第十三話 踏破
「ここで一つ、小話でも。
昔、ある迷宮がありました。」
「氷で出来た美しい迷宮で、
最深部には純白の子熊が居ました。」
「最深部に辿り着いた游蕩士達は、
その子熊に愛着を持ち、見逃すことにします。」
「この程度の子熊、
解き放たれても問題あるまいと。」
「年月は流れ、二年後。
その白熊は街を一つ滅ぼしました。」
「游蕩士達は迷宮の成長スピードを
見誤っていたのです。めでたしめでたし。」
楽し気に笑いながら話を締めくくったミドル。
「なんもめでたくないですよ?」
「ふふふっ、これは教訓ですよ。」
「化物を見逃すなってことですか?」
「迷宮は早めに潰せってことです。」
「私は親玉を迷宮本体と表現しましたが、正確には迷宮の半身といったところです。」
「――――?」
「…それは、どういう意味で?」
「君は旅に出る時、手ぶらで家を出ますか?」
「…必要な物資は持ち出しますね。」
「迷宮とは妖力の塊ですよね。」
「そう、ですね。」
「親玉が解き放たれる時、何を持つと思います?」
「……理解しました。」
ニュートはニッコリと笑い、簡単に言い放つ。
「今から私達が戦う天鯨ですが、もし討伐に失敗すればサミット迷宮が保有する妖力全てを吸収した上で地上へ降り立つでしょう。」
「……もしそうなった時の強さは?」
「ざっと、今の二倍。」
アレの二倍…、龍人など比べ物にならないレベルの化物が誕生してしまう。想像することすらおぞましい、"厄災"そのものと化すのだろう。
◇
無心で螺旋階段を登り続けていると、二週間前に来たばかりの素朴な空間に辿り着いていた。
「まだ迷宮に入って十分だけしか…。」
「歓迎されているということですよ。」
「あんまり嬉しくないですね。」
「向こうは養分としてしか見ていないでしょうしねぇ。」
今回は外の風景に脇目も振らず、梯子に手をかける。
確かここを登った先は蝶の化物が待ち構えていたはずだ。
そう思い、身構えながら梯子を登ったが、不思議なことに次の階はもぬけの殻だった。
二人と視線を交わしながら次の梯子に手をかける。
しかし、次の階層も化物一匹すらいない。
次も、その次も、またその次も。…不自然だ。
「次が荒鼠で、次が天鯨ですね。」
「この流れで行くと、荒鼠も居ないかもしれませんねぇ。」
のんびりと自身の推測を口にするニュート。
楽観的な意見だったが、それには俺も同感だった。
例えば、道中の雑魚に注ぐ力を削減して、親玉である天鯨に全てを託すという迷宮の策略だったり……
……なんてことはなかった。
その次の階には二体の荒鼠がしっかり居た。
しかも、大量の迷宮産化物総出でお出迎えだ。
三体の■■も、四体の■■■も、五体の――、
「…これは、マズいですねぇ。」
「マズいで済んだらいいんですけど…。」
以前まで各階層に分散していたはずの化物が、今や纏めてこの階に詰め込まれているようだ。
もし迷宮に自我があるとするのならば、そいつは大層捻くれた性格をしていることだろう。
幸いにも最終層への梯子はすぐそこにあった。
いっそのこと、この階層を完全無視して次に進もうか…?
しかし、ニュートにはそんなつもりが毛頭無いらしい。
彼は肩に掛けた鞄から小さな短剣を取り出し、笑った。
俺達を安心させるように、化物共を見下すように。
昂然に、油断なく。微笑むニュートは声を張り上げた。
「クリモ君、課題を覚えていますか?」
「――! ―――。」
「それならいい、先に行きなさい。」
ニュートに頷いたクリモが足早に梯子へ向かって行った。
化物を威圧しつつ、俺を急かすように振り返るニュート。
「ヒシ君、彼を頼みました。」
「…ニュートさんは?」
「私は少しここで遊んでいきます。」
…この大群を放置すれば、天鯨との戦闘中に横槍を入れられる可能性が高い。
それを防ぐためにも、確かに足止め役は必須。
ただ…、それを最高戦力に任せてもいいものか。
本当は俺が残るべきじゃ…、――などと考えていると。
「私は死にませんよ。――自己犠牲は嫌いなんです。」
ニュートはそう言ってニヤリと笑った。
まるで自己犠牲的な一匹の化物を批判するような。
まるで大人ぶった未熟な子供を鎮めるような。
まるで先輩游蕩士としての威厳を示しつけるような。
その笑みを視て、…ようやく俺にも踏ん切りがついた。
――最後に、一つだけ、無駄なお節介を焼いて。
「……ここは任せました。また後で。」
「えぇ。対幻妖戦、楽しんできてください。」
---
「―――さて、」
改めて、辺りを見渡す。
目に入るのは奇怪な鳴き声を上げる数十匹の化物共。
種族はバラバラ、モチーフは害獣,害虫か。
正に四面楚歌。どこを見ても化物の姿が目に映った。
見る人によっては激しい不快感を催すであろう光景だ。
そいつらは煩わし気に私のことを眺めている。
ふむ、妖力を飛ばして挑発したからだろうか?
