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ナノライト  作者: かざぐるま
第六章 Are you a werewolf.
49/57

第五十七話 これまで

 



 リフィと共に、絶えぬ緑の中を進んで行く。

 十一月も終わりを迎えようかという季節、辺りに動物の気配は薄い。既に栄養や食料を蓄え、冬眠状態に移行した生物達も大勢居ることだろう。虫達が騒がしく鳴き続ける夏の雰囲気も嫌いではない身としては少し寂しいが、熊型や蛇型などの危険な化物との遭遇を避けられるという意味では有難かった。まぁリフィが隣に居る限り、化物との会敵は然したる脅威に成り得ないのだが。


「リフィはここら辺まで来たことあるんだっけ。」

 ――『 Keep Away.(近寄らないようにしてたね)』

「じゃあ母さんが家建てたのはリフィと別れた後なんだ。」

 ――『 Last 50 Years.(ここ五十年の間かな)』

「それまではずっと二人で旅してたの?」

 ――『 Stay City.(時々街に留まりながらね)』

「一個の場所に定住はしなかったんだね。」

 ――『 She Hated.(彼女が嫌がってたから)』


 俺の質問に応じて空中の粒子達がその形を目まぐるしく変化させていく。この対話方法にも慣れた物だ。少なくとも、リフィの言葉足らずを此方で補える程度には。むしろ、人型でも無い化物にして言語を自由に操る彼の知能が優れ過ぎていると言うべきか。因みに、『光』を介したこの意思疎通を考案し教育したのも俺の母親らしい。そういう小話をリフィから聞く度に、否が応でも再会への期待が高まるというものだ。


 目指しているのは、夢にまで見た我が家だ。


 十二年前…五歳になる時まで、母と二人で過ごした実家。帰りたいと願い続け、会いたいと縋り付いた、今猶(いまなお)母が居ると云う生家。生死は不明。そもそも真偽も不詳。けれど、行かない訳にはいかなかった。どんな状態でも良い。ただもう一度顔を見たい。俺を捨てた理由を知りたい。帰巣本能とでも言うのだろうか。俺は、導かれる様にして野道を掻き分けて進んで行く。遥か昔の記憶を頼りに歩み続け、絶対的な確信と共に辿り着いた場所には――


『 Kyuun…. 』

「……う~ん?」


 ―――何も、無かった。


 手元の地図と見比べるが…いや、場所は合っている筈だ。

 俺が此処を離れたのは十二年前だ、景色はそう大きく変わっていない。付近で存在感を放っている大岩には登って遊んでたし、あの大樹も記憶に有る。今は草が伸び放題で隠れているが、小石が並ぶあそこは特製花壇の名残だろう。地形は当時のままだ。なのに本来在る筈の住家だけがぽっかり無くなっている。…まさか、更地に成っているとは。込み上げる寂しさで、もう一歩を踏み出すと…


『「 ――!? 」』


 突如として、虚無から一軒の家が生み出された。


 愕然としながら思わず後退すると、再び視界から家屋が消え失せる。リフィが何かを訴え掛けるように見つめて来るが…俺も既に理解している。此処には『光』の妖術が働いている。それも、気配を洩らさぬ様に細工されて。妖術による視覚的偽装と、妖力操作による探知対策…云わば、隠蔽の隠蔽。念に念を入れた徹底的な秘匿。成程、これなら、元から正確な座標を把握している俺でも無ければ辿り着けない。


「……ただいま。」


 生涯で何度触れたか分からない、慣れ親しんだ扉を押し開ける。幼かったあの頃のように声を飛ばすが、応答も出迎えも返って来ることは無い。靴を脱ぎ、軋む床を踏み締め、大きく息を吸う。…あぁ、懐かしい紙の匂いだ。右にも左にも溢れんばかりに在る書物が、けれどもしっかりと整頓されていた。俺の好きだった絵本、母さんがよく読んでいた歴史書、二人で読んだ図鑑。ぴっちりと本棚に揃えられた蔵書達には、その全てに思い出が詰まっている。十数年という時を経て一面に埃を被ったそれらを、本好きで綺麗好きだった母さんがもしも目撃してしまえば、あらゆる家事を後回しにしてでも家全体の大掃除に取り掛かることだろう。


 ――逆に言えば…。


 …リフィの話を聞いた時から、覚悟はしていた。

 実際にその光景を目にしても動じないつもりだった。

 俺はもう大人で、この概念にも数多く触れて来たから。

 けれど、改めて、肉親がそう成っているのを目視するのは、辛いものがある。


「母さん…。」


 寝台には、安らかに眠る母の姿が在った。

 流れるような承和色の長髪を下敷きにしながら。

 赤子のように滑らかな五本の指を腹部で重ね合わせて。

 ただ眠っているだけでは無いかと錯覚してしまう程に。

 けれども呼吸を完全に途絶えさせて、――俺の母親は、亡くなっていた。


「…こんなに、綺麗に…。」


 驚くべきは、身体の腐敗が一切進んでいないことだ。

 息を引き取るその瞬間の状態を見事なまでに保っている。十二年間の遺体安置という奇跡を可能にしているのは、間違い無くこの『光』だろう。見れば、眠る母さんを囲い込むように薄い半透明の壁が設置されていた。俺の《箱庭(はこにわ)》に酷似しているが、…恐らく時間操作系の作用が働いている。自身の死後にも永続的に効果を及ぼす妖術、俺にとっては未知の領域だった。


