第四十話 realizer
「……? 何か御座いましたかぁ?」
一人の老婆が木製の扉を叩いていた。
腰が弱い様子の彼女は、この宿の管理者だ。
貸している一つの部屋から異常な物音が聞こえた為、
深夜にも関わらず、起き上がって来たらしいが…。
「……おかしいわねぇ…。」
問題の部屋からは、一切の物音がしなかった。
三週間前から一人の少年が閉じ籠っている部屋だ。
精神が不安定で、時々物を投げるという話はあったが…
先程老婆が聞いたのは、そのレベルの騒音では無かった。
空間が割れるような、物凄い破壊音だったのだ。
そんなことは初めてである。
爆睡して、ベッドから落ちた音でも無い。
心配するなという方が無理な話であろう。
「……すみません、失礼しますねぇ。」
一向に返事が無いことを不審に思い、老婆は扉を開けた。
宿の主として、部屋が壊れるのは許容出来ないのだろう。
暴れる客を宥め、軽く注意をするつもりだったらしい。
「………あらぁ?」
そんな老婆が眼にしたのは、無傷の個室だ。
無傷どころか、不思議なくらい整っている居室だった。
この状態で次のお客様を部屋に泊まらせても、何ら問題は無さそうなほどだ。
ただ、別問題。…現在の客が部屋に居ない。
老婆の想定では、顔色の悪い青年が居るはずだったが。
ベッドのシーツを捲って見ても、誰も存在しなかった。
さて、あの酷い破壊音は幻聴だったのだろうか?
老婆は痛む腰を押さえながら、そんなことを思った。
――開け放たれた窓からは、美しい星々が視えた。
---
人類は、邪人との戦いに敗北した。
きっかけは、出処不明の、たったの一本の人間の腕。
それによって得られた養分が、数多の人類を喰らった。
最初は七百人居た戦士も、数を三分の一に減らしている。
この調子では、全滅するのは時間の問題かと思われた。
結果的に邪人は邪神として生まれ変わり、
目に付いた物質を喰らうだけの、巨大な塊と化した。
そこには、善や悪といった概念は意味を為さない。
食欲の怪物に見つかった時点で、死は確定するのだから。
ほら、今も逃げ遅れた五つの命が潰れそうだ。
游蕩士の中でも、トップに位置するであろう実力者達だ。
彼らが邪神の養分に成れば、いよいよ人類は終わる。
けれども、漆黒の腕は無慈悲に振り下ろされてしまった。
…鳴り響く爆音。激しく揺れる大地。酷く震えた大気。
邪神の腕が上げられた後、…そこには何も無かった。
惨い血痕も、衣服の切れ端も、細胞の一欠片ですら。
五人の男達の残骸は、綺麗さっぱり掃除されていた。
かつての邪神を見ていた物ならもう分かるだろう。
五人は、『闇』によって飲み込まれてしまったのだと。
そろそろ、邪神の妖力に姿を変えて現れるだろうと。
『 縺翫°縺励%,菴募,陦後▲縺.??!!? 』
だが、邪神の様子は奇妙だった。
新たな餌を喜ぶでも無く、苦しそうに悶えている。
何かを悩んでいるような、重々しい挙動をしていた。
「―――、――?」
「……ここ、どこ。」
それもそのはず。奴は、獲物を取り逃がしたのだから。
確実に仕留められる相手を、仕留め損なったのだから。
きっと、困惑の後には怒りが湧いてくることだろう。
「…私達、何故生きているんでしょうねぇ…。」
とは言え、生き延びた五人もまた混乱していた。
彼らも、絶対に助からないという覚悟をしていたから。
気付けば、命有る状態で地面に座り込んでいたのだ。
「……アンタ達、どっから現れたの…?」
モファ達が待機していた、遥か遠くの安全地帯で。
周りを見れば、同じく戸惑う様子の游蕩士達が沢山居る。
逆に、戦場には人間が誰一人として残されていなかった。
まるで、神が命を救ってくれたかのようだ。
「……ッ…ガァ…。」
「――! ベイド、すぐに手当を…!」
だが、傷などが癒えきっている訳では無い。
現に、ベイドの両脚は惨たらしく千切られたままだった。
辺りでも、死人が生き返るなどという奇跡は決して起こっていないようだ。
当然、遠くの空には邪神も浮かんだままである。
あくまでも戦況のリセットか。…それでも充分だった。
あのまま戦いを継続していれば、死者の数は倍増していたことだろうから。
…そんな中、クリモはヒシの肩を揺らしていた。
「―――!! ――!!!!」
「…クリモさんですかね、すいません、視えなくて。」
固く閉じたヒシの両瞼からは、血が垂れている。
そう、彼は邪神に双瞳を抉り消されたのだ。
想像を絶する痛みだろうが、…特に気にしてない様子だ。
「大丈夫です、すぐに治りますから。」
「――――、――――。」
暗闇に包まれた視界の中、ヒシは微笑んで見せた。