それとも、人差し指で軽く憎悪を煽ったからか?
今にも飛び掛かって来そうなほど、低く唸る化物達。
…だが、あいつらがこちらに近づくことは叶わない。
奴らの正面に構築された『光』の壁がそれを許さない。
術者はたった今最上階へ辿り着いたであろう少年だ。
「若者の成長スピードは恐ろしいですねぇ。」
そんな壁も、もうすぐ破壊される。
即席の壁にしては充分すぎる役割を果たしてくれた。
「私も本当は幻妖と戦いたかったのですよ?」
壁が壊れて真っ先に飛び出してきたのは一匹の荒鼠。
そいつの喉元をナイフで搔っ切ると、荒鼠は血を吹き出しながら呆気なく地面に伏していった。
「―――楽しませろよ?」
これだけ数が居るんだ。暇つぶしにはなる。
---
一つ下の階層から、戦いが始まった音がした。
ニュートの心配をしていない訳では無い。
ただそれよりも気に掛けるべきことが目の前には在る。
全長は正確に把握できない。
ただ、あの時の爬竜くらいはありそうだった。
『 VAWWWOOO!!! 』
二週間ぶりに聞く咆哮。
思わず耳を塞ぎたくなるが、なんとか耐えた。
対敵に弱い部分を見せてはいけない。基本中の基本だ。
横を見ると、クリモの体が震えていた。
幻妖を相手にするのは初めてなのだろう。
経験が三回ある俺ですら、未だ恐怖を抱くことはある。
一つミスれば死ぬ世界だ。誰がクリモを責めれようか。
だから俺は、クリモの背中を大きく叩いてみた。
「―――!」
目的は鼓舞。クリモにも自分にも言い聞かせるように。
「勝ちましょう。」
「――――。」
クリモの頷きを見て安心した。
俺なんかよりもずっと立派な、覚悟の顔をしていたから。
天鯨が大きく開いた口に妖力を溜め始めた。
二週間前、俺達が手も足も出なかった『風』の妖術だ。
奴の大口を睨みつけながら、俺は広く深呼吸をした。
『 VAAWWWOOOOO…!!!! 』
「………すぅ……。」
…疑問だった。
襲い掛かるのは触れるだけで皮膚が裂かれる強風。
どうやってニュートはこの風を全て防ぎきったのか。
――答えを得た今ならば、同じことが出来る。
俺はポケットから妖石を一つ取り出した。
妖石に『光』を込め、正面の暴風域へと投げつける。
イメージは――メーセナリアに屹立する外壁。
厚く、高く。化物の侵攻から民を守る頑丈な壁を。
「…創り出せ。」
護れ、自分を犠牲にすることなく。
勝て、その為ならばどんな後援だって惜しまない。
数十秒後、"光壁"が崩れ視界が晴れた。
俺にもクリモにも、一切の傷跡は見られない。
それは俺が幻妖の一撃を凌ぎきったという確たる証拠だ。
天鯨はそれを見て低く唸った。
奴の脳内にて、正式に敵だと認められたのだろうか。
俺達二人に向けられる視線は数分前より鋭くなっている。
メインアタッカーはクリモだ。
俺に求められる戦果は、如何に彼をサポートできるか。
駆け出し游蕩士二人による、幻妖討伐が幕を開ける。
◇
「五秒後、中範囲に暴風!」
「―――――。」
…力の限り叫ぶ。
それを聞き、即座にその場から離れたクリモ。
『 VWOO!!! 』
天鯨が身を大きくよじると、数秒前まで俺とクリモが居た場所に小さな竜巻が一本ずつ形成された。
"小さな"とは言うが、それはあくまでサイズの話。
むしろ威力が凝縮されていると考えるべきだ。
あんなのに巻き込まれれば五体満足ではいられない。
「―――、――――!」
クリモは足に『力』を込めて、空高くへと跳んだ。
彼は十メートル程上を飛ぶ天鯨へ一瞬にして迫る。
『 ……VWWOO…, 』
「――――、―――。」
『毒』を込めた短剣を素早く振ったクリモ。
しかし更に高度を上げてそれを躱した天鯨は、空中で無防備な姿を晒すクリモに向かって激しい『風』を吹きかけた。
クリモは負けじと短剣に『風』を込めて反撃。
空高くで二陣の風が激しくぶつかり合った。
しかし流石にクリモの妖術が劣るようで、相殺しきれなかった余波のような風が彼の体を地上へと吹き飛ばした。
「――――!! ―――、」
「っ、……ょし。」
硬い床へ頭から叩きつけられかけたクリモを空中で支えながら、俺は転がるようにして地面へと着地した。数か所に擦り傷を負ったが、些末な問題だ。
そうしている間に天鯨は再び高度十メートル付近へと降下し、停止した。
「怪我は?」
「―――。」
「OKです。」
クリモの頬には『風』による数本の切り傷が見えた。
…それをわざわざ指摘するのは野暮だろう。
余計な思考を排除しろ。重要な情報は一握りだ。
――天鯨には何故高度を下げる必要がある?