「これは、日記かな。」


 美しさすら感じさせる死体から目を離し、隣の机に視線を移す。母さんが愛用していた机の上には、計八冊のノートが置いてあった。横にはインクの枯れ果てた万年筆が転がっている、…死の間際まで握っていたのだろうか。きっと、これの中身を視れば全てが分かる。


 そう思った俺は、一冊目の表紙を手に取った。




 ---


 ◇ S.R.12/6/5


 アウロスが『日記』という物を提案してきた。

 良い記録になるし、文字の練習にもなるからと。

 イマイチ必要性が分からないけど、書いてみる。

 とりあえず記憶を遡って、私が生まれたその日から。



 ◆ S.R.9/4/1


 気付けば九人の何かに見下ろされていたのを覚えている。彼らが話す言葉は初めて聞く物だったけど、何故か意味は通じた。笑顔で手を差し伸べられて、私は訳も分からずにその手を取った。



 ◆ S.R.9/4/5


 数日間生活を共にして、彼ら人間のことが分かって来ていた。倒れていた私のことを最初に見つけてくれたのが『アウロス』。いつもぼんやりとしてるけど誰よりも優しくしてくれるのが『ルルモ』。他にも七人の優しい人間が居て、後もう一人『オミナス』って名乗る人が居た。彼ら十人は大自然の中で助け合いながら生きているらしい。私は十一人目だ。



 ◆ S.R.9/5/10


 この辺りで私だけが使える奇妙な力が判明した。

 指先から明るい『光』を出せたのだ。他の人間には出来ないみたい。頑張ればそこから火種を作ることが出来たから、火起こしがいらなくなった。皆は口々に感謝してくれたけど、オミナスの眼だけは笑ってなくて、ちょっとだけ怖かった。



 ◆ S.R.10/8/26


 この日、十二人目の人間が私達の村にやって来た。

 頭に角が生えている、私達とは違う珍しい姿の人間。

 けど、優しい人だったから、すぐに皆に受け入れられた。



 ◆ S.R.10/9/9


 毎日のように新しい人間が村を訪れるようになった。

 アウロスは全員を歓迎して、今じゃもう三十人くらい。

 姿は違くても、皆仲間だ。賑やかなのは好きだし、私も嬉しかった。



 ◆ S.R.10/10/18


 この時の人数は百人ぐらい、何とか全員の名前も覚えれた。昔はオミナスに任せきりだった狩りも、もう自分達で出来る。村に住むほとんどの人間が、不思議な力を使えたからだ。最初の十人は違うけど…。お肉も野菜もお水ももう困らない。段々と暮らしが良くなって行った。



 ◆ S.R.12/1/11


 この日で村の人数が二百人を突破した。

 記念すべき二百人目は、小さな小さな子供だった。

 それも、村の外から来ずに、村の中で生まれたのだ。

 よく分からなかったけど、オミナスは"赤ちゃん"って呼んでいた。昔よりも体が大きくなったルルモは、その赤ちゃんを抱いて泣いて笑っていた。



 ◇


 取り敢えずこれまでのことは書いたけど、

 ねぇ、アウロス。これ本当に意味あるの?

 …うん、まぁ、そんなに言うなら書くけど…。



 ◆ S.R.13/2/24


 一年くらい存在を忘れてたけど、たまにはこの日記も書こうと思う。私達の生活は至って平和だ。村人はそろそろ四百人を超える。『エリック』も『ラピット』も『グムタイ』も、皆もう子供が居る。初期の十人でまだ子供が居ないのはオミナスとアウロスだけかな。私も欲しいなとは思うけど…、そもそも子供ってどうやって作ってるの? アウロスにそれを聞いてみたら、すごい気まずそうな顔をしてた。変なの。



 ◆ S.R.13/3/16


 怖い。怖い。ペンを持つ手が今も震えている。

 夜ご飯を食べた後、今日は珍しくオミナスに呼び出された。彼女は『そろそろ時期ですね』って言って、何故か私のことを眠らせた。次に目を覚ました時、私の服は全部剥がされてて、素っ裸の状態だった。横に立つオミナスは溜息を吐いて、『やっぱり欠陥品ですか』って一言。その瞳には、光が無かった。ねぇ、欠陥品って、どういう意味? 私は何がダメなの?