それを見たクリモは、涙をボタボタ零し始める。
彼にとって、傷付く友達の姿は辛くて仕方無いのだろう。
一大ギルドのNo.3とは云うが、まだまだ若手か。
ヒシはそのまま、一人の男の名を呼んだ。
「…ニュートさん、居ますか?」
「えぇ、ここに。どうかしましたか。」
「幾つか質問…状況確認を。」
「えぇ、何でも聞いてください。」
ニュートは、立って戦場を眺めながら返事を寄越した。
不甲斐無さに震える声を、必死に押し殺しながら…。
「まず、俺達は転移してますか?」
「えぇ、何者かの妖術ですねぇ。」
「妖術の種類、…使用者の正体は?」
「妖術は、『無』の一種…"転"と呼ばれる物です。」
妖術の種類を答えたニュートは、そこで言葉を切った。
その理由は彼にしか分からない。…予想は付くが。
少なくとも、術者が誰かをニュートは理解していた。
「なるほど。…後は自分で視るので、大丈夫です。」
そう言って、ヒシは再生した金色の瞳を開いた。
まず彼が確認したのは、邪神の巨体だった。
夜空に悠然と浮かぶ様は、一つの巨大な雲のようで。
全体から生えた数千本の黒腕が、それを否定していた。
全くだ、あんな邪悪な雲がこの世に存在してたまるか。
最先端の軍事兵器と教えられた方がまだ納得できる。
――だとすれば、アレと殺り合う青年は人造人間か。
眼に掛かるほど伸びた、長い黒髪を風に揺らし。
剣も弓も持たずに、己の身体一つで幻妖と渡り合う青年。
その瞳に宿るのは失意か。…否、透き通るまでの戦意だ。
炎のように熱くは無く、刃物のように鋭くも無い。
けれども、確実に相手を殺すという冷たい執着心だけが彼の瞳に輝いていた。
「――タドク、さん。」
ふわふわと夜空に浮かぶ邪神。
一般人では、手を届かすことすら不可能な化物だ。
生物として格が違う相手。けれどタドクは善戦していた。
…自らも空に浮かぶという、常軌を逸した妖術を以て。
ヒシのように、『光』の足場を創る訳でも無い。
『風』で飛ぶ訳でも、『力』で跳ぶ訳でも無い。
彼が行っていたのは、絶え間の無い"転置"だった。
もっと分かりやすく言おうか。…妖術による瞬間移動だ。
自身の座標を断続的に指定点と入れ替えながら、彼は疑似的な浮遊をしていた。
「……………。」
今の彼は、鬼気迫る様相だった。
触れれば壊れそうなほど不安定な心で。
復讐という一点だけを目指して戦っている。
体裁も見栄も自尊心もかなぐり捨てて。
天使も悪魔も神すらも、全てを否定した上で。
或いは、自身の命すらも省みることなく、戦う青年は…。
「…強い、ですね。」
…ヒシは、思ったことを率直に述べて見せた。
それに賛同するように、周囲の者も小さく頷く。
遠くの空で繰り広げられるのは、正しく激戦だ。
地を喰らう物と、天を抉り飛ばす者による決戦。
如何なる者であろうと、割り込むのは不可能であると。
他者を寄せ付けぬ破壊的な威圧感を纏う彼らの間へ…
「―――《月華》」
一瞬にして空を駆け抜けたヒシが飛び込んで行った。
「「「「 ………っ!!?? 」」」」
満身創痍であった人間達の間に、動揺が走る。
コンマ一秒前まで、ヒシは彼らの輪の中に居たのだ。
その少年が今、二キロは離れているであろう戦場に居る。
彼の軌道を捉えられたのは、座り込む戦士達の中でもほんの数人だけだった…。
---
強力な技には、それと釣り合うだけの反動が存在する。
この世界で、零から壱が生まれることは無いのだから。
何かを得たければ、何かを代償にしろ。――決して覆らない、世の理だった。
"波"が、術者の心臓に負荷を掛けるように。
『闇』が、術者に疲労を蓄積させるように。
異常な肉体再生能力が、眠気を引き起こすように。
"転"と呼ばれる妖術も例外では無い。
空間を収縮させ、膨張させ、入れ替えるその技は…
術者の脳髄を徐々に蝕み、容赦無く破壊してしまうのだ。
とは言え、かつての人類で"転"を使用できた者は居ない。
理由は単純で…発動前に無意識のブレーキが掛かるのだ。
自動的に"転"の発動を阻止しようと動き出す己の身体を、
力づくで捻じ伏せるだけの意志が必要とされていた。
次に求められるのが、完璧なイメージ力。
空間を弄るという抽象的妖術を理解する必要があった。
幸運にも、タドクはユメハの"転"を間近で視ているから…
後は彼の手本を真似て、ひたすら修練を積むだけだった。
最後に必要なのが、飛び抜けた空間認識能力。
例えば、自らの身体を他座標に転移させる際。
もしも、転移先を岩の内部にでも設定していたら?
もしも、頭部だけを元の座標に置いて来てしまったら?
