんだよ。 」
この世界を嫌うアッシュの思想を飲めないのだ。
だって、リエルはまだこの世界のことを好いていたから。
理不尽も、疎外感も、劣等感も、無力感も、寂寥感も。
全て味わった上で、不完全なこの世界を愛していたから。
『オレは、コノ世界を滅ぼしたイ。お前ハ?』
「私はこの世界が続いて欲しい。まだやる事があるから。」
『ソウカ、じゃあ、オレ達ハ相容れないナ…。』
二人の視線が交差する。不気味な静けさが訪れる。
そんな沈黙を破ったのは既に覚悟を固めていたリエルだ。
「…私ね、アッシュさんを殺さないといけない。」
タンっと、『癒』を纏ったリエルが一歩を踏み出した。
――瞬間、彼女を中心に眠っていた種子が芽吹き始める。
『…リエル。オレを止められル物ナラ、止めてミロ…!!』
トンっと、『封』を纏ったアッシュが一歩を踏み出した。
――瞬間、彼を中心に生い茂っていた草原が枯れ始める。
此れ迄の戦闘を経て、お互いに有する妖力量は同等。
世界を救うという意志と、世界を滅ぼすという信念。
生物を援け出す『癒』と、生物を死に至らしめる『封』。
果たしてどちらが正しいのかは、戦えば分かる話だった。
お互いの正義をぶつけ合う、最後の戦いが始まる。
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幕開きは非常に緩やかな物で、けれども華やかであった。
『封』に侵された灰色の枯草と、『癒』に恵まれた萩色の生草が、真正面からぶつかり合う。まるで大爆発が起こったのかと錯覚させる程の轟音が鳴り響き、暗い雲に覆い隠されていた夜空もが、対照的な輝きを持つ二色の粒子達により塗り潰された。拮抗した実力を誇る二体の幻妖が戦闘を行った場合に現れる特異な光景。しかしまさかそれを引き起こすのが、游蕩士に成ってから徹頭徹尾支援役として後方に控えていたリエルになるとは。そんな少女と本気で殺り合うのが、彼女の兄が拾い育て死の間際まで気に掛けていたアッシュになるとは。時に現実は予想の範疇から軽々と飛び出してしまう物で…、だからこそ面白い。
一向に動かぬ戦況に見切りを付けて、リエルが駆け出す。
現在の彼女が誇る脚力は通常時の三倍、『光』にも迫る。
ただし飽くまでも一時的な物で、無茶の上に在る強化だ。
後から襲い掛かるであろう筋繊維の反動を考えると恐ろしいが、今は無視する。
目の前の強敵を討つ為ならば、全てを投げ打つ覚悟だ。
「――《花篝》」
ただでさえ開いていた彼女の妖力孔が更に拡大する。
つい数分前、大量の灰死病患者達をその手に掛けて来たとは云え、リエルの他生物討伐経験は基本的に軽少だ。旅の道中で遭遇する様な下等化物との戦闘でも目覚ましい活躍は無く、幻妖の討伐経験も大規模戦闘に於ける玄武と猛殺牛の二匹のみ。積んだ経験の数と質が物を言うこの妖力世界の中で、彼女の有する器が未だ成長段階に在る拙い物だという事は簡単に分かるだろう。そんな少女に止め処の無い膨大な妖力が流れ込み続ければどうなるか…。当然、器の方が先に壊れる。
『…オマエ、死ヌぞ。』
妖力の過剰吸収により細胞が壊死し始めたリエルへ、
敵ながらも流石に見兼ねた様子のアッシュが警告した。
このまま彼女が自爆するのは彼としても後味が悪い様だ。
…だが、リエルは無理な妖力供給を止めようとしない。
彼女が行使しようとしている妖術には未だ足りないから。
『癒』とは、自然な流れを促進させる為の属性だ。
『封』とは、自然な流れを抑制させる為の属性だ。
ではそもそも、これが指す自然な流れとは何なのか?