 ◆ S.R.13/4/2


 夕食後、今日はアウロスに声を掛けられた。

 好きですって、急に告白されて、本当にびっくりだ。

 けど、私はそれを断ってしまった。何でかは、分からない。ただあの日、オミナスに告げられた言葉だけが頭の中をグルグル回ってた。私は、何かが欠けているらしい。人間として生きて行く為の何かが。肝心の欠けている物は分からないけど、こんな体ではアウロスに見合わない、それだけは確かだったから、断った。



 ◆ S.R.13/4/4


 一昨日からまともにアウロスの顔を見られない。

 今日も逃げるようにして、村の外で狩りを続けた。

 化物と呼ばれる獣達は強いけど、私の力があれば問題はない。



 ◆ S.R.13/4/7


 初めて、人間が死んだ。それも、二人。

 一人は逞しい男で、一人は優しい女――『ルルモ』だ。どうやら、畑を耕していた時に、化物に襲われたらしい。村の第一子である幼い子供は泣いていた。私も当然悲しんだけど、地面に転がる一つの石からは目が離せなかった。それは、化物を狩ったときに現れる妖石と呼ばれる物体で、何故か、男が死んだ瞬間にポトリと落ちたのだ。ルルモが死んだ時には、付近に妖石らしき物が出現した様子はなかった。その瞬間、私の中で全ての要素が繋がって、一つの答えが導き出された。



 ◆ S.R.13/4/8


 夕食の後、今日は私からオミナスを呼び出した。

 幾つか確認したくて、彼女なら教えてくれると思ったのだ。…一応補足しておくと、彼女は決して嘘を付かないらしい。真に"人間"と分類されるのは最初に居た九人だけ? ――彼女は肯定した。後から来た人達は、私も含めて全て"化物"に分類される? ――彼女は肯定した。化物の中にも、人間と子供を成せる個体が存在するの? ――彼女は肯定した。私は、子供を作れないの? ――彼女は、無表情に補足説明を始めた。


 曰く、器官はあるけど機能がないってことらしい。

 見掛けは問題無いが、内面的な部分が欠如していると。

 そしてはっきりと、『人間との子供は作れない』って、オミナスは言った。



 ◆ S.R.13/4/9


 今日の早朝、誰にも言わず村を抜け出した。

 私達…いや、彼ら人間にとって、最大の幸福は子を成すことだ。少なくとも、オミナスに教育されたアウロス達はそう信じている。だから、私は欠陥品なのだ。その幸せを得て、与えてあげられないから。持ち物は紙とペンとインクだけ。それ以外の物は、全部村に捨てて来た。アウロスから貰った『ヒカリ』という名も、もう永遠に名乗ることは無い。これで良い。これで良かった。だよね、アウロス。大丈夫だよね。……ねぇ、アウロス。やっぱ、独りじゃ寒いよ…。



 ◆ S.R.50/8/15


 どうやら、一匹の化物が聖なる白龍の群れを滅ぼしてしまったらしい。その化物は始めて見る顔だったけど、笑顔からは底知れない狂気を感じた。遠くから眺めていると、惨い狩猟の最中にオミナスが現れたのを確認出来た。彼女はその人型の化物と喋って、唯一生き残った幼い白龍を引き取って行ったみたいだ。そんな訳が無いけど、転移の寸前に私に向かって微笑んでいた気がする。怖いな。



 ◆ S.R.70/12/24


 人間(に似た生物)達は、着々とその数を増やしているみたいだ。ふと通り掛かった大陸の端っこで、ちょうど狼と人の村が生まれていた。あの狼人間は、何の支障も無く子供を儲けることが出来るのだろう。少し羨ましいって感じてしまったから、私はすぐに背を向けて逃げ出した。



 ◆ S.R.76/5/19


 巨大な人型の化物と遭遇した。

 ガラガラの声で、誰かのことを罵っている。

 血塗れの体で、私を見付けるなり殴り掛かって来た。

 ちょうど試したいことがあったから、檻の中に閉じ込めて置いた。



 ◆ S.R.85/6/30


 谷の底で大きな戦闘が起こっていたらしい。

 暗くて見づらかったけど、オミナスが居るのは視えた。

 それにしても、あんな石ころみたいな形の化物もいるんだ。新発見だ。



 ◆ S.R.103/9/8


 おかしい、おかしい。最近酷く体の調子が悪い。

 吐き気がするし、怪我は無いのに眠気が収まらない。



 ◆ S.R.103/10/11


 食欲が無いのに、お腹だけが段々と膨らみ始めた。

 太った? 何も食べて無いのにそんなこと有り得るのかな。



 ◆ S.R.104/1/24


 何でこうなったのかは分からないけど、何が起こってるかは分かった。ルルモが苦しんでいた体の変化と全く同じ。つまり、子供が生まれる前の準備。私は人間との子供は作れないんじゃ? そもそもこれは人間との子供なのかな? 怖い、ずっと怖い。どうしたらいいの? 私は今から何を産もうとしてるの?



 ◆ S.R.104/4/29


 遂に、子供が生まれた。

 子供は驚くほどに静かだった。

 泣くと思ってたのに、一切声を出さない。

 もうどうしたら良いか分かんなくて、子供の時間を止めた。『光』の箱を作って、その子をその中に閉じ込めてしまった。ルルモはこんなことしてなかった。優しく、我が子を抱き締めてた。けど、私には出来ない。この子を抱いてあげられない。怖くて仕方が無い。



 ◆ S.R.109/5/7


 瞼が重たい。きっと、もう眠る時間なのだろう。

 この瞳を閉じればもう二度と目覚めない、そんな確信がある。けれど、五年前に私が生んだ子供には本当に悪いことをした。あまりに緩やかな時の中、生後間も無い状態で五年間の放置だ。おまけに私は死ぬ前に妖術を解除しようとしている。残酷だろうけど…、一応生きて行けるだけの物資は置いてある。けど、ただの赤子だしな…。…こんなお母さんでごめんなさい。でもどうか、貴方には。私とは違って、幸せに生きて欲しいな。


 ---




 …言葉が出てこない。

 母さんも昔は人間に育てられてたのか。

 けど自ら離別して、数十年間大陸を彷徨って。

 子供を産んで、死んだらしい。でも、俺は知っている。

 前にリフィから聞いた話では、百年ごとに転生をして…。

 ――見れば分かるか。俺は二冊目のノートを手に取った。




 ---


 ◇ S.R.?/?/?