奴が遥か空へと上昇していけば、俺達に対抗手段は無い。
絶対的な安全圏から、危険地帯へ降りる理由。
…そうしなければ天鯨にも不利な影響が現れるから。
「見た感じ、天鯨にも射程距離があります。
多分ヤツの攻撃が届くのは二十メートル程度かと。
『毒』か『雷』で鈍らせられれば勝機は充分あります。」
「――――。」
俺は、頭の中で整理した推測を捲し立てるように喋った。
そうでもしなければ、…………!
『 …VWOOO!!! 』
「右に跳んで!」
「――――、」
クリモと同時に、左右へ散るように駆ける。
直後、俺達が立っていたはずの地面が割れた。
天鯨が放った風が一文字を書くように地面を裂いた。
…文字にすればなんてことない妖術に見えるが、恐るべきはその予備動作の無さ。
天鯨が妖力を溜め始めてから着弾まで、二秒弱。
一瞬でも妖力感知を怠れば体を真っ二つに裂かれてお陀仏だ。
「そのまま後ろに五歩、右に―――」
「―――、――――。」
クリモは俺の指示通りに動く。
彼は、正確に機械的に、天鯨の妖術を避けていた。
「――、―――、―――。」
「…………?」
何処までも指示通り、何時までも従順に。
――――ある時には、指示よりも先に。
少し前から違和感はあった。
妖力を感知する能力というのは、全ての人間,化物に生まれつき備わっている能力である。『何かぞわぞわする』と表現する人もいれば、『視られている気がする』と表現する人もおり、感じ方は多種多様であるとされている。
曖昧な要素は多々。故に"第六感"と称されたりもする。
だが、言ってしまえば"身体能力"や"思考力"と同じだ。
才能や努力によって能力値が変動するのは自然な話で。
つまりは、人によって優劣が生じてしまう力でもあった。
ニュートは鍛えて感知能力を上げたらしいし。
俺は化物として生まれつきそれなりに備わっていた。
兄ちゃんに関しては後天的かつ稀有なケースだろう。
そんな化物との戦闘において必須とも言える能力だが、当然欠点は存在する。
それは、"後手に回ってしまう"ということ。
一定量の妖力が在って初めて機能する能力だ。
相手が妖力を溜め始めるまで、こちらは『使う妖術』『妖術の規模』『及ぼす影響』を予測することが出来ない。
未来予知が出来る超能力では無い。
持ちうる情報から未来を"予測"しているだけなのだ。
……だからこそ、クリモは異質だ。
二週間前、天鯨との初対面。
全く情報が無い状態で、妖術の予測など不可能だった。
思い出せ、あの時一番最初に反応したのは誰だ?
俺とニュートよりも早く、目を見開いたのは?
