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ナノライト  作者: かざぐるま
第五章 Wake up from sleep.
36/57

第三十四話 大敗北

 



 『 Wake up from sleep. 』




 ---




「ユメハ、良い朝だな! よく眠れたか?」

「ふふっ、ばっちりさ。ゴウノアちゃんはどうだい?」

「はっはっ! 俺はもう朝活まで済ましてあるぞ!」

「道理で汗を掻いてる訳だ。筋肉も喜んでるねぇ。」

「勿論絶好調。数十分したら出発にしよう!」

「うん、君も水浴びをしてきたらいいよ。」

「そうさせてもらおう、…タドクも来るか?」


「遠慮しとくっす。」


 俺がそう返事を返すと、彼は笑いながら去って行った。

 ゴウノアは汗を流しながら筋トレを始めるような人だ。

 何故実力者には変人が多いのだろうか。永遠の謎だ。


「んはは、付いて行けば良かったのに。」

「絶対嫌だ。パワハラ受けるだけだし。」

「可愛がってくれる良い上司じゃない?」


 他人事のように笑うのは、俺の隣に座る少女。


 アザミのような赤紫色に彩られた髪の毛。

 裁縫針に使えそうなほどクッキリとしたまつ毛。

 華奢な両足はいつの日か自然に折れてしまいそうだ。

 年齢は俺と同じなのに、全体的にあどけなさが残る。


 そんな、『ツバナ』という名の少女だった。


「今日で何日目だっけ?」

「二週間。後一週間もあれば着くだろ。」

「ほーん。もうそんなに経ったんだ。」

「…因みに、この質問は十回目な。」

「えぇ? そんなに聞いた覚え無いや。」

「……因みに、お前は昨日もそう言ってた。」

「んぁれ? そうだっけ…。」

「流石にポンコツが過ぎるわ。」

「私だって真面目に生きてるんです~。」


 はにかみながら文句を零すツバナ。

 こいつはいつもそうだ。…ズルは止めて欲しい。


「にゃははっ、ゼータ寝癖付いてんじゃん!」

「エミャは髪に芋虫付いてんぞ?」

「大丈夫大丈夫~、髪飾りみたいな?」

「キメェ趣味してんな、」

「それよりさっきゴウノアが水浴び行ってたよ?」

「――あの筋肉は俺のもんだぁぁぁぁ!!!」


 後方から変人ペアの声が聞こえた。

 卯杖を支える二人だ。その実力は折り紙付き。

 ただ、脳を構成するネジは纏めて吹き飛んでいるようだ。


 …辺りを見回しても、目に入るのは名立たる游蕩士達。

 経験も知識も実力も兼ね備えた人間ばかりだ。

 この中では俺とツバナが最弱と言っても過言ではない。


 旅のメンバーは、総勢で四十名程だろうか?

 この人員を揃える為に十日余りの時を費やした程だ。

 迷宮を攻略するのには充分過ぎる戦力が此処には在った。


「…リーダー格が居ねぇのは不安だけどな。」

「ん? タドク、なんか言った?」

「いや、何でも。ただの独り言。」


 思わず漏れ出た呟きに、ツバナは不審の眼を向けて来る。

 それを受け流しつつ、俺は再出発の為に支度を始めた。


 …とは言え、零した小言の内容は本心だ。

 俺は地の精霊戦に関わった人間だから、知っている。

 ギルドのリーダー達、彼らは何処と無く異常だ。


 ヒルズはその違和感を"目が違う"と表現していたか。

 文豪がかった言い方だったが、伝えたいことは分かる。

 俺が思うに、あの人達には()()()()()()()()()気がする。

 良い意味でも悪い意味でもだ。変に貶めるつもりは無い。


 言ってしまえば、サブリーダーというのはストッパーだ。

 前に切り込むリーダー達の無茶を咎める立場で。

 取り残されたメンバー達を纏め率いる役職でもある。


 とは言え、彼らサブリーダーの戦闘力も確かだ。

 フヅキやユメハなどは、リーダーの実力すら凌ぐだろう。

 ゴウノアも、No.3という屋台骨的ポジションに居る男だ。

 彼らが後ろに控えている時の安心感は尋常じゃない。

 …だからこそ、不安の芽はひょっこりと顔を出した。



 ――このエヴィル迷宮攻略、誰が敵陣を切り開くんだ?