 私はなんで生きているんだろうか。

 確かに一度は死んだ筈だ。今居るこの場所で。

 体の中に何かが入り込んで、溶け出している感覚が有る。

 空っぽのバケツに注がれた水が行き渡ってゆくような…。

 抜け殻として育ったこの幼い体に、私の意識が徐々に定着して行く。



 ◆ S.R.114/6/13


 近くに拓かれていた人間の村で現在の妖星歴を確認することが出来た。私が死んだ日から五年が経っている。つまり、この体は五歳ということだ。何故、自分が産んだ体に自分の意識が宿っているのかは未だ分からない。ただ一つ。私はまた生涯を繰り返すのだと、途方も無い未来が視えていた。



 ◆ S.R.127/2/2


 そういえば、近頃の人間は"街"という物を作り始めたらしい。村よりも規模が大きく、より多くの人間が集まる集落のようだ。それに応じて"防衛団"や"游蕩団"という自衛組織も発足したのだとか。今日ふらりと立ち寄った街では、一人の女性の葬式が行われていた。元祖街長、初代防衛団団長…よく分からないが凄い立派な人だったのだろう。街には『癒』の妖力が色濃く残っていた。その源流は眠らされているが…。



 ◆ S.R.189/11/16


 面白い人と出会った。厳密には化物か。

 フードを深く被った、緑眼緑髪の男性だ。

 種族名を死神(シニガミ)と呼ばれる彼は既に人間と縁を切ったらしい。というよりも、彼の愛していた人間が他界して、人類と関わりを持つ理由が無くなったのか。見れば死ぬと云われる不吉な化物は、全てを見通す穏やかな瞳を持っていた。



 ◆ S.R.204/5/12


 この体に移って凡そ九十五年経った今日、子供を産んだ。

 例の如く『光』の檻に閉じ込め、時の流れを極限まで遅らせる。どうせ、私が産んだのは抜け殻でしかない。扱いは雑でも大丈夫だ。…教えてよ、アウロス、ルルモ。出産って、こんなに冷たい物なの?


 ---




 ここで二冊目の記録は途絶えていた。

 途中に出て来た『癒』の源流ってのはキュペかな。

 ビトラスは、あの子が数百年ほど眠っていたと言っていた筈だから。途中で綴られていた死神(シニガミ)の記述は気になるが…。内容は薄めで、それ以外の箇所にその種族名が現れることも無かった。まだまだ序章だ、三冊目に移ることにする。




 ---


 ◇ S.R.214/3/4


 遺して置いた仕掛けから今日の日付が把握出来た。

 やはり、五歳程度まで成長すると私の意思が蘇るらしい。

 三度目の百年。特に、特別な感情を抱くことは無かった。

 ただ情報を集めながら大陸を旅して行く。今回も、それだけだ。



 ◆ S.R.226/12/25


 一匹の化物…最近は幻妖というらしいが、そいつが村を襲っていた。破壊の限りを尽くす不死蛇(ヒュドラ)、立ち向かうは九尾狐(ルクス)。人間の生存者はゼロ。満身創痍の九尾狐(ルクス)はそれでも不死蛇(ヒュドラ)に挑み続け、敢え無く撃沈されていた。見兼ねた私は九尾狐(ルクス)の前に歩み出て、『闇』と『石』の首を消し飛ばした。あういう手合いは傷口を焼き切ってしまえば良いのだ、そうすれば復活しない。或る程度消耗させた不死蛇(ヒュドラ)を過去最大級の檻に閉じ込めた後、私は九尾狐(ルクス)に契約を持ち掛けた。どうせ、永劫に転生を続けるのだ。同じく不老の補佐役をちょうど欲していた所だ。



 ◆ S.R.309/6/16


 三代目のこの体が寿命を迎える前に、考察を書き遺して置く。従前の研究により、化物の復活周期は通常二十年であることが分かった。また、化物を生み出す母体的超越存在が居ることも現状ほぼ確定している。九尾狐(ルクス)――リフィが有する"交信権"の会話対象はそいつであるらしい。そいつは自ら進んで化物を生み出すのでは無く、止むを得ず産出を行っている。死んだ化物の中核(※妖石では無い)を二十年練り、再び地上に吐き出すのだ。この工程は一種の生理現象にも似た、或る意味どうしようもない働きだろう。


 そこで、だ。私は地上でその流れを塞き止める試みを始めている。巨人(ギガース)に始まり、不死蛇(ヒュドラ)なども計画の内だが、要は生き殺しにしておくのだ。強大な化物を『光』の檻に封じ込めてしまい、時間を引き延し、放置する。ただ討伐するだけでは二十年の安全しか保障されない。だから、永遠を目指す。