失敗しちゃった…などと己のミスを笑えるだろうか。
一ミリの座標のズレが、己の命を奪う原因になるのだ。
凡人には決して扱えぬ妖術が"転"だ。
その構築難度は、"波"と同等かそれ以上。
『無』に分類されている理由が分かっただろうか。
殆どの人類が、一つ目の条件すら突破出来ないのだ。
――全て執念で超えた青年は、とんでもない鬼才だった。
「………百分割……、」
空中でひらりと身を翻したタドクは、両手を伸ばした。
刃一つ持っていない彼の手を、厚めの手袋が覆っている。
"転"を扱う彼にとって、それが唯一で最高の武器だった。
タドクが伸ばした手を素早く動かした瞬間…
「……ぶっとばせ。」
―――邪神の一部が、この星から消失した。
体積にして、全体のおよそ百分の一くらいだろうか。
数え切れぬ数の黒腕を含む、おどろおどろしい黒い塊は、
遥か上空…煌めく星々が浮かぶ宇宙空間へと飛ばされた。
それらは二度と邪神の元へ還って来れないだろう。
仮に帰還を試みても、燃え尽きて消し炭に成るだけだ。
『 縺縺,豸医∴縺,驟+縺,!!!? 』
たかが百分の一、されど百分の一。
莫大な妖力を浪費した『闇』の塊を消されたのだ。
先の一手で邪神の妖力はかなりの痛手を負っている。
「………血か。」
たかが百分の一、されど百分の一。
タドクが抉った体積は、家屋一軒分に相当する。
脳神経に多大な傷を刻んだ青年は、眼球から大量の血涙を垂れ流していた。
…けれども、彼がその脳を休めることは無い。
「二個目。」
再び、漆黒の身体の一部が消し飛んだ。
消えた体積は、先程と同じくきっかり百分の一。
つまり、これで邪神の全身の内、百分の二が宇宙へと放り出された訳だ。
無論、それを為し遂げたタドクが無事であるはずが無い。
相も変わらず空を飛ぶ彼は、耳から血を垂れ流していた。
…耳から脳に繋がる神経でもイカれたのだろう。
「三個。」
邪神の身体に大きな窪みが生まれた。
その痕は滑らかに角張っていて、どこか神秘的に見える。
誰から見ても、抜き取られた身体が正方形に整形されているのは明らかだった。
さて、次にタドクが放出した鮮血は口からの物だった。
口内が裂けたことによる出血では無いのだろう。
体の奥底…、根幹を成す最も大切な場所から昇って来たような、どす黒い血だ。
「四個。」
これで、邪神の百分の四が消えたことになる。
要するにあと九十六回妖術を使えば、タドクの勝利だ。
たったのそれだけで、この邪悪の化身を地上から消せる。
…最後にタドクがどうなるかは、察しの通りだろうが。
「五個。」
あぁ、どうか心配しないで欲しい。
残り九十五回の妖術を発動することは、理論上可能だ。
自身の妖力回復速度、脳に及ぼされるダメージ量…。
それら全てを計算した上で、タドクは問題無く勝利出来ると判断を下している。
「六個。」
つまり、後は精神力の問題だった。
己の死を受け入れ、襲い掛かる苦痛に耐え…
徐々に朧気になっていく自我を何とか繋ぎ留めること。
それが出来る者にだけ、華々しい勝利が齎されるのだ。
「七個。」
――彼は、とっくの昔に覚悟を決めていた。
記憶、意識、命。…どうだっていいのだと。
眼から、耳から、口から、或いは脳内ですらも。
ありとあらゆる部位から、致死量の黒血を流しながら。
死に逝く己の体に目もくれず、タドクは醒めた瞳を漆黒の化物に向けていた。
「八個。」
何故自分に類稀なる頭脳が与えられたのか?
タドクは幼少期から、その冴えた頭で考え続けていた。
「九個。」
子供として常軌を逸した想像力。大人をも凌ぐ計算能力。
歌う才能も、絵を描く才能も、剣を振るう才能も無い。
游蕩士としては平凡で、戦闘能力はむしろ中の下。
突出している物と云えば、本当に思考力だけだった。
…"転"の探求は、或る意味で彼の人生の答えなのだろう。
さぁ、答えろ。タドクの優れた頭脳は、何の為だ?
「十個。」
―――邪神の抹消。その偉業を成す為だ。
『 逞帙>,豁「繧√※,豁サ繧薙〒,!!?? 』
積乱雲のような巨体が耳障りな唸り声をあげている。
邪神の体積は、既に元の十分の一に減っている。
あと数十分。…不変のそれが、この幻妖の寿命だった。
「あぁ、…もう記憶が飛んだのか。」
同時に、タドクという青年の寿命でもある。
たった今、彼の中から両親の記憶が消失した。
九年前、突如として行方不明となったタドクの両親。
その声も顔も名前すらも、彼は欠片も思い出せなかった。
…金輪際、失われた記憶が戻ることは無いのだろう。
「………十一。」
それでも、タドクは悲しまなかった。
彼は天国や地獄という概念を信じない主義だ。
人間死んだら終わり。…そんな冷淡な思想の持主だった。
だから、自身から幾ら記憶が抜け落ちようと厭わない。
どれだけ記憶を持っていようと、自分は此処で死ぬのだと腹を括っていたから。
「―――《月華》」
…現れたイレギュラーに、多少の動揺は抱いたが。
その少年の存在は、辛うじてタドクの記憶に残っていた。
地の精霊戦で、リーダー達に混ざっていた黄髪。
男子にしてはかなり細い腕に、整った顔面が印象的で。
何となくスカした奴だなと、タドクは遠目から年相応の浅い評価を下していた。
タドクにとっては命を救ってくれた恩人でもあり、
游蕩士として多少の劣等感を感じさせる相手でもある。
「…ヒシ、だっけか。」
「えぇ、タドクさん。酷い怪我ですね。」
「俺の戦いだから、あんま横槍入れんなよ。」
「ごめんなさい。でも、戦力にはなれますよ。」
「……同い年だろ、敬語外せよ。」
「癖なんです、…嫌いですか?」
「なんか気持ち悪ぃわ。」
空を駆ける少年と、空へ転移する青年。
彼らはそれぞれ超人的な妖術を以て宙へ滞在していた。
片や全身血塗れで、片や肉体再生により無傷の者だ。
外見上は全くの正反対だが、纏う雰囲気は似ている。
冷たい信念を灯す、刃物のような瞳は同じだった。
「そうですか。…それで、死ぬつもり?」
「俺の死亡がコイツの撲滅に繋がるならな。」
「要するに、そういうことじゃん。」
「あと八十九回。…楽な仕事だな。」
「タドクさん、俺から提案。」
「呼び捨てで良い。提案っつうのは?」
「タドクが死なずに、アイツを消す方法。」
「それは、確実に仕留められるんだよな?」
「準備に時間は掛かるけど、…約束する。」
「なら早く準備しろ。俺の脳が壊れる前にな。」
ヒシが敬語を外した人間はこれで二人目だ。
タドク相手に距離は作らなくて良いと判断したのだろう。
そう、彼らは生物として根本的に似通っていたのだから。