 ---




 其処に在ったのは、魔王城だった。


 黒塗りの石々によって造られたがっしりとした土台。

 天然の岩場と見紛うほどに険しくゴツゴツとした外壁。

 高い崖の上に築城されているが、異様な安定感がある。

 今の人類が持つ技術では到底実現不可能な立地条件。

 つまり、他の高次元な存在が建てた城だということだ。

 …きっと、ソイツの美術の成績は優れていたことだろう。


 御伽噺中でしか見ないような城が眼前に聳え立っている。

 その事実は、未だ少年心を捨て切れぬ俺の瞳を喜ばせた。

 雲の切れ間から時折顔を覗かせる月面は妖しげに輝き、

 漆黒の巨城は薄らと届くその月光を丸ごと呑み干した。

 太古の惑星よりも己が格上だと知らしめるような存在感。

 ゼータが持参したキャンバスに一心不乱に描き殴っているのも、今ならば頷ける。


 口を開き上を見上げる男衆。

 そんな俺達に、ユメハは嘲るように言った。


「ふふっ、見惚れるのは別にいいけどさ。」


 含みを持たせた短い発言。だが、真意は読み取れる。


「これからあの城を陥落させるのに…ってことすか。」


「うん、タドクちゃんはよく分かってるみたいだ。

 あれは文化遺産でも芸術品でも無い。ただの迷宮さ。

 写生も詩作も止めはしない。感嘆も戦慄もすればいい。

 けど、此処までだ。此処から先は覚悟を決めないとね。

 ―――ふふっ、大丈夫そうだね。ボクも安心したよ。」


 ユメハは演説を終えると、一歩後ろに退いた。

 彼の後ろに在るのは、万物を吸い込むような闇だ。

 彼は踊るようにして、奈落へ飛び込んでいく。


 …言い方を変えよう。ユメハ物凄く深い渓谷に()()()


「「「「 …!!!!???? 」」」」


 底を見ることすら困難な自然の落とし穴。

 足を滑らせた人間が生きて帰ってくることなど無理…



 ――直後、崖下から竜巻の如き突風が吹き上げた。



 同時に現れたのは、先程死んだはずのユメハ。

 この突風は自然現象か? そんな訳は無い。

 奇跡では無く必然。確実にユメハの妖術だろう。



「改めて…エヴィル迷宮攻略隊、副隊長, ユメハ。

 君達を守る為、勝たせる為にボクは呼ばれた。

 ボクが生きている限り、死者は必ず出させない。

 安心して背中を任せてね。――よろしく。」



 ユメハはそう言って指をパチンと鳴らした。

 その瞬間、彼は細胞一つ残さずに空中から消滅した。


 俺は後ろを振り向きながら、畏怖を込めて呟く。


「……無茶苦茶っすね。」

「タドクちゃんもいずれ出来るようになるさ。」


 ユメハは戯ける様にクスクスと笑った。

 …瞬間移動など、そう簡単に出来てたまるか。



「――エヴィル迷宮攻略隊、隊長, ゴウノア!!」



 馬鹿デカい声が月夜の静寂をぶち壊した。

 呆れ顔の者が数名、耳を塞いだ者が数名。

 あまりの爆音に心臓が止まりかけた者が多数。

 それを気にも留めず、ゴウノアは再び叫んだ。



「意思確認など、既に不要!! ――行くぞ!!!」



 有無を言わせぬ突撃命令。だが正しい。

 この期に及んで帰還を提案する者など此処には居ない。

 何せ、この場の四十余名全員が戦闘員なのだから。



 攻め落とすは、邪物が潜む暗黒の要塞。


 男として、紺糸として、勝利以外の結果は認められない。


 あのような無様な姿は、もう二度と晒してはならない。


 …意気込む俺に対し、何者かが笑ったような気がした。




 ---




 今でも鮮明に思い出す。

 青草が春風に揺れていた、あの日のことを。

 確か、ベイドに直接声を掛けられたんだ。

 計画の日程,段取り,俺の役割…その他諸々を伝えられた。


 ――地の精霊討伐作戦。


 俺は正直乗り気では無かった。

 金には困ってない、命の危険すらある。

 そんな危険な依頼に飛び込む程、馬鹿じゃない。


 けれど、ヒルズに絆された俺は結局その依頼を受けた。

 『しゃーなしな』…そんな言葉を吐いた気がする。

 『活躍してやる』…そんな野心を心の奥底に隠して。


 結果は、見るも無残な惨敗に終わった訳だが。


 その一件でヒルズとメルは游蕩士を引退したし

 常に彼らと行動を共にしていた俺は独りとなった。


 ただ、この現状は自分が決めたことだ。

 俺は"友情"よりも"強さ"を求めてしまった。


 …最終的に、別の物に惹かれているのだから世話が無い。


「…タドクー、もしもーし。」

「聞こえてるからあんま人の耳元で大声出すな。」

「なら返事しなよ。…ほら、置いてかれちゃうよ!」


 ツバナは俺の手をパシッと掴むと、全く無遠慮に前方へと引き出した。


 同い年の少女とは思えぬ程、彼女は力が強い。

 全力で腕相撲をして俺が敗北を喫したくらいだ。

 そして、その筋力を戦闘に活かす術をよく理解している。

 姫萩内の実力で云えば、まず上位には食い込むのだろう。


 そんなツバナと俺が知り合ったのは、比較的最近だ。

 恐らくメル経由だったか、…いや、ベイドか?