 何でこんな計画を推し進めようとしているのか、自分でも分からない。暇潰しと言えばそれまでだが…。私はこの世界に対する向き合い方を見付けた。それは『中立』。化物にも付かず、人間にも付かない。傍観者としての立場。私が用意した舞台装置をどう使うのかは、後に生まれる生物達次第だ。善が活用するのかもしれないし、悪が利用するのかもしれない。そうやって変動を繰り返す世界を、私はただ眺め続けるのだろう。


 ---




 どうやら、この頃の母さんの心は荒み切っているようだ。特に目的も無く、ひたすら生きる死ぬを反復していれば当然か。最後の計画という物に興味を惹かれるが、好奇心を抑え、四冊目を開く。




 ---


 ◇ S.R.314/6/27


 これで四代目の体に成った。



 ◆ S.R.322/7/18


 最近、大陸南を分かつように聳え立つ山脈に変化が在ったらしい。噂によると、『封』を扱う男が坑道を開通させてしまったのだとか。精霊を持った人間はそこまで育つのか、私は契約を経ても恩恵が少なかったが。むしろ私からリフィの方へ、幾何かの妖力が流れ出た覚えがあったりするが…。



 ◆ S.R.351/11/7


 私は今日、一つの街が滅びる瞬間を目撃した。

 湖の底に沈んだのは、谷底の街…名称はディプバーレ。まるで複数の意思をその身に宿したかのような白熊が暴れたのだ。リフィは今にも飛び出しそうだったが、私が止めた。どうせ全滅している。しかし、条件さえ揃えば迷宮産の化物でも精霊に昇華出来るのか。それを知って名付けを行っていたオミナスは、私よりも格上ということだろう。


 ---


 ◇ S.R.414/7/31


 五代目。出発しよう。



 ◆ S.R.429/1/1


 新たに地の精霊と為ったのは、鹿型の化物だ。

 オミナスに与えられた名前はガイア。良い響きをしている。地の精霊の性格は『静観』。その属性を司る精霊は、過去の個体達も非常に穏やかな品性を宿していた記憶が有る。我関せずの立場を貫き通す彼らの主義を、私はとても気に入っていた。



 ◆ S.R.476/8/13


 久しぶりに他者からの奇襲を受けた気がする。

 基本は姿も妖力も隠しているから、存在すらもバレない筈なのだが。今日襲って来た夢食は、それを見破る程の実力者だということだ。書いている内に思い出したが、あの男は少し前に白龍を滅ぼした奴か。道理で強かった訳だ、使う妖術も今までに見たことの無い類だった。やたらと私の妖石に執着していたが…、"適体"だと見抜かれてたか?


 ---


 ◇ S.R.514/7/21


 例の如く、六代目のこの体は私の妖石を飲んだらしい。もういっそのこと、この連鎖を止めてくれれば良いのだが。自分で手を汚さず誰かに任せようとする当たり、私は幼稚なのだろう。



 ◆ S.R.520/2/28


 今日は四匹もの幻妖を捕らえることが出来た。

 気配を手繰って駆け抜けると、五匹の幻妖に襲われる街を発見したのだ。普通に考えて勝てる筈が無い相手だ。青竜(ロアッグ)を討伐しただけでも大健闘だろう。朱雀(モーダル)玄武(ソリッド)白虎(ファズト)の捕獲は容易かった。私ですら手を焼いたのは麒麟(ザスター)だ。断言しよう、あいつだけは次元が違う。あれが野に放たれれば人類が滅ぶぞ。



 ◆ S.R.567/3/24


 色とりどりの仮面を被った五匹の魔人(デビル)を見付けた。どうやら『紫』の仮面を付けた奴が、他の四匹に勧誘を受けていたらしい。化物同士の共同体か。中々面白い物を見たが、彼らにはあまり近寄りたく無い。


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 ◇ S.R.614/8/4


 七代目。この転生にも慣れっ子だ。



 ◆ S.R.698/12/14


 一匹の洗熊が彼の楽園から追放されるのを視た。

 化物の天国とまで呼ばれるあそこから追い出されるとは、どんな悪者だ?そんな興味を持って様子を窺っていた私は、すぐに己の勘違いに気付いた。即ち、あの洗熊――否、あの闇の精霊は、自ら望んで楽園を捨てたのだと。ただ心沸き立つ闘争だけを求めてウィズダム園を飛び出したのだと理解した。



 ◆ S.R.708/9/7


 これまでの傾向から考えるに、そろそろ妊娠期間が始まる。だからその前に一つだけ、予てから考えていた検証をしておこうと思う。楕円上に広がるこの大陸は殆ど探索済みだ。そろそろ、海を超えても良い頃合いだろう。リフィには留守番を頼むことにして。――私は明日、星の裏側へ往く。


 ◆ S.R.709/9/8


 契約を結ぶことに成功した。

 ここで視た物を日記に書き遺すなと。

 過去の物は見逃すが、これ以上の幻妖投獄は禁ずると。

 条件を飲むならばお前に最大限の幸せを施してやれると。


 彼は言った。最期の百年間を有意義に過ごせと。


 ---




 四~七冊目はパッと流し読みするだけで終わらせた。

 言及されている精霊は古い順にサラキア、ガイア、ディンか。途中には風の精霊エンリルらしき記述もあったが、重要度は低めの為省略する。五匹の幻妖に襲われた街はシセルケトか、やはり大分過酷な戦いだったようだ。また、転生の方法も判明した。どうやら妖石に宿った意思を肉体へ移すらしい。倫理的に問題が在りそうな手法だが、何せ妖星歴九年に産出された化物だ。恐らくこの惑星に於ける初めての人型化物、一つや二つの特異性は仕方が無い。オミナスが"欠陥品"と罵った理由を悟りながらも、最終巻に手を伸ばす。