「準備するまで、無茶しないでね。」
「あぁ、それは無理だわ。――十二個目。」
まぁ、心が通じ合っていたかは分からないが。
片や己の死を恐れぬ者と、片やその死を止めたい者だ。
両者のゴール地点は邪神の殺害で一致している。
後は、勝利までの道筋をどうやって辿るかの問題だった。
---
ヒシが遥か彼方へ飛び立った直後。
疲弊しきった人間達の間には、沈黙が流れていた。
殉職した者達へ哀悼の意を示しているのか。
戦地を飛び回る二人の少年に驚きを隠せないのか。
何も出来ず安全地帯で佇んでいる己を恥じているのか。
恐らく、この三つの理由は全て正解だろう。
闘争欲は在れど、重症により身体が動かない者。
身体は動くが、既に心を折られ戦意を喪失した者。
大半がその場に止まり、戦いを遠くから眺めるだけの傍観者と成り果てていた。
「…妖石をくれ、二個だ。…あと、布も頼む。」
静寂を破ったのは、両足を失ったベイドだ。
『封』で止血は成されているものの、傷跡は痛々しい。
本人の肌も青白く染まっており、まるで生気が無かった。
正に死に体という状態だが、…その瞳だけは依然鋭い。
「…妖石と布? そんなもので何を…」
「ありますよ。どうぞ、使って下さい。」
投げられた野次を叩き落とすように、フヅキは言った。
彼女から物品を渡されたベイドは、軽く頷くと…
――布を使って、自身の両脚に妖石を巻き付け始めた。
辺りの人間から向けられる、不審の籠った視線。
それらを遮って、ニュートが一歩前に踏み出した。
「…面白いことをしようとしてますねぇ。」
「あぁ、アイツに一発叩き込まねぇと、気が済まねぇ。」
「貸してください。私が固定してあげましょう。」
「頼んだ。ついでにもう一個、任せたいことがある。」
「なんなりと。…どんな要望でも聞いてやるよ。」
荒い口調で巨大な傷口に妖石を取り付けたニュート。
ベイドはそれを確認すると、『地』の妖術を発動させた。
――形成されたのは、人間の足を模した土塊だった。
表面は焦げ茶色で、ゴツゴツしていて不格好に見える。
即興で創りましたとアピールするような、雑な見た目だ。
だが、"義足"としては優秀な物らしい。
妖術の出来を操作するのは、結局術者のイメージ力だ。
故に、脚を模った土塊もベイドの意思に従って動く。
関節を動かしたいと思えば、その部位が曲がるように。
ピンと伸ばしたいと思えば、脚は棒のように形を変えた。
意思を即時に反映する義足は、正に理想形だろう。
最初は立ち上がることすら困難だったベイドも、
数分の試運転でみるみるうちに扱いが上達していた。
『地』の足で辺りを走り回れる程になった頃…
「よし、ニュート。…全力でやれよ。」
立ち止まったベイドは、そう指示を放った。
現在の彼の手に、自慢の大剣は握られていない。
己の身一つで、一体何をしようと言うのか…
「―――《息吹》」
誰かが抱いたその疑問は、驚愕という感情に姿を変えた。
暴風の矢によって、ベイドの身体は空へ弾き飛ばされた。
彼が向かう先に在るのは、邪神の巨体ただ一つ。
◇
ベイドが空を飛んだのと同時刻。
一人の少年が、意を決した顔で呟いた。
「…ディン。ようりょく、ちょうだい。」
自らの眷属に、妖力の譲渡を求める声だった。
原則として、生物から生物に妖力を渡すことは出来ない。
理由は単純で、放出する妖力と吸収する妖力では、そもそもの質が違うからだ。
鉄と鉛のように。
酸素と二酸化炭素のように。
酸液とアルカリ液のように。
一見似通った物質であろうとも、
実際示される性質が真逆という物は世界にままある。
"妖力"と称されるソレも、その例に当て嵌まっていた。
『 Kururu…?? 』
話を戻そう。少年――ロットは妖力を求めている。
通常ならば不可能な要求。…ただ、工夫次第では可能だ。
例えば、精霊にのみ許された拾得権の行使だとか…。
人間側が、辺りに高密度の妖力場を作り。
精霊側が、新鮮な妖力としてそれらを変換し直す。
テロスの腕を治す為、ヒシとキュペが行った荒業だ。
…ただし、これでは人間→精霊という一方的な妖力の流れしか出来なかった。
例えば、"転"を使った妖力の強制転移だとか…。
対象の体内から妖力を抜き取り、己に置換させる方法。
これならば、あらゆる生物間で妖力の横流しが実現する。
…まぁ、"転"を極限まで研ぎ澄ませた者に限るが。
ロットは、もっと簡単で画期的な方法を知っていた。
対象から妖力を強奪する、邪道とも云えるその方法を。
だが、文句は無いだろう? 敵も乱用しているのだから。
『 …!! Kuruu. 』
数秒後、ディンはロットの意図を理解したようだ。
丸い瞳に理解の色が浮かんだかと思うと、それはすぐに強い信頼へと変わった。
――ディンの頭上に、影の塊が形成されていく…。
[ガシャドクロ]でも[ハンニャ]でも無い。
正確な形を留めず、整形すらされてない粗野な『闇』。
闇の精霊が使う妖術としては、あまりに低質だ。
…ただし、その影塊に込められた妖力自体は、非常に濃密で洗練されていた。
そんなアライグマの様子を視た女性は…
「………《久遠》」
――小さな炎の塊を空中に創り出した。
「! シロン、けがは?」
「私は大丈夫だ。…妖力が要るんだろう?」
「うん、どれだけあってもたりないくらい。」
「ならば、コレも持ってけ。少しは足しになるはずだ。」
「ありがと。だいじにつかうね。」
「…あぁ。私の全てを、お前に託そう。」
地面に伏したシロンの顔に、いつもの微笑みは無い。
彼女はつい先程、ドリシェという親友を亡くしたのだ。
これで卯杖の初期メンバー五人中四人が居なくなった。
最後に残されたシロンの心情は如何なものか…。
仇討ちが果たせず、仲間を守れず。
最も重要な局面に、大火傷で動くことも出来ず。
…己の身体に火を付けかねない程、悔しいはずだ。
だからシロンは、ロットに自身の雪辱を委ねた。
そんなギルドリーダーの姿を視た男は…
「――《残威》…!」
――重圧の塊を空中に創り出した。
「…だいじょうぶ? そのわざつかって。」
「…時期防衛団団長として、お前に頼む。」
「うん、なに?」
「あのバケモンを、殺ってくれ。
この戦いを、終わらせてくれ、お願いだ…!」
決死の表情で、テロスはロットの瞳を見据えた。
彼が発動したのは、制御不能な諸刃の剣的妖術だ。
普段ならばマネドがそれを抑えてくれるが、今は違う。
テロスのお目付け役である男は、此の場に在してない。
では、暴れ狂うその"黒点"はどうするつもりだ?