 何かの縁で依頼を共にして、存在を認知した覚えがある。

 正直、仲良くなることは無いだろうなと踏んでいたのだが

 気付けば殆どの依頼を彼女と遂行するようになっていた。

 本当に唯の成り行き。…人生何があるか分からない物だ。


 絶対に直接は言わないが、ツバナは相当な美人だ。

 筋の通った小さな鼻、桜のようにほんのりと色づいた唇。

 "端正"と淡泊に表すことは出来るが、それでは足りない。

 "神が気紛れで創り出した人形"ぐらいの表現は必要だ。

 …例え拷問に掛けられようとも、口には出さないが。


 そんなツバナは、依然俺の手を握ったまま呟いた。


「にしても、長い廊下だね。」

「化物もほとんど出ないしな。」


 エヴィル迷宮に侵入してから、数時間は経ったか。

 今の所で現れた化物は、準幻妖級が十数体のみ。

 それも、束になっている訳では無く一匹ずつだ。

 四十人で取り囲んだ上での袋叩き…苦戦するはずも無い。


 つまり、数時間中の攻略で実質的な戦闘時間は一握りであり、殆どは移動時間だった。


「迷宮感はちょっと薄目かな。」


 少し惜しむような口調のツバナ。

 それはそうだ。何せこれは片道三週間の長旅。

 労力と費用に対し、得られる成果と経験はかなり少ない。

 …この先に強敵が待ち構えている可能性も勿論在るが。

 少なくとも現状でその気配は感知出来ていなかった。


「売れば値段が付きそうな物は割とあるけどな。」


 俺が視線を向けたのは、廊下に展示された芸術品の数々。

 黒を基調としたそれらは、素人目に見ても美しかった。

 実際、卯杖のプロ達も口を揃えて絶賛しているほどだ。

 その彫刻や絵画が充分な素質と可能性を秘めていることは疑う必要も無かった。


「まぁ、持ち帰れないけどね。」

「攻略したらこれも全部崩壊するしな。」

「ねー、勿体ない話だよほんとに。」


 ツバナは残念がる。彼女の手はまだ俺に触れていた。

 均等に整った温かい脈動が俺の指先に伝わってくる。

 何故握ったままなのか、何故全く気にしていないのか。

 浮かんだ質問達が俺の喉を通って行くことは無かった。


 一秒でも長く、これが続けばいい。…そう思ったから。



 ◇



 化物の出現ペースはきっかり十五分毎だった。

 寸分の狂い無く数え続けたのだから、確実にそうだ。


 時間になると奴らは何処からともなく襲い掛かって来る。

 時に酸を、時に炎を、時に嵐を辺りに撒き散らしながら。

 壁か地面か天上か、生えてきているのかと思う程突然に。


 単騎とは言え、その戦闘力は然るものだ。

 人間を一撃で屠るだけの妖術を必ず用意してきている。

 準幻妖に分類される奴らを、決して侮ること勿れ。


 …"脳筋"と称される男のことも、決して嘲ること勿れ。


「――ふんっ!!」

『 …Syrraa…… 』


 人類vs毒蜘蛛の苛烈な戦闘が終わりを迎えた。

 決め手はゴウノアによる裏拳打ち、呆気ない最後だった。

 …生物を肉塊に変えてしまう技を本当に裏拳と呼ぶのかは、疑問が残る。


「お疲れ様、ゴウノアちゃん。無事かい?」

「聞かれるまでも無く、ピンピンしている!」

「…素肌に猛毒浴びてたっすけどね。」


 思わず指摘してしまった。無駄だとは知っているのに。

 いい加減学ばないとな、この人達に常識は通じないって。


「鍛えろ、タドク。お前ならすぐに此処まで…」

「結構っす。求めてないんで。」


 真剣な顔で宗教勧誘を始めたゴウノアの言葉を遮る。

 一度でも魅かれた素振りを見せれば俺の人生は終わりだ。

 筋肉人間として過ごし、生涯の幕を下ろすことになる。

 その結末だけは絶対に回避せねばならない。

 何があってもこの人と同じ末路だけは辿りたくない。


「…一昔前は流行っていたんだがな。」

「二十年前とかの話してないっすよね?」


 二十年前…ゴウノアがまだ若かった頃。

 ベイドの父が旧褐礫の約諾リーダーを務めていた時代。

 ゴウノアにとってはその頃が青春だろうが、生憎と俺は生まれていない。


「ふむ、丁度それくらいの時期だ!」

「俺が分かる訳無いじゃないっすか。」

「いや、タドクでも知っているはずだぞ。」

「…俺が生まれた時は、もう褐礫滅んでたっすよ。」


 おずおずとその事実を口にしてみる。

 だが事実、褐礫は<罪の劫火>により一度崩壊していた。

 古参のゴウノアにとっては苦々しい記憶であるだろう。

 ベイドが褐礫を再興させたのも、実は比較的最近の話だ。


 しかし、俺の言葉を聞いたゴウノアは首を傾げた。


雄黄の鼓吹(ゆうおうのこすい)――聞いたことくらいはあるだろう?」

「…あぁ、そっちの話をしてたんすね。」


 ゴウノアが語ったのは、とあるギルドの名だった。

 ソレが滅んだのは六年前、当然俺も生まれていた。

 まだリソルディアに住んでいた頃だ。街中に激震が走ったのを覚えている。


「そのリーダーは、正に憧れの的だった。

 武器は己の肉体、それと小さな眷属だけだ。

 刃物も特別な妖術も使わず…游蕩士の覇権を握った。

 彼のようになりたい、例に漏れず俺も心を奪われたさ!」