簡単だ。――妖術使用者の解釈次第で変化する、曖昧な概念のことである。
アッシュは、体内から妖力が流れ出るのは自然な流れであると考える。故に、『封』によりその流れを拒絶し、体内へ妖力を留まらせているのだ。リエルは、体内へ妖力が流れ込むのは自然な流れであると考える。故に、『癒』によりその流れを増進し、体内へ妖力を送っているのだ。『癒』と『封』の二つは根本的に似通った能力であり、背中合わせに在る属性であり、共に万能の効果を発揮する妖術である。
――"進化"…それは、最古にして最強の生存術。
天敵に打ち勝つ為、環境に順応する為、種を残す為。
平等に公正に、世に存在する全生物へ与えられた特権だ。
けれども、今を生きる個々の生物達がその恩恵を肌で感じることは極めて稀有である。何故ならば進化とは、非常に緩やかな変化が何世代にも積み重なって初めて形を成す現象の名前だから。端的に云えば、時間が掛かり過ぎるのだ。意志が関わる物でも無ければ、思惑が絡む物でも無い。ただただゆっくりと、常に行われ続ける、自然的で神秘的な生命の活動なのだ。
――では、そこに意志や思惑が関与するならば?
――進化は自然な流れであると、リエルが考えていれば?
妖術は空想を現実とし、時には常識すらをも覆す。
他植物の遺伝子を書き換える力…、要する妖力は莫大だ。
けれども、今のリエルならばそれを補うことが出来た。
…彼女の手により、前代未聞の妖術が行使される――。
「―――《玉椿》…!!!!」
瞬間、足元の雑草達が尋常では無い速度で成長を始める。
際限の無い増長を促されたそれらは、数秒でリエルの背丈を超え、次第にダストアグ外壁の高度を抜かし、やがて空を泳ぐ煙雲にすら達した。最早進化という枠組みに当て嵌まらぬ、明らかな異常発達。だが、リエルの妖術はまだ終わっていない。むしろ、真価が発揮されるのは此処からだ。
『植物に意思は有るのか?』――この問いは、数千年…或いは数万年前から、研究者達の議論の種として扱われて来た。現代でも活発に取り上げられる議題ではあるが…、私個人の意見を言わして貰うならば、植物に意思は無いと思われる。だが、彼らが人類よりも遥かに優れた適応能力を有していることは確かだ。道路でも、雪山でも、砂漠でも。彼ら植物は凄まじい速度で環境に合わせた変化と進化を繰り返す。
例えば、人間と協力しなければ生き残れないのならば。
例えば、人間の思考を読み取る事が必須となったならば。
例えば、人間と共闘せざるを得ない状況になったならば。
…植物がその様に進化することを、リエルが自然な流れであると捉えたならば。
「…お願いね。」
彼ら植物は、幻妖にすら立ち向かう兵器と成る。
『…………!!』
アッシュは、緑色の怪物が自らに迫り来る光景を視た。
その正体は数万倍にも巨大化した十本余りの雑草束だ。
真正面から愚直に近付いて来るそれを冷静に睨みながら、
広げられたアッシュの右手には灰素が溜められて行く。
かつて、アッシュが紫雲の均整所属游蕩士として活動していた頃。生まれ付き自身を蝕んでいた壊死病を、何とか上手く妖術に落とし込めない物かと。一端の人間らしく、彼にも妖術の試行錯誤に勤しんでいた時代が有る。そうして編み出された妖術は、彼の親友であったアオタを以てしても絶句してしまう程の威力を誇り、多くの游蕩士がアッシュを一流の妖術使いであると認めるに至るまでの良い切っ掛けとなったのだ。
『光』を凝縮して放つ、ヒシ考案の《陽日》の様に。
『封』を凝縮して、対象の細胞を崩壊させるその技は…。
「――《塵芥》」
超成長を遂げた雑草の束を、一瞬にして灰へと変えた。
全生物を死に至らしめるであろう恐怖の灰素砲は、
その勢いを緩めること無く、リエル目掛けて突き進む。
攻守交代、しかしリエルは焦らず次の一歩を踏み出した。
「…………。」
肥料不足、水分枯渇、日光欠乏、土壌不全…。
誰の手入れも施されぬ土地で種が芽吹く確率は如何程か。
発芽が叶わずに、花咲かす事無く消えた種子の総数は。
一体どれだけの生命が、彼女らの足元に埋まっている?