「――まかせて。おれたちが、おわらせるから。」
用途は決まっているだろう。
ディンが創った『闇』の塊も。
シロンが創った『火』の塊も。
テロスが創った『力』の塊も。
全て、ロットが喰らう為の養分にしかすぎない。
「―――《万喰》」
直後、三つの強大な妖術は世界から消滅した。
それと代わるように、ロットの妖力が膨れ上がる。
並の幻妖すらも、或いは精霊すらも超えた莫大な妖力量。
当然、人間の器程度で受け止めきれるはずも無く…
「……ありゃ。」
ロットの全身に、奇妙な亀裂が入り始めた。
それは、保有可能妖力の限界に達した時の正常な反応だ。
彼の身体は少しずつ変色し、痛々しくヒビ割れていく。
このまま妖術を酷使すれば、身体が"灰化"して散って逝くことになるのだろう。
「じゃ、いってくるね。」
けれども、ロットは意気揚々と駆け出した。
例え己の身に危機が訪れようと、死が迫ろうと。
彼の瞳に映るのは、邪神の存在だけだった。
---
まるで、海に浮かぶ島を空に引き揚げたかのような。
まるで、宇宙の星を一つ選んで引き寄せたかのような。
漆黒の幻妖は相も変わらず、巨体を宙に滞在させていた。
神話世界などでしか描かれぬ、世にも不思議な光景だが…
少なくとも夜空に広がるソレは現実として存在している。
…そんな大災害の化身に立ち向かう人間達が居た。
「五十。」
また一つ、邪神の身体が大きく欠けた。
青年が呟いたように、これで体の欠損は五十回目だ。
つまり、奴の巨体の半分がこの星から消えたことになる。
あと十数分もあれば、幻妖の討伐が完了するのだろう。
「…、五十一。」
死へのカウントアップが、ゆっくりと刻まれていく。
上限は百で、それ以上の妖術発動は絶対に起こり得ない。
残り四十九回の妖術発動。それだけで、タドクと邪神の双方が死に至る。
青年一人の命と、幻妖一匹の命。
天秤に掛けてどちらが傾くかなど説明する必要も無い。
むしろ、タドク独りの犠牲で人類に光が齎されるのだ。
…それを最善の幕引きと呼ばずして何と云うか。
「―――《息吹》」
彼が飛来したのは、そんなタイミングだった。
暴風に背中を押されながら、一人の男が空を飛ぶ。
濃い茶色の髪から、血をぽたぽたと滴らせながら。
両手を大きく広げ、冷たい夜風を存分に味わいながら。
新たに創った両足を、仇である幻妖に見せつけながら。
――ベイドは、ほぼ直線で大気を突き抜けた。
『 隱ー,霑大#,繧?繧,?!?? 』
「さっきはどうもな。…借り返しに来たぜ。」
その挑発の直後、ベイドの義足に変化が現れた。
ゴツゴツとした土で創られた右足が、伸びていく。
緻密に、何回も何重にも、ペンキを上塗りするように。
小型のポール程度だった義足は、見る見るうちに厚さと長さを増していった。
高く聳え立つ土の塔を横に倒し、ベイドに付けたような。
最早"義足"とも呼べぬ、異彩と重圧を放つ妖術だった。
土の柱に比べれば、術者であるはずの男が米粒のように視えてしまう。
だがどうか、少し眼を凝らして彼の姿も視て欲しい。
両の拳を固く握り、身体の前に猛々しく掲げた様を。
左の義足を折り曲げ、身体の下に畳んで置いた様を。
巨塔の如き右足を前方に伸ばし、凄まじい勢いで討伐対象に肉薄する様を。
両足を喰い散らかされた恨みを。
師であり友であった男を殺された悲しみを。
人類に滅亡を齎さんとする幻妖に対する怒りを。
あらゆる感情を丸めて、鋭く伸びる右足に乗せて…
「―――《寂滅》ッ!!!!」
――邪神のど真ん中を貫いた。
…一般には"飛び蹴り"などと呼ばれる体術。
だが、ベイドのソレは桁外れの威力を誇っていた。
それは当然だろう。そもそも、初速が異常だ。
本来山をも貫くはずの『風』を推進力にしていたのだ。
彗星の如きスピードから繰り出される、急所を正確に突いた一撃だった。
『 菴,驟縺,谿縺,!??? 』
その大技は、確かに効果が在ったようだ。
邪神から生える黒腕達が苦し気に動いている。
身体に巨大な風穴を空けられたのだから、当然だろう。
だが、次第にその傷口も再生を始めた。
"治癒"というよりかは"補完"の方が正しいか。
窪みを作られた液体が、それを塞ぐ為動き出すように。
周囲から漆黒の腕達が寄り集まって、瞬く間に滑らかな体表を保って見せた。
ただし、失われた『闇』が戻る訳では無い。
邪神が行ったのは、あくまで傷口の埋め合わせ。
奴の巨体の総体積…それの変化を数値化でもすれば、
ベイドの残した功績の大きさが世に伝わることだろう。
「……体、動かねぇや…。」
まぁ、当の本人は手柄などどうでも良いらしい。
笑うことも泣くことも怒ることもせず、無表情で。
未だ空を飛ぶ二人の青年と、戦場へ駆け出した一人の少年をチラリと見ながら。
――力尽きたベイドは、母なる大地へ墜ちて行った。
◆
「六十八。」
今や、邪神の体積は元の三分の一以下だ。
それを為したのはタドクの"転"とベイドの『地』だが…
実は、彼らの他にも功労者というのは多数存在する。
注目すべきは、現在の邪神の攻撃性だ。
前形態の邪人は、明らかな害意を有していた。
強者を喰らい、更に高みへ昇ろうと必死だったのだ。
それに比べれば、今の邪神は非常に温厚だ。
「六十九。」
確かに『闇』の練度は上がり、体積も爆増している。