 拳を固く握り締め、力強く吐き出したゴウノア。

 その表情は、俺からは何故か少し寂しそうに見えた。


「それで、筋肉の鍛錬にまんまとハマったってことすか。」

「はっはっ! お前はもう少し熱くなってみたらどうだ?」

「…まぁ、そんな興味のある話じゃなかったんで。」

「これだから最近の若者は!」


 俺は、体術よりも妖術の方が好きだ。

 肉弾戦よりも遠距離戦をやっている方が楽しい。

 ある意味、ゴウノアとは真逆の性格なのかもしれない。


 …だから、何故俺が気に入られてるのかが分からない。

 愛想も可愛げも面白げも無い後輩という自覚はある。

 そもそもゴウノアとは所属するギルドすら違うのだ。

 彼は、俺の何処に魅力を感じ、俺に何物を期待しているのだろうか。


「この妖術は、お前も気に入ると思うんだがな!」

「あー、"鎧"とか言ってたやつすか。」

「そうとも! 俺は今後継者を探している!」

「少なくともその後継者は俺じゃないっすね。」


 拒絶の意を聞いてもなお豪快に笑うゴウノア。

 どうやら冗談を言っているとでも思っているようだ。

 心の奥底から掬い上げた言葉なのだが、彼には響かなかったらしい。


 …そんな時、横から言葉が差し込まれた。


「ふふっ、それにはボクも同感さ。」


 準幻妖の妖石を鑑定し終えたユメハからだ。

 毒蜘蛛の濁った妖石は、地面に乱雑に放置されている。

 どうやら彼の肥えたお眼鏡には適わなかった様子だ。


「タドクちゃんにはね、あんまり"鎧"は合わないかな。」

「なんか、含みのある言い方っすね。」

「そうだねぇ、もっと似合う妖術が在るのさ。」


 ユメハは珍しくニヤリと狡猾な笑みを見せた。

 …具体的な妖術までは教えてくれないらしい。

 相変わらず、何を考えているのかよく分からない人だ。


「――ほら、そんなことを言ってる間にさ。」


 前方をゆっくりと指差したユメハ。


 ――其処には、分厚く頑強な扉が待ち構えていた。


 壁や天井に違わず、黒く塗りたくられた扉だ。

 髑髏や悪蛇などの禍々しい装飾が施されている。

 巨人が通る為に設置されたのかと思う程に巨大だった。

 但し、取っ手の位置とサイズは紛うことなく人類用。

 まるで俺達人間を歓迎しているかのようだ。


「…いよいよ、親玉ぽいね。」


 俺の横を歩くツバナがそう独りごちた。

 彼女の顔には普段表すことのない緊張感が滲んでいる。

 透き通った声も、微妙に震えているように感じられた。

 武者震いでは無いだろう。長く隣に居たから分かる。


 彼女は戦いに"喜び"を抱くタイプではないから。


 ツバナが感じているのは不安と恐怖。

 根は臆病な少女なのだ。俺は知っている。

 それを打ち消す為に、体を鍛え技を磨いた少女なのだ。


 そんな少女の空いた左手を、右手で掴む。


「! んははっ、急にどうしたのタドク。」

「なんでもね。…俺が手繋ぎたくなっただけだ。」

「女の子にそういうことすると、勘違いしちゃうかもよ?」


 微笑むツバナだが、手を振り解こうとはしなかった。

 そういうことをされると、俺も勘違いをしそうになる。

 生粋の天然娘、…だから彼女はズルいのだ。



「いざ、尋常に。行こうか!!!」



 バッと手を広げたゴウノアが、扉を押し開けた。



 ◇



 宮殿の最奥に待ち受ける物と云えば、何を考えるか。

 金銀財宝か,太古の至宝か,伝説の名刀か,最上の絶景か。

 聞く人によって、返答の細部は異なるだろう。


 では、魔王城の最奥に待ち受ける物と云えば。

 百人に聞けば、百人が口を揃えてこう言うはずだ。


「……玉座。」


 ツバナが眼を鋭く細めながら、見たままを呟いた。


 俺達が辿り着いたのは、だだっ広い"王の間"だった。

 灯りの付いていないシャンデリアが天井から垂れ下がり

 代わりに小窓から差し込む月光が空間を照らしている。

 黒いカーペット、黒い大柱、黒い階段、黒い巨壁。

 迷宮の趣味だろうか、あまりにも明度が乏しく重苦しい。

 これから良くないことが起きるのでは無いか。そんな不安が心に生じた。


 また、疎らに配置された化物達が目に映る。

 その数、十六匹。一体一体がかなりの妖力を持っている。

 全て、俺達が道中で始末してきた準幻妖と同種族だった。

 ただ今度は同時に全化物を相手取る必要がある。

 これまでに無いくらいの苦戦を強いられるだろう。


 そいつらを抜けた、短い階段の先。

 圧倒的な威圧感を纏う、一つの玉座が在った。

 例に漏れず真っ黒に染め上げられた大きな椅子だ。

 椅子自体にも豪華な彫刻などが成されていたが

 あまりに均一な黒色であるが故に正確に捉えられない。

 …貴重な芸術品に対し、幼い子供がインクをぶちまけたみたいだ。


「…幻妖居なくねーか?」

「にゃはは、なんで残念そうなのさ。」


 ゼータとエミャの会話を聞いて、気が付いた。

 本来此処で挑戦者を待ち受けているはずの存在。


 迷宮の親玉である幻妖が、何処にも見当たらない。


 …そんなこと、有り得るのか?