 ---


 ◇ S.R.714/8/4


 さて、与えられた猶予は約九十五年。

 彼を完全に信用出来るかは計り知れぬ部分だが、

 もしも本当なら…。いや、良い。今はあの言葉に縋ろう。

 悔い無く輪廻を終われるように。最後の我が子を愛せるように。



 ◆ S.R.720/12/17


 本を作ろう、そう思い立った。

 いずれ産まれて来る子供に、私が関われる時間はたったの五年。五年が経てば、私はまだ幼い我が子を置いて独り逝かなければならない。この過酷な世界で齢五歳の幼子が生きて行けるという保証は何処にも無い。だから、世界中のありとあらゆる知識を集めて、この世界に遺して置こう。



 ◆ S.R.721/3/15


 色々と吟味した結果、このアータミンという街が最も適していると結論付いた。まず何よりも、現時点で百五十年の歴史を誇るだけあり書館の保管物が豊富だ。治安の悪さは欠点だが、その分孤児も多い。少女の姿でも容易に溶け込めた。リフィには何処か街の外で暇を潰して貰うとして、――暫くは此処に篭ろうか。



 ◆ S.R.749/10/22


 この街に住み着いてから三十年弱、初めてオミナスと遭遇した。とは言っても、前の体で惑星の裏側へ行った時に顔は合わせているのだが。彼女は数百年の時を経ても驚く程姿が変わらない。服もいつも真っ白だ。人間とも化物とも付かぬ奇妙な知性体であることは確かだが、正体は不明だ。あまり詮索して処分されるのも好ましく無いので、余計な発言は控えたが。少なくともあの笑みは何かを企んでいる時の顔。――厄介なことになりそうだ。



 ◆ S.R.753/7/20


 地獄犬(ヘルハウンド)という幻妖を討伐する為、大規模な遠征隊が結成されていたらしい。戦果は二匹の地獄犬の首で、今日行われた凱旋では街が熱気に溺れていた。しかし前游蕩団団長が戦死したようで、新たな団長が求められているとか。…行列の戦闘に立つ暗い顔をした青年が、やけに私の目を引いた。



 ◆ S.R.767/2/9days,


 リフィが街の離れで三人の家族に出会ったらしい。

 二人は化物で、一人が人間。リフィはペット扱いだとか何だとか。顔を輝かせ嬉しそうに語って来たが、私は冷めた心で忠告をした。人間に深く関わるなと。少なくとも、オミナスが監視者として君臨している内は。人類はどれだけ時が経とうと彼女の掌の上だ。都合の良い駒として使われるだけだぞ。



 ◆ S.R.771/9/10


 …だから、言ったんだ。

 今日、一匹の魔人(デビル)がアータミンを陥落させた。それを止めようと藻掻く鬼人(オーガ)。リフィも加勢しようとしていた。そこで、私は立ち塞がったのだ。ここで退け、それがお前の為になると。カッとなって口走った()()という言葉が、よもや現実になるとも知らずに。もしリフィがこの日記を視ているならば…ごめん、酷いことを言って。ごめん。



 ◆ S.R.773/1/28


 私の子が暮らす為の、私が死ぬ為の、家が完成した。

 始めて作ったが、我ながら中々良い出来栄えだと思う。

 下準備はこれで大丈夫。後は、本を書き写すだけだ。



 ◆ S.R.804/4/26


 記憶に詰め込んだ全ての知識を本に書き起こすことが出来た。小説を絵本にしたり、図鑑の絵を描いたり、物語をゼロから創ったり。思っていたよりも長大な時間が掛かってしまったが、準備は万全だ。後は、もう少しで産まれるこのお腹の子に最大限の愛情を注ぐだけ。…凄いね。子供って、お腹を蹴るんだ。こんなにも、温かい重みなんだ。



 ◆ S.R.804/8/2


 遂に産まれた。


 ---




 隣ではリフィが小さく喉を鳴らしていた。

 彼にとっても、母さんとの絶縁は辛い思い出だったのだろう。この日記を読んでその哀しみが少しでも和らいだのなら僥倖だ。ただ…、これで八冊目は終わり。俺が本当に知りたいのはこの先なのだが。肩透かしを食らい、惜しむように視線を真下に落とすと。――それを見付けた。


「…九冊目…!」


 床に転がっていた所為か、埃を被り切っている最後の日記を持ち上げる。俺が知りたかったのは、母の心情。俺との生活で、一体何を感じていたのか。きっとこの一冊には、十二年間求め続けた問い掛けの答えが詰まっている。…稀代の骨董品を触るかのような慎重さで、俺は九冊目の表紙を捲った。