触れれば即死するという、理不尽な黒腕も健在だ。
――だが、化物としての闘争心が激減している。
相手を喰らってやるという、野心が欠如していた。
人型を辞めて、脳という器官を失ったからなのだろう。
生物という括りを超越し、神と成ったが故の欠落。
「…七十。」
そんな化物が、彼ら游蕩士達に敵うはずも無いのだ。
瞳に私欲と野望を宿す彼らが、現状に満足した幻妖に負けるはずが無いのだ。
「……おれも、まぜてよ。」
さぁ。魅せつけろ、ロット。
腑抜けたソイツに、敗北の味を覚えさせろ。
『闇』の本当の使い方を、世界に教えてやれ。
いずれ"最強"を担う者として、己の存在を示してみろ。
「……ん…。」
ヒビ割れた両足で戦地を走るロットは、短剣を掲げた。
『海月』と名が付けられた、黒く輝く彼の愛刀だ。
現在の彼が保有する全ての妖力が、刃に注がれていく…。
――"クラゲ"、という生物はご存じだろうか?
傘のような体から、糸のような細い触手を伸ばし…
悠々自適、気の赴くままに海中を泳ぐ、半透明の生物だ。
ロットの短剣にその生物の名前が使われたのは
きっと偶然では無い。シロンの思惑在ってのことだろう。
規則や秩序といった、人間社会での掟に決して縛られず。
ただ自由気ままに戦場を巡り続ける、独りの少年。
彼の生き様は正に海月そのものだったから。
「―――《幽冥》」
直後、ロットの周囲に数十匹の[クラゲ]が出現した。
透き通るような黒色の身体を揺らしながら。
夜空という名の広大な海へと泳ぎ出していく人形達。
ディンの扱う"影"から着想を得た、ロット考案の幻想的な『闇』の妖術だった。
ただし、可愛いだけで終わらないのが『闇』だ。
親鳥の気を惹こうとする無邪気な雛鳥達のように…
[クラゲ]達はゆらゆらと、空の巨体へと寄っていく。
『 蜿諢帙>,縺翫縺,驕翫?,??!! 』
絆されたように、邪神の黒腕が動き出した。
子を迎え入れる親の如く、包み込むような動作で
幾多の黒腕達が[クラゲ]の大群へと伸ばされていった。
あら、可愛いねぇ、可愛いねぇ…。
そんな声が邪神から聞こえた気がする。
実際、奴の不明瞭な声には確かな好意が含まれていた。
――[クラゲ]が黒腕群を食い荒らすまでは。
『 縺茨,!??!, 』
困惑と共に図体を揺らす邪神。
そんなことに構わず、[クラゲ]は食事を続けた。
空中の黒腕を喰い、体表の黒腕を喰い、
体内の黒腕を喰い、それでも尚幻妖を喰い進める。
…木材を破壊し尽くすシロアリのようだ。
いや、下手をすればあの害虫よりも凶悪だろう。
[クラゲ]は、相手を喰らう度増殖するのだから。
大量の人間を喰らった今の邪神は妖力の塊だ。
ソイツの肉体は、さぞかし美味な餌になるのだろう。
一欠片を喰らえば、一匹の[クラゲ]を追加出来る程に。
「…わるいけど、おれのかちだから。」
ネズミ算的に増え続ける[クラゲ]。
ロットにその妖術を止める気は塵ほども無かった。
タドクの復讐も、ヒシの目論見も、彼には関係ない。
――敵を睨むロットは、ただ純粋に勝利を欲していた。
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「…八十。」
斜め下から、冷ややかな呟きが聞こえた。
あと二十回。…だが、タドクの身体は既にボロボロだ。
虚ろな目は死人のようで、体内の血は枯れ果てていて。
最早、己の目的すら見失っていそうな有り様だ。
「八十一。」
けれど、妖術の発動だけは一定間隔で行い続けている。
一度の"転"で抜き取る体積も、ブレることなく同量だ。
妖術を使う為だけに、邪悪な幻妖を消し去る為に…
何者かによって生み出された機械だと説明された方が納得出来たかもしれない。
「八十二。」
だが、それは違う。
彼はタドクという名の歴とした人間だ。
これまでの人生を確と歩んで来た、一人の青年だ。
少なくとも、ここで死ぬべき人材では無いのだ。
「…ふー…。」
一つ。眼を閉じたまま大きく息を吐いてみた。
昔から愛用してきた、自分なりの精神統一方法だ。
普段は視覚に頼り切りな、ヒシという化物だからこそ。
瞳を完全に塞ぎ、他の感覚神経を極限まで研ぎ澄ます。
星の匂いも、夜風の味も、今なら知覚出来る気がした。
…その状態で、俺はゆっくりと眼を開いた。
開いた手の平の上に浮かぶのは、『光』の箱だ。
薄く発光する半透明のそれは"光壁"と同じ成分で、
けれども、籠った妖力の質は凄まじく洗練されていた。
文字通り、"てのひらサイズ"の妖術だった。
だが、どうか笑わないで欲しい。これが俺の全力だ。
この三週間の集大成にして、この数十分の成果だ。
戦闘に一切関与せず、全精神をコレに注いできたのだ。
決して、何も考えずに遊んでいた訳では無い。
確かに俺の妖術が無くとも邪神は討てるだろう。
タドクは一人で奴の討伐を成し遂げてしまうのだろう。
…それではダメだ。目指すべきは完璧なハッピーエンド。
この妖術が、誰か独りの命を救えるのならば…。
「―――《箱庭》」
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「九十、…?」
戦場に訪れた変化は、一瞬で注目を掻っ攫った。