 親玉が居なければそもそもこの迷宮は成り立たない。

 迷宮の目的が親玉の解放だというのならば、尚更だ。


 その数瞬の内に、俺は二つの仮説を立てた。


「可能性は、二つ。」

「タドク、言ってみろ!」


 続きを促すように頷いたゴウノア。

 その瞳には、信頼と期待が込められていた。


「そもそもこの場所が最深部じゃない。

 もしくは親玉が尻尾を巻いて逃げたか、っすね。」


 前者はよくある話、後者はただの妄想だった。

 けれど、この妄想が当たっていたらそれは面白い。

 親玉が己の部屋から動いてはいけない――そんなルールが覆されることになる。


「何にせよ、この化物達は仕留めないとね。」


 冷静に意見を述べるユメハ。…早く戦いたいだけか。

 その意思を汲んでか、ゴウノアは俺達に指令を飛ばした。



「――蹴散らすぞ!!!」


「「「「 うぉぉおおお!!! 」」」」

『『『『 GGGRUUOORAAAA!!!!! 』』』』



 すぐに、勇猛な雄叫びと獰猛な唸り声が混ざった。




 ---




 その化物は、興奮に身を震わせていた。

 ――ピシりと、音が響く。


 ソイツにとって、全ての物は己の餌だった。

 ――ピシりと、音が響く。


 あらゆる情報、あらゆる物質はソイツの糧となる。

 ――ピシりと、音が響く。


 そんな冒涜行為を可能にするのが、ソイツの力だった。

 ――ピシりと、音が響く。何かが破壊された音だった。


 何が壊れた? 岩か、木か、鉄か?


 否、それは大部分が炭酸カルシウムで構成された物質。

 無数の気孔を備え付けた、美しい曲線を宙に描く物質。

 中の何物かを守る為、見事な楕円形を外気に晒す物質。


 万人に最も馴染みのある言葉を使うならば、卵の()だ。


 その殻の一部が、亀裂を発生させながら砕け散った。

 原因は外部からの衝撃では無い。むしろ、内部からだ。

 開通したのは、人間の腕が一本通せる程度の小さな穴。

 卵殻の奥は、果てしない闇だった。しかし其処から…



『 hahahahahahaha…!!!!! 』



 甲高い笑い声が、外の世界へと木霊した。



 ◇



 人間達の足元には、十体弱の死体が転がっている。

 ――残りの敵は少ない、このまま押し切るぞ。

 そんな雰囲気は、奇怪な笑声によって揉み消された。


「…何の、声?」


 彼らは一様に音源を探り始める。

 その声は明らかに人間が出す音では無かったから。

 …結果的に全ての視線が集まったのは、玉座だった。


 先程まで、空席だったはずの豪華な椅子。

 いや、正確には全員が"何も居ない"と判断しただけだ。

 ありとあらゆる気配が押し殺されていただけなのだ。


 王座には、確かに一匹の幻妖が座り続けていた。


 問題はソイツが黒色であり、背景と同化していた点だ。

 ユメハですら気付けぬ程、膨大な妖力を隠していた点だ。

 人類が、ソイツに()()()()を与えてしまった点だ。


『 kuhahaha. 』


 ポッカリと空いた小さな穴から、一本の腕が飛び出す。

 細く長い、漆黒の腕だ。指が四本しか無い事は分かった。


 流石は歴戦の猛者達だ。游蕩士の反応は早かった。

 彼らは化物との戦闘を中断し、入り口付近へと後退した。

 弧を描きながら、漆黒の腕の動向を窺っている。

 例え襲撃があろうとも、すぐに迎撃出来る体制だ。


 しかし、腕の攻撃が彼らに届くことは無かった。


『 haha!! 』


 漆黒の腕が狙ったのは、未だ広間に残る準幻妖共だった。

 腕が一匹の化物に触れるとその化物は瞬く間に()()()()