最も早くに危険を察知したのは――クリモだった。
クリモは俺達よりも早く妖力を感知しただけだ――
――――そんなはずはない。それだけはありえない。
だって、天鯨が妖力を溜め始めたのは…
俺達がニュートに投げ飛ばされた後だったから。
クリモの反応はあまりにも早すぎた。
それこそ本当に、一人だけ未来が分かってい――、
「………っ」
あぁ、クソ。しくじった。
地面に出来た大きな裂け目に躓いて、体勢を崩した。
天鯨の狙いでは無いだろう。…油断による自滅だ。
『 ……VVWOO…, 』
それを見た天鯨は低く唸り始める。
そろそろ分かってきた、大きめの技が来る前兆だ。
「………ん…」
早く、体勢を戻して、起き上がらないとな、
…それ、間に合うかな。もう、妖術撃たれてるけど。
当たったら、一撃で死ぬかな、どうだろ。
あんな小さい竜巻くらいなら、耐えれないかな。
俺が気を引いてるうちに、クリモが『毒』でも刺せば、
「――、――――!!」
「……………?」
突然、右肩に強い衝撃を加えられた。
天鯨の妖術では…無いか。怪我はしてない。
気付けば俺はさっきの場所から数メートル離れた場所に倒れ込んでいた。
同様の姿勢で真横に倒れているのは、緑髪の少年。
その少年はすぐに起き上がると、俺に非難するような瞳を向けて来る。
彼の口が使えれば、きっとこう言っただろう。
―――『何をしてるんだ、この鈍間が。』
…いや、そんな汚い言葉は使わないかな。
もっと優しい声で、柔らかな口調な気がする。
本当は、どんな声で、どんな言葉を使うのだろうか。
いつも、何を考えて、何を感じているんだろうか。
好きな食べ物は?趣味は? …喋れなくなった理由は?
俺は、『クリモ』という少年を何一つ知らない。
ここに至って、改めて深くそう感じてしまった。
『 VWWWOOOOOOOO!!!! 』
…少なくとも幻妖との戦闘中に考えることではない。
心配そうな表情のクリモへ、感謝を込めて笑いかける。
「ごめんなさい、ぼっとしてました。」
「――――、―――。」
天鯨は大きく口を開いた。
そこに溜められていく莫大な妖力。…また大技だ。
幾度目かの露骨な予備動作。
従来と一つだけ違うのはそれが『水』であるということ。
「…いけるかな。」
小声で呟く。
どっちみちやるしかないのだが。
俺は片手剣に限界まで『光』を込めた。
剣の許容量ギリギリまで込めなければ、アレに呑まれる。
「…クリモさん、俺は化物です。
『光』しか使えない、不死身じみた人間の紛い物です。
それでも、あなたの同期で、友達でいてもいいですか?」
「! ―――、」
クリモは驚いたような顔を向けてきた。
どうだろうか、不要なことを言ったかもしれない。
化物と明かしたのは、余計な告白だったのだろうか。
戦闘中に、クリモの心へ雑念の種を蒔いてしまったか。
受け入れられなければ、迫害か敬遠か悪罵か。
一秒にも満たぬ内に、俺の心へ煩悶が広がった。
そんな苦痛を消し飛ばしてしまうかのように――
「――――――!」
――クリモは、俺に優しく微笑んでくれた。
…大丈夫だ。この戦いが終わったら、話し合おう。
好きな物を聞こう、趣味を聞こう、愚痴を聞こう。
偽作の化物なりに、彼のことを知る努力をしよう。
同僚じゃない、友人として、彼に近づいていこう。
獅子との戦いは逃がす為。
龍人との戦いは復讐の為。
爬竜との戦いは八つ当たりだった。
なら、天鯨との戦いは?
…二週間前からずっと示されていた物。
喉元で引っ掛かっていた、簡単な回答。
ようやく自分自身で、その答えを飲み込めた。
「――絶対に、生かす。」
つまりこれは、友達を護る為の戦いだ。
『 VAAWWOOOooo!!!! 』
直後、天鯨の妖術により大洪水が発生した。
溢れんばかりの淡水が、俺とクリモに押し寄せてくる。
屋上を埋め尽くす大質量だ、どうしようと回避は不可能。
だから俺は、片手剣を床に突き立て――
「――《照葉》」
剣を中心に、半球の『光』の壁を創造した。
途轍もない水圧から、クリモを護りきる為に。
天鯨が生み出した大量の水は、『光』のドームを覆い隠すように,囲い込むようにしながら塔の外へと流れ出ていく。
戦況は清々ほど単純明快だ。
外に出ても、妖術が破られても俺の負け。
どう足掻いても濁流に呑まれて流されることになる。
「―――、―――、」
「…任せてください。」
天鯨は俺達を追い詰めたと考えているだろうか?
この妖術を、苦し紛れの一手だと察しているだろうか?
あぁ、確かに華やかな勝ち筋など持ち合わせてはない。
……それで上等。根比べといこうか。
---
ヒシは、突然不思議なことを問いかけてきた。
突拍子も無く、真剣な顔で、『友達か?』と。
何を今更、と思う。
ヒシのことは、前々から凄いと思っていた。
ぼくと同い年なのに一人で旅に出て、幻妖まで