数多の[クラゲ]に気を取られていた邪神。
既に元の十分の一にまで体積を減らしたその幻妖は…
気付けば『光』の箱に囚われ、身動きを封じられていた。
『 邂,蜃縺励※,迢$,?!!! 』
体積を大きく減らしたとは云え、未だ身体は巨大だ。
その漆黒の図体を覆い包むほど立派な箱が浮かんでいる。
喚く邪神は黒腕で箱の破壊を試みたようだが、
怒りに身を任せた直情的な攻撃が実を結ぶ事は無かった。
「…ん、ヒシかな。」
地から天を見上げるロットは、察したように呟く。
同時に、聡い彼は《幽冥》の使用を取り止めた。
以降は己の妖術が邪魔になることを理解したのだろう。
華々しい勝利に目を奪われ、最も大切な物を見失ってしまうような者では無い。
それに、[クラゲ]達は陽動という役目を果たしたのだ。
飛び入り参加をしたにしては、充分過ぎる成果だろう。
「……集中。」
『 蜍輔縺ヲ繧,!??? 』
その時、『光』の箱がゆっくりと動き出した。
小さな村ほどに大きかったソレは、徐々に収縮していく。
――無論、中に入った邪神も含めて。
《箱庭》は、非常にシンプルかつ明快な技だ。
まず、手の上で模型とも云える小箱を構築する。
次に、小箱を拡大させて対象を箱の中に閉じ込める。
最後に、箱を対象ごと小さく変形させれば完了だ。
非常に簡単な技のように思えるが、それは違う。
生物を閉じ込めて圧縮しても壊れない程の、
非化学的,非現実的なまでの強度が必須なのだ。
特に、今回の相手は『闇』の使い手だ。
喰うことすら敵わないような圧倒的な質量が要る。
更に、『光』の壁を動かす技術が求められる。
"転"と同じく、かなりの空間把握能力を要する操作だ。
リフィはこれを得意とし、主武器として扱う精霊だった。
幸運にも彼を師匠に持ったヒシは、厳しい鍛錬の末にこの技術を会得している。
完全無欠なバランスの上に成り立つ妖術は、
邪神の巨体を小さく小さく押し込んでしまった。
そのサイズは、数分前の十分の一であり…
「……これで、百分の一。」
『 蟆上&縺,霎帙>,???! 』
――元々の姿の、きっかり百分の一であった。
つまり、"転"一発で消し飛ばせる体積なのだ。
あと一手。それで、この長い悲劇を終わらせられる。
そんな戦況で、――タドクはピクリとも動かなかった。
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コンマ一秒まで正確に測り取る時間感覚。
部屋の家具の配置を完璧に覚えられる記憶能力。
空を飛ぶ鳥群の個体数を一瞬で数え上げる空間認識。
タドクという少年には、天賦の才能が備わっていた。
だが、その力が游蕩士として活かされることは無かった。
理由は簡単で、偏にタドクの戦闘経験不足だ。
彼は、"剣術"という物に固執し過ぎていたのだ。
彼が変わったのは、邪卵に敗北したあの夜だ。
まず、タドクは片手剣を――"剣術"を捨てた。
剣は今も■■■の墓として地面に突き刺さったままだ。
それが、敗北者だった己との決別を表しているのだろう。
彼は物体を転移させる妖術の訓練を始めた。
ゴウノアから贈与された妖石入りの手袋を嵌めて、
ユメハの妖術を参考に、ほぼゼロから妖術を開発した。
エヴィル迷宮前で、ヒシが眼にした数々の立方体…。
あれらは、全てタドクが地面から繰り抜いた物だ。
水分も食物も口にせず、冷たい闘志を灯して。
妖力も意識も尽き果てるほど、"転"を使い続けた。
ヒシがタドクの元へ辿り着いた頃に、彼が殆ど死に掛けの状態だった理由だ。
保護され、医者に診られ、宿に収容された後…。
タドクは、誰にも悟られることなく研鑽を積んだ。
最初は、宿部屋の家具を転移させる練習から。
ベイドが聞いた激しい物音はコレのことだろう。
彼は、タドクが狂乱しているだけだと考えたようだが。
三日目ぐらいから、タドクは化物の討伐を始めた。
どうやって宿を抜け出したのか、…簡単だ。
彼には、床も天井も玄関も…街の外壁すらも意味が無い。
点と点を、ゼロ秒で繋ぐ妖術。――それが"転"だった。
この三週間、タドクは殆どの時間を戦闘に費やしている。
睡眠も食事も最低限で、他者との会話も最小限だった。
大陸の至る所を転々としながら、己よりも遥かに格上の相手を討っていたのだ。
それも全て、邪卵へ復讐を遂げる為。
永遠の愛を誓った少女に、胸を張って会いに逝く為…
―――だったのだが、今のタドクは全てを忘れている。
自らの名前、年齢、住所、誕生日。
幼年期、少年期、青年期の全ても。
親の名前も顔も、声も性格も、温もりも。
己の好きな食べ物も、趣味も、長所短所も。
親友も、その彼女も。エフ森林での戦闘も。
游蕩士を志した理由も、剣の振るい方さえも。
エヴィル迷宮での悲劇も、ゴウノアの存在も。
ユメハも、ゼータも、エミャも、■■■も…。
空の飛び方も、戦う意味も、相手の種族名も。
指先の動かし方も、扱う言語も、瞬きの方法も。
この三週間の日々も、この命が何の為に在るのかも。
「――タドク。」
ヒシに背中を叩かれようとも、彼は動けなかった。
耳に入って来た単語が何を意味するのかも分からず。
己が、目の前の少年が、何故空中に浮かんでいるのかも。
いや、そもそも何故身体には下向きの力が掛かっている?