 ---


 ◇ S.R.804/8/3


 その子は、有らん限りの生命力を使って産声を挙げた。

 己の誕生を証明するように。己の存在を知らしめるかのように。私にとって八度目の出産。けれど、私は初産のような気分でその子を抱いた。その子は、本当に温かかった。今までの、私が潜り込む為の抜け殻では無い。生まれた瞬間から意思の宿っている、紛うこと無き本物の子供だった。ありがとう。私の元に産まれて来てくれて。どうか、大きく元気に育ってね。



 ◇ S.R.804/8/4


 初めて、母乳という物が体から出た。

 今までの体では必要の無かった機能だからだ。

 初めて、我が子が健やかな寝息を立てて眠る姿を視た。

 今までの御産では直後に『光』で閉じ込めていたからだ。

 何て、幸せなのだろう。明日も、また明日も、この子を抱けるのか。



 ◇ S.R.804/8/5


 男の子だ。今まででは決して有り得なかった我が子の性別。黄色い髪や金色の瞳は確かに私の子供であることを示していて、けれども微妙に異なる遺伝子構造が私と同一体でないことを知らせて来る。彼に相談を持ち掛けて、本当に良かった。元凶は彼だが、救世主も彼だ。この子宝を授けてくれた事に、今は感謝で.,(追記:急に泣き出しちゃって、あやしてた。)



 ◇ S.R.804/8/6


 名前を付けよう。この子の存在を私が承認しよう。

 おこがましいかも知れないけど、良い。私はこの子の母親だ。私の名前はヒカリ。アウロスは本当に良い名前をくれたと思う。そうだな。この子は、…『(ヒカリ)』の子だ。(わたし)の子だ。光り輝く宝物だ。子…し…シ。至高、至幸、至宝。光に関連する文字も入れたいから…。


 ――決めた。この子は『ヒシ』だ。


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 読み進めて行く。

 母さんが紡ぐ日記を。



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 ◇ S.R.805/2/19


 ヒシが初めて喋った。今日は記念日だ。

 単語は『ママ』。私が自分のことをママって呼んでたからかな?短い一言だったけど、何回も、繰り返して。小さい口で、ママ、ママって。書いてたら涙出てきちゃった。ダメだな、この日記も大切にしないと。ヒシの成長を書き綴った、どんな本よりも大切な一冊なんだから。



 ◇ S.R.805/2/20


 少しずつだけどヒシに歯が生えて来たみたいだ。

 雪みたいに真っ白で、小指よりも遥かに小さい乳歯。

 ニコニコと笑う顔によく似合ってる。大事に磨こうね。



 ◇ S.R.805/2/21


 ご飯を作ってて見逃した! 最悪だ!

 ヒシが小さな椅子に掴まって立ち上がったのだ。

 いつの間に練習したのってぐらい、安定感のある掴まり立ちで。近くの家具を使って何とか私が居る場所まで辿り着こうとしてた。勿論そんな上手く行かずにすぐ倒れてたけど、子供の成長は本当に凄い。手を叩いて褒める度に見せるその自慢気な顔、何とかして記録に残したいぐらい可愛らしかった。


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 読み進めて行く。

 一日と欠かさずに書かれる日記を。



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 ◇ S.R.805/8/2


 ヒシ、一歳の誕生日おめでとう!

 髪の毛もふさふさになって、言葉も一杯喋ってくれて。あんな小さな赤ちゃんだったのが嘘みたいに大きくなったね。頑張って準備した誕生日ケーキも喜んでくれて本当に良かった。蝋燭で髪が燃えそうになったり、頬にクリームがべったり付いたり…。まだ危なっかしいし無邪気だけど、ヒシはすぐ大人になっちゃうんだろうな。これからも、太陽みたいな笑顔を見せてね。…あと、四年しか無いね。


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 読み進めて行く。

 愛情の詰まった日記を。



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 ◇ S.R.807/12/21


 ヒシは今日も外で遊んでたみたい。

 木から落ちたって言ってたけど、体は無傷。

 多分、私の変な体質まで受け継いじゃったんだろう。

 それが喜ばしいことなのか、嘆くべきことなのかは分からない。化物として生きて行くなら、きっとその再生能力は大いに役立つ。けど、最近私も考え始めてるんだ。ヒシにとって、何が幸せかなって。


 ◇ S.R.807/12/22


 丸一日、ヒシに色々な本を読み聞かせた。

 森の王者の絵本と、楽園の主の絵本は特にお気に入りらしい。両方とも読みやすくする為に結構苦労したから、嬉しかった。好奇心旺盛なこの子は、もしかしたら将来的には実物に会いに行くのかもな。…うん。明日からは化物の図鑑も見せてみよう。きっと生きるのに役立つから。


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 読み進めて行く。

 母親の苦悩が写された日記を。



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 ◇ S.R.808/8/2


 四歳を迎えた愛しの我が子は、静かに眠っている。

 あれだけ美味しいと言ってくれれば、料理の作り甲斐があるというものだ。誕生日プレゼントは、木を彫って作った模擬剣。欲しがってたもんね。…残り一年だ。ヒシと過ごせる時間は、私の寿命は、後一年しか無い。贔屓目無しに言うが、ヒシには戦いの才能が有る。天賦の才という物だろう。私が教えた『光』の妖術はみるみる内に覚えるし、本人も戦闘は好きらしい。だからこそ、だ。私はこの子を人間の街に預けるべきでは無いかと思っている。ヒシは、戦いと同じかそれ以上に、他人という物が好きなようだから。