「っ、あれは…!」

「『闇』だね、厄介な…。」


 ユメハが忌々し気に言葉を零した間にも

 一匹、また一匹と準幻妖達が消滅していく。

 それにも飽き足らず、腕は床に転がる死体をも喰った。


 …その段階で異変に気が付いた者が数名。

 代表するように、ゼータが驚愕に満ちた声を出す。


「…おいおい、デカくなってんじゃねぇか…!」


 然り。漆黒の腕は、化物を食う度にサイズを増している。

 現在では腕の太さが出現時の数倍にまで達していた。

 "不吉"という言葉を具現化すれば、恐らくコレになる。

 無条件でそう思わせる程に、腕は"恐怖"を散布していた。


 さて、仲間討ちとも言える形で準幻妖は片付いた。

 この後に何が起こるのか、賢い者は悟ったことだろう。

 愚かな者でも、本能的に理解をしてしまったことだろう。


『 …kuhaha, 』


 その幻妖は、王座から飛び降りた。

 "王"という絶対的立場に興味すら無いようだ。

 この狭い城に閉じ籠る気など更々無いようだ。

 ソイツが求めるのは、より大きな舞台。より美味な餌。

 準幻妖という名の食前酒で食欲を増大させた後は…


 …人間という前菜を喰らう為、動き出した。


「「「「 ――っ!!!! 」」」」


 幼児にも似た無邪気な殺気が壁際の人間達に注がれる。

 それすら楽しみながら、ソイツは階段を優雅に下った。


 天から差し込む光により、ソイツの全貌が遂に暴かれる。

 とは言っても、出し渋るほどに面白い物でも無かったが。


 さて、何処のご家庭にも在る鶏卵を想像して欲しい。

 清涼な色を放つそれを、一度黒く塗り潰してみよう。

 その後、縦横それぞれ二十五倍程度に引き延ばそうか。

 仕上げに、握った拳で一ヵ所を殴り穴を空けるだけ。


 …イメージ出来ただろうか?

 ならば良かった。階段をゆっくり降るのは、正に()()だ。

 黒色の楕円物が、跳ねる様にして人間達に迫って行く。


『 …hahaha…!! 』


 空いた穴から、歓喜の音を響かせながら。


 游蕩士達は動かなかった。

 現状の把握、今後の行動。全員が思考を巡らせる。

 …その間にも、邪悪な黒卵は彼らに近づいていたが。


 結局、数十秒は戦況が動かなかった。


『 ――haha. 』


 幻妖が再び漆黒の腕を出現させるまでは。


 腕のスピードは、先に見せた物とは桁違いに速い。

 下手をすれば『光』と同等以上の速度を誇るだろう。

 不意打ちに対し、人間達は誰一人対応出来なかった。


「――させないよ、」


 ユメハと呼ばれる男だけは、別枠だったが。


 彼が振るった刀は漆黒の腕を見事に断ち斬った。

 既に人間大の体積を持つ手指が地面に落下していく。

 己の唯一の武器を奪われた邪の化身は…



『 hahahaha…!!! 』



 既に再生した腕を以て、()()()()()()()()()()()