空が暗い理由は? 風が冷たい理由は? 海が在る理由は?
人間は、何で…、……"ニンゲン"って、どういう意味だ?
「…タドク。」
幾ら衝撃を加えられようと、タドクは固まっていた。
瞳を濁らせ、口を開きっぱなしで、思考を回している。
坂道を転がり続ける車輪のように、止まらぬ脳回路。
その先に在るのが底無しの奈落だと知りながらも…。
「 タドク、好きな子っている? 」
――その瞬間、タドクの思念が断ち切られた。
彼は勢い良く振り返り、背後に立つ少年の顔を視る。
黄髪、金瞳、瘦せ型…。知らない男が、そこに居た。
ヒシの放った言葉の意味を、タドクは理解していない。
彼の脳は既に九割が再生不可能なまでに破壊されていて、
残りの一割が崩壊するのも、時間の問題であったから。
記憶を司るメモリ的機能など、とうの昔に死んでいた。
なのに、なのに。それなのに。
タドクは、今の一文に聞き覚えがあった。
今みたいに低い声では無く、今みたいに早口でも無い。
もっと余裕のある、落ち着いて、透き通った、高い声。
ずっとずっと昔に、全く同じことを訊かれた記憶。
ドロドロに溶けていた彼の脳が、微かに動き出した。
「………。タドク、どうなの。」
ヒシに、タドクの心は読み取れない。
彼は少しでもタドクの心情に刺激を与えたくて、
思春期の青年らしい質問を選択してみただけだったのだ。
結果的に、その一言は絶大な効果を発揮したのだが――。
「…………っ……。」
タドクの瞳から、薄い霧が晴れた。
彼の眼に飛び込んだのは、光輝く巨大な箱だ。
大きさは家一軒分くらい。余裕で人が住めるサイズだ。
『 蜃縺励※,谿縺,隨代≧,!!!? 』
所狭しと、窮屈そうにナニカが閉じ込められている。
全身が黒くて、ウニョウニョとした奇怪な物質だった。
幾多の人間を食欲のままに貪った、邪悪の化身。
ソイツを視ても、タドクの心はもう動かされなかった。
「……あぁ、……あぁ……!!!」
彼は、思い出せない。信念も情熱も目的も。
彼は、忘れてしまった。親友も師匠も両親も。
彼は、手繰り寄せた。…大切な、少女の存在を。
「…タドク、教えて。好きなその子の、名前は…」
ヒシに応えるように、タドクは右手を大きく広げた。
己の能力すら忘れて、…何をするべきかは理解していた。
理論は不明でも、…結果がどうなるかは分かっていた。
今は亡き、最愛の少女を視て、右手を振り下ろし――
「――――《千芽》っ…!!!」
―――邪神の身体を、世界から消し去った。
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キラキラと、半透明の何かが宙に舞っている。
黄色の輝きの中には、もう黒色が混ざって無くて。
あの変な生物が死んだことを、はっきり示していた。
背後からは、悲しそうな労いと祝いの声が聞こえた。
遠くの地面からは、太く大きい雄叫びが聞こえた。
頭の中からは、何かが引き千切れる音が聞こえた。
それらの音も、気が付けば消えていた。
瞳では何も視えない、鼻では何も匂わない。
痛みもないし、血の味もしない。…もう、最期だ。
結局、自分が何者かすら分かっていない。
なんで戦っていたのかも、思い出せなかった。
自分の身体が地面に堕ちているのは確実だろうが。
…なぁ、ツバナ。
ごめんな、お前を忘れて。
けど、もう二度と忘れねぇよ。
声も、顔も、温もりも、肌の柔らかさも。
全部俺の物だから、絶対に誰にも譲らねぇ。
自分のことを忘れても、お前のことはずっと覚えてる。
俺に好きな女子がいるか…。
お前、突拍子も無く聞いてきたよな。
ちょっとだけ笑いながら、真面目そうに。
俺、あの時答えたか? 多分答えてねぇよな。
まだ、伝える勇気が出なかったんだ。許してくれ。
先延ばしにしてたら、あんなことになったんだよな。
何回でも言う。ツバナ、お前を愛してる。
本当に、全力で。
神になんか誓わねぇよ。
お前だけに、お前の為に誓う。
裏切らない。よそ見なんかしねぇ。
だから、俺がそっち行ったら迎えてくれ。
天国も、来世も信じねぇけど、今だけは頼む。
もう一回だけ、そこから永遠に、お前と一緒が良い。
多分、お前はその時も笑ってるんだろうけどな。
恥ずかしいこと言い過ぎって、俺を叩くだろうけどな。
それで良いから、傍に居てくれるだけで良いから。
…ごめんな。ツバナ。
俺、結構強くなったのかもな。
こういう時だけ、しぶといんだよな。
覚悟が出来てただけに、ちょっと残念だけど。
けど、まだやり残したことは何個か有るからさ。
最期まで全力で走り抜けてから、そっち行くわ。
……もうちょっとだけ、待っててくれ。
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