彼女は信じている。全ての生物は救われて然るべきだと。
陽の光を浴びずに消える命が在ってはならないのだと。
何とお気楽な思考。何と能天気な思想。…だが、『癒』には最も適している。
「…みんな、一瞬でいいの。どうか、力を貸して。」
――溢れ出る様に、鮮やかな野草が地面から生え伸びる。
種類は千差万別。花色は多種多様。
本来、山頂に生える草も。孤島に咲く花も。
此の土地に迷い込み、誰にも知られず眠っていた命達。
最悪の不運を引き当て、静かに朽ちていた大量の種子達。
けれども、彼らは死んでいなかった。死を選ばなかった。
地上に這い出て、立派な蕾を付けたいと、願っていた。
だからこそ、それを自然な流れであると信じて疑わぬリエルの祝福に預かれる。
二歩、三歩。彼女が歩く度、新たな命が芽吹いた。
四回、五回。彼女が手を振る度、植物が進化を始めた。
幾重にも立ち並ぶ雑草の防壁は灰素の砲撃を跳ね返す。
天使の通る道を拓く様に、害なす物を取り払って行く。
片手剣を握るリエルは、ゆっくりと歩み続けていた。
…為す術無く、それでも抗う事を止めないアッシュへと。
『…オマエ、何処ニこんな妖術隠シ持っテタ…?』
「さっき思い付いたの。これなら、勝てるかもなって。」
『命を使イ捨てるコトになるト分カっタ上でカ?』
「うん、この戦いを終わらせる為なら…、」
リエルの小指へ、まるで巻き付く様な灰素が付着する。
植物達でも、粉状の妖術は流石に防ぎ切れなかった様だ。
初めはたった数センチの壊死。だが、すぐに広がり出す。
放って置けばリエルの全身を数分で侵し尽くすだろう。
だからこそ、右手に鋭い刃を掲げるリエルは……
「――私はもう迷わないって、決めたから。」
刹那の躊躇いも持たず、自らの小指を斬り落とした。
『……ソウカ。』
アッシュの扱う灰素は、洗練され切った『封』から成る物である。つまり、『癒』の極致に立った今のリエルであるならば、相応の妖力を支払うことで対抗が可能な筈だった。小指に纏わり付いた灰塵を払い除けることなど、ほんの僅かな妖術だけで実現出来ただろう。それでも彼女は、物理的手段に拠る切除を選んだのだ。
それは、彼女が掲げる覚悟の証明。
それは、彼女が背負っている決意の表明。
それは、亡き兄の大親友へ贈る最高限の敬意。
それは、踏み越えて来た数多の命へ送る最大限の謝辞。
「……――《玉椿》……」
リエルの靴底が地面を小突いた瞬間、新たな花が開いた。
大輪の出所はアッシュの背後で、美しい蔓が伸び始める。
四肢を蔓に巻き付かれたアッシュは、沈黙を保っていた。
「……………。」
斜め下前を見続けながら彼の元まで辿り着いたリエル。
次に顔を上げた時、彼女の目に入ったのは…微笑み顔だ。
気の知れた仲間にだけ極稀に見せる、呆れた様な笑顔。
遠い昔にリエルが慕っていた、優しい『アッシュさん』の雰囲気その物だった。
『……お前ノ勝ちダ。コレからモ、精々藻掻き続ケロ。』
「うん、…お兄ちゃんに、よろしく言っといてね。」
―――アッシュの心臓を、リエルの片手剣が突き刺した。
灰素も、植物も。一様にただの粒子と化して散って逝く。
死体となったアッシュの肉体も次第に壊死病が侵し始め…
結果としてだだっ広い草原へ残ったのは、無心の少女と灰色の妖石だけだ。
ダストアグ最終戦。灰神 アッシュ vs 天使 リエル。
――勝者、リエル。彼女にとって初めての単独幻妖撃破。
…今の彼女に、達成感など、微塵も無かった。
---
人っ子独り居ない静寂の灰街をリエルは歩いていた。
何も考えず、何も感じず。目的も無く、ただ進んでいた。
フヅキの指示を受けてリエルが殺した灰死病患者は、飽くまでもその当時に彼女らへ近寄っていた者だけだ。つまり、ダストアグ内には討ち洩らした罹患者達も多く残っていた訳だ。…そんな彼らの死体が、無惨にも彼方此方へ転がっている。皮肉な話だが、彼らを殺した灰死病が彼らの魂を繋いでいたのだ。術者であるアッシュが妖術を解除してしまえば、彼らがただの動かぬ屍に成ってしまうのは当然だと云えた。
さて、そんな死骸が一際多く重なっている広場が在った。