「…………え?」



 発生した衝撃波によって天窓が砕け散った時、

 目を丸くしたツバナの口から、そんな感嘆詞が漏れた。

 ガラスの破片が、卵の殻へとパラパラ降り注いでいる。

 その様は何処か神秘的で、何故か非現実的に感じられた。


 漆黒の腕が、ゆっくりと地面から持ち上げられる。

 カーペットには、どす黒い血痕が無惨に残っていた。

 それらは疑う余地も無くさっき死に至った男の物だろう。

 興奮を隠そうともせぬ幻妖は、指先でシミをなぞるようにして舐め取った。


 此処に来て大半の游蕩士達は現実を飲み込めたらしい。

 ユメハの死亡を、唯の悪夢では無いと理解をしたらしい。


『 ……hahahaha, 』

「「「 ………!! 」」」


 幻妖の興味が自分達に向いていることを分かったらしい。


 ――ドカンと、鈍く激しい音が響いた。

 続いて、何かが崩落していくような振動が迷宮を揺らす。

 それはゴウノアによって意図的に作り出された非常口。


 彼の後ろにある堅牢な扉は、今や瓦礫と化していた。


 そこから垣間見えるのは、彼らが通って来た長い廊下。

 曲がりくねった、迷宮と呼ぶに相応しい通路だった。

 ゴウノアがその道を抉じ開けた意図。それは――



「――撤退だ!!! 走れッ!!!!」



 若き生命の保全。そして、幼き才能の護持。


 例え、己の身を投げ出そうとも。彼はそれを望んだ。


 一秒でも長く幻妖を抑えようと、彼は最後尾に立った。


 廊下へ,出口へ、全力で駆け出していく游蕩士達。



『 ――kuhahahaha!!!!! 』



 活きの良い食糧を、邪卵(ダーク)は狂喜を以て見送った。


 …手始めに、大男の覚悟と度胸を喰い荒らしながら。



 ◇



 王の間に辿り着くまでに要した時間は、徒歩で四時間。

 ユメハ曰く、この迷宮の空間は歪んでいないらしい。

 つまり、迷宮を脱する為に必要な距離は往路に等しい。


 それさえ確定しているのならば、後は走るだけだった。


「…ハァ、…ッハァ…、」


 往きに掛かった時間には化物達との戦闘も含まれている。

 それを除外して考えれば、移動時間は四時間に満たない。

 歩行速度と走行速度を比較して考えて、所要時間を導出。


 長考の末、一時間は必須だとタドクは結論付けた。


「…ツバナ、後四十分だ! 止まるなよ!」

「…っ…うん!! 絶対生きて帰ろう!」


 並走しながら、互いに鼓舞し合ったタドクとツバナ。

 まだ新人とは言え、数々の修羅場を潜り抜けている。

 この二人は既に游蕩士として充分な気質を持っていた。


 そんな高級食材を、奴は決して逃がしはしない。


 …彼らの背後から、邪の手が迫って来ていた。

 天井を這うヤモリのように、その影は猛烈に突き進む。

 殆ど同じ速度で、しかし着実に距離は縮まるくらいで。

 数分もすれば、四本指がタドクの頭部に触れ掛けていた。


『 haha…!! 』


 邪卵(ダーク)の笑い声が長い廊下に木霊した。

 人間流の言葉に換えるならば、"頂きます"だろうか。

 獲物に最大の敬意と侮蔑を伝えるような軽い笑声だった。


「……殺らせねぇよ…!!!!!」


 ――立ち昇った炎の壁に遮られるまでは、の話だ。


『 ……haaa…???? 』


 ゾッとするような、威圧的な声が響いた。

 食事を邪魔された怒りか、漆黒の腕が肥大化する。

 それを正面から睨みながら、ゼータは後輩に声を掛けた。


「――生きろ!!!!!」


 想いを受け止めたタドクとツバナは、再び駆け出す。

 彼らは一度として、後ろを振り返ることは無かった。

 背後から骨が砕ける音が鳴ろうとも、決してだ。


 それが、ゼータに対する最大の尊敬だと知っていたから。



『 kuhahahaha…!!! 』



 二人は城門を目指して走り続けた。

 タドクは精確に経過時間を数え続けている。


「…後、二十分…!!!」

「……分かった……!」


 そして、ツバナはそれを完全に信じ切っている。

 その信頼関係が、彼らを游蕩士として支えてきたのだ。


 ただの人間が寸分違わず時間を数え続けるのは可能か?

 己の移動距離から平均速度を暗算で弾き出すのは可能か?


 私は不可能だと思う。…だが、ツバナはそれを信じた。

 自身が愛慕する男のことを、彼女は最後まで信じていた。


「……ぁっ、」


「………ツバナ…!!!???」


 後ろを振り返り、決死の表情で叫んだタドク。

 彼の視線の先には、地面に伏したツバナの姿が在った。


 ――彼女は、躓いて転んだのだ。


 愚かと詰ること勿れ。ツバナは天然だが、ドジでは無い。

 何も無い平坦な地面で転ぶような、か弱い少女では無い。


 倒れ込んだ彼女の爪先部には、大きな突起が生えていた。


 ツバナだけを狙った巧妙な罠が、地面に在る。

 そんな小細工で邪卵(ダーク)を味方する奴は決まっている。

 まず間違いなく、エヴィル迷宮本体が謀ったのだろう。


『 …hahaha!! 』


 漆黒の腕が再び二人に迫って行く。

 タドクはツバナに手を伸ばした…が、間に合わない。

 邪悪な指先がツバナの心臓を貫くかと思われた瞬間。


「―――立って!!」


 ツバナの軽い身体が、何者かによって引き上げられた。

 強制的に立ち上がったツバナがタドクに緩く衝突する。

 安心したようにはにかんだエミャは、死を受け入れた。


「にゃははっ、…頑張りなね!」


 直後、エミャの体は『闇』に喰い尽くされた。

 甘美な肉体を堪能するように、漆黒の腕は動きを止める。

 その隙を突いて、タドクはツバナを連れて駆け出した。


 己の命に掛かった責務を奥歯で噛み締めながら。



『 …haha, ――hahahaha!!! 』



 現時点で、タドクはあらゆる感情を殺していた。

 それが逃避行の障害になると鮮明に分かっていたから。

 彼は計算と報告を行うだけの機械として、走った。


「…応答は不要。出来る限り世間に広めてくれ。

 俺達エヴィル迷宮攻略隊は失敗した。()()()()