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 読み進めて行く。

 徐々に意思が固まって行く日記を。



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 ◇ S.R.809/8/1


 明日だ。運命の日は、明日。

 時間が流れるのはどうしてこんなに早いんだろう。

 八百年の内、たった五年。あまりに短すぎる時間だ。

 願わくばあと数年…いや、数百年でも数千年でも一緒に居たい。この子が強く大きく成長して行く様を、ずっと隣で視続けていたい。でも、それは許されない。明日が、ヒシの、或いは私の、巣立ちの日だ。うん。もう、心は決まっている。私は明日、ヒシのことを人間に託そうと思う。


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 読み進めて行く。

 最後の最期の、一ページを。



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 ◇ S.R.809/8/3


 あぁ、ダメだな。こんなギリギリまで粘ってしまった。

 もう殆ど体も動かなかったのに、無理をしてしまった。

 多分だけど、私の寿命は昨日で尽きていた筈なのだ。

 未だ命が有る今日という日は神様がくれたオマケかな。

 けれど、ヒシを預けることが出来て、本当に良かった。

 アウロスの面影を感じさせる、優しそうな男性だったな。

 家の中からは、ヒシと歳の近い少年の気配も感じた。

 ヒシとは、きっと、良き兄弟になってくれるだろう。

 …最後に触れた、ヒシの細い髪の感触が忘れられない。


 もう一度、触れたい。

 もう一度、頭を撫でたい。

 声を聴きたい。顔を見たい。

 あの愛おしい微笑みを視せて欲しい。


 けど、もう駄目なのだ。もう私は逝かなければならない。


 五年か。短かった。でも、本当に幸せだった。

 得られないと思っていた温もりが、ずっと傍に在った。

 …あ、天気雨だ。眩い朝陽と、空に架かった虹も視える。

 本当に、綺麗。ヒシが旅立つのに相応しい、良い日だね。

 大丈夫。私が居なくなってもヒシの輝きは消えないから。

 私を導いてくれたみたいに、これからも沢山の人の道を照らしてあげて。


 ねぇヒシ、私、ちゃんとお母さんになれてたかな。

 たったの五年間だったけど、良いお母さんだったのかな。

 ヒシは私の誇りだよ。本当に優しい子に育ってくれたね。

 その優しさを忘れないでね。ずっとずっと幸せでいてね。

 ありがとう、ヒシ。私に幸せをくれて本当にありがとう。ありがとう




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 爺ちゃんは言った。

 俺は、母親に深く愛されていたと。

 あぁ、その通りだ。本当に、愛されていた。

 でなければ、こんな愛の籠った日記を書けるものか。

 震える手で、最後の最後までありがとうという言葉を連ねられるものか。


 今も猶、寝台で横たわる母の姿を眼に焼き付ける。


 こんなに美しく逝く女性が他に居るのだろうか。

 こんなに安らかに眠る死人が他に在るのだろうか。

 口元に浮かぶ優しい微笑みは、きっと俺に向けられた物なのだろう。今際の時まで俺のことを想って祈り続けた何よりの証拠なのだろう。…そんな母さんに触れたくて、手を伸ばし『光』の檻に接してみる。


 ――直後、光輝く粒子が弾けた。


 解けて行く。梳けて行く。熔けて行く。

 幻想的な雰囲気を漂わせていた『光』の檻が。

 時が止まったかのように安置されていた母さんの死体が。

 俺が触れた箇所から順番に、時が本来の流れに戻る様に。

 ゆっくりと、母さんの施した最後の妖術が崩壊を始めた。


「………。」


 俺は声も挙げることも無く、その様子をただ眺めていた。

 涙が出るほど悲しいだとか、そういう感情は生まれない。

 ただ、胸の奥底からじんわりと優しく滲み出るような。

 大好きな母さんへの、感謝と敬愛の念だけが募って行く。

 還って行く粒子達が一瞬だけ集合したのは見間違いかな。

 おかえりと文字を描いた気がするのはただの勘違いかな。


 寝台に残ったのは、妖石だけだった。


 滑らかな曲線を描く、透き通った雫型の妖石だ。

 親指程度の控えめな妖石は母さんの性格をよく表してる。

 云わば形見。けれど、それ以上に大切な意味を持つ物だ。

 既に輝きは失われているけど、傷付けぬよう丁寧に、布に包み鞄へ詰める。


 それと、机の上の日記九冊も鞄へと入れて。

 本棚からもお気に入りだった本を数冊持ち帰る。

 やっぱり、此処の本は全て母さんの手書きだったらしい。

 凄いな。俺の為にそこまでしてくれて、本当に、偉大な母親を持った。


「行ってきます。」


 ドアに半開きにして家の中に声を飛ばす。

 幼かったあの頃、母さんは必ずこう返してくれた。


 ―――『いってらっしゃい。』


 …幻聴か幻覚か。いや、何だって良い。

 あの時とは程遠い、けれども最大限の愛を込めて。

 柔らかく微笑んだ俺は、ゆっくりと我が家の扉を閉めた。




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