散らばる遺体に目も呉れず、リエルは足を進めて行く。
そうして辿り着いた瓦礫の近く、視線の先に彼らが居た。
『 Pyuii…!! Pyuiii…!!! 』
「…キュペ、良かったな。迎えが来たみてェだぞ。』
一匹は、懸命に『癒』を発動し続ける小さな精霊。
一人は、か細い息を洩らしながらも優しく微笑む男だ。
男には腕が無かった。脚が無かった。片目が無かった。
横腹が欠けていた。指が千切れていた。耳が落ちていた。
それでも、それでも。モズクは、多数の追跡者からキュペを護り切ったのだ。
「…フヅキは、どうなった?」
「ごめん、私じゃ、助けてあげられなかった。」
「いや、責めてねェよ。あいつもきっと同じだ…。」
残った左目を細めながら、モズクは優しく声を掛ける。
キュペの治療を受けながらも、十数分前までの彼は身体のありとあらゆる部位に灰素を生じさせていた。言うまでも無く、灰死病は残酷で凶悪な病気だ。けれども『封』の副作用により、罹患者に痛みは無く、欠損部からの出血も無いのだ。それが、アッシュの死亡によって正常な状態へと戻されてしまった。眼も手も足も耳も頭も内臓も筋肉も神経も抜け落ちた状態で、痛覚だけが取り戻されてしまったのだ。摘出手術中に麻酔だけが切れてしまった様な物だ。その瞬間にモズクへと襲い掛かった苦痛は、到底私達の想像出来る次元の物では無い。
「リエル、スイレンって游蕩士分かるか?」
「うん、分かるよ。」
「街に帰ったら、あいつに伝えといてくれねェか?」
「…うん、分かった。」
今も泣き出したい程に痛いだろう。苦しいだろう。
キュペの『癒』が全くと言って良いほど効かぬ重症だ。
誰が見ても、彼が残り数十秒の命であることは明白…。
それでも、モズクの口から発される言葉は、全てが他者を気遣う類の物だった。
「散々迷惑掛けた、情けない義兄ちゃんで悪い。
プレアも大切だろうが、もっと自分にも気を使え。
ちゃんと飯食え。睡眠も取れ。…絶対に、幸せになれ。」
呼吸をするのも辛いのか、彼は一息で言葉を伝え切った。
キュペをリエルに帰すこと。己が従兄に言葉を遺すこと。
もう役目が終わった。もう頑張る理由が無くなった。
…瀬戸際で保たれていたモズクの気力が切れる。
「…ごめんな、長くなっちまった…。」
「大丈夫、絶対に伝えるよ。約束する。」
「……あぁ……頼ん、だ……―――――。」
瓦礫に背を預けながら。安心した様に笑いながら。
凡人として生きたその男は、誉れある偉人として死んだ。
きっと先に逝っていたフヅキと巡り逢っている頃だろう。
『 ……Pyuii…, …Pyuuu…iii……!!! 』
…彼に妖術を使い続けていたキュペが遂に手を止める。
自分に死者蘇生の力が無いことを恨みながら、涙を流す。
自分の無力さを痛感しながら、大粒の雫を溢れさせる。
「………っ……ぁぁ……ぁぁあああ”…!!!」
そんな眷属の様子を視て、リエルも嗚咽を始めた。
例えば、あの時にフヅキの治療を諦めていなければ…。
例えば、あの時にモズクの救助にまで気遣えていれば…。
例えば、あの時にアッシュと和解の道を探れていれば…。
何処で選択を誤った? 何時が運命の分かれ道だった?
私が選び取って推し進めたこの未来は、正解だったのか?
もっと、皆が救われて幸せになれる結末は無かったのか?
消えない後悔。行き場の無い哀哭。
冷たい冬の夜に、二つの泣き声だけが響き渡った。
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フィルド迷宮攻略及びダストアグ調査遠征。
僅か一夜の内に計四体の幻妖、加え一人の重罪人と接敵。
死闘の末、人類を危ぶめる難敵の殆どは討伐に成功した。
―――遠征に参加した游蕩士の殉職者数、七十四名。
―――完全消滅したアクヘリード信者数、百十三名。
―――化物を考慮した場合の戦死者数、延べ二百三十六。
灰に満ちた大戦闘は、数多の生命を犠牲に幕を閉じた。
…最後に残る命は二つだけ――。
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