 恐らく親玉が世界に放たれることになると思う。

 現在生存が確認出来てるのは、…俺含め二人だ。

 俺達の命ももう長くないかもしれない、だから…

 …だから、この通信だけは、届いていることを願う。

 何としても、あの化物を、止めてくれ。…オーバー。」


 そう言い残し、彼は耳から紺色のピアスを引き千切った。

 多少のタイムラグはあれど、これで報告は届いただろう。

 後は紺糸メンバーの誰かが話を広めてくれるはずだ。

 きっと、ベイドなどが主体となって街単位の会議を開く。

 其処で邪卵(ダーク)迎撃隊などが組まれることになる。

 人類の総力を賭けて幻妖を討伐し、ハッピーエンドだ。


「……()()()()…!」


 タドクは自らの立てた未来設計を破り捨てた。

 あの卵を駆逐するのは大賛成。アイツは死ぬべきだから。

 けれど、彼はその迎撃隊に自分とツバナも加わるべきだと考えていた。


「……ツバナ! 出口だ!」

「…!!! うん、走りきろう!!!!」


 自分達が此処で死ぬという結末を、彼は認めなかった。


「…ハァ、…ッ…ハァ…、」


 黒塗りされた頑強な城の扉を潜り抜けた二人。

 飛び出したのは簡素な一本道の庭園だった。

 異界から採って来たような植物が群生している。


 それらを抜けた先に在るのが、巨大な城門だ。


 五,六時間前に通ったあの鉄製の門。

 邪卵(ダーク)はまだそこを通る権利を得ていない。

 敷地さえ跨いでしまえば取り敢えずの安全を確保出来た。


「…ハァ…ハァ…ッ……!」


 タドクは全ての筋肉を燃やしながら走る。


 体に蓄えられた全ての力を絞りながら走る。


 己の右手を強く握る少女を必ずや生かす為に。


 恩人達の死を"無駄だった"などと嗤わせない為に。


 生き残って、力を付けて、あの幻妖を確実に殺す為に。



 その時、右手に触れていた温かく柔らかな感触が消えた。



 門まではあと数歩跳ぶだけで辿り着けるというのに。


 託された思いを街まで持ち帰ると誓ったはずなのに。


 長い逃走劇を、比較的良い結果で終わらせるはずなのに。



『 ――haha…!!! 』



 …なんで、お前はいつも俺の邪魔をすんだよ。



「……こふっ……」


 タドクが後ろを振り返ると、そこにはツバナが居た。



 ――下半身を喰われ、鮮血を宙へ散らすツバナが居た。



 彼女の体は何か重要な糸が切れたかのように崩れていく。

 タドクに出来たのはその上半身を支えることだけだった。

 だからと言って、彼女の生死が書き換わることは無いが。


 少なくとも、最期の会話時間だけは確保できたようだ。


「…ごめんね、タドク。…ミスしちゃった。」

「ミスじゃねぇよ、お前は何も悪くねぇよ。」

「一緒に生き残ろうって、約束したのにね~…。」

「大丈夫、まだ生きてる。まだ、救える、はずだ。」

「…うぅん、ダメだよ。この傷じゃ、助からない。」

「…ツバナ、ごめん、…俺が、弱いからだ。」

「違う、タドクは強い。もっと強くなるよ。」

「…あぁ、絶対に強くなる。…アイツを、絶対に殺す。」

「…んははっ、タドクなら出来るよ。私、信じてるもん。」


 ツバナの瞳から、徐々に光が消えていく。

 それでも、彼女は意志の力で数秒だけ繋ぎ留めた。


「…ね、タドク。――大好き。」


「あぁ、ツバナ。俺も、永遠に愛してる。」


 タドクはツバナの唇に自らの唇を重ね合わせた。

 ほんの数秒だけの恋人関係。最初で最後の口づけ。


 ――次にタドクが目を開けた時、ツバナは息絶えていた。


 冷たく、白く、柔らかい亡骸を腕に抱いたタドク。

 そんな彼の正面から、ゆっくりと、邪の権化が迫る。

 邪卵(ダーク)の黒光りする殻には、激しく亀裂が入っていた。

 指で軽く小突くだけで殻全体が壊れてしまいそうだ。

 だが、そんなことをする必要性など何処にも無かった。


 もっと簡単に(ヒビ)を広げる方法がこの世には在るのだから。


 邪卵(ダーク)は、漆黒の腕を再び穴から顕現させた。

 漆黒の腕はタドクの脆い身体にまで伸びていくと…



 ――彼の腕に収まっていた少女の死体を、喰らった。



 直後、邪卵(ダーク)の卵殻に変化が訪れる。

 ピシピシと音を立てて、亀裂が広がり始めたのだ。

 その崩壊は止まることを知らず、やがて卵が二つに割れ…


 本体とも言うべきソイツが、月夜に姿を晒した。


 一言で表すならば、幼児だ。

 未だ首がすわらず、グラグラと揺れ続ける頭部。

 頭に対して首から下の大きさが釣り合っていない。

 目に入る物を全て口に入れるような好奇心を持ち、

 常に新しい物を求めるという貪欲さも兼ね備えている。

 下半身は前形態の名残である卵殻によって隠れていた。


 眼は無く、毛も無く、耳も無い。

 在るのは四本指が付いた二本の長い腕。

 そして、喜びを貼り付けた黒色の口腔だけだ。


『 ――KuHaHaHaHa!!! 』


 孵化を完了した邪子(ダーク)は高笑いをした。

 豪華な前菜を喰らい尽くし、大層ご機嫌なようだ。

 奴は存在しない瞳で眼前の弱者を眺めると…


『 HaHa. 』


 嘲笑を投げ掛けて、飛び跳ねながら前進を始めた。

 情けを掛けたか、単に腹が満たされているだけか。

 或いは、より美味しくなって帰ってくるのを期待したか。


 何にせよ、邪子(ダーク)はその青年を見逃した。


 奴は檻のような鉄の門に近づき、指で触れた。

 直後、膨大な妖力ともう一つの意思が奴に流れ込む。

 奴はそれを喰らい、余分な不純物を消化し終えると…


 何の縛りも無い広大な大地へと、旅立っていった。


 残されたのは、主を失い崩壊していくエヴィル迷宮。



「…あぁ…あ""あ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"あ"あ"あ"あ"""!!!!!」



 ――それを背景に、夜空へ吠えた独りの青年だけだ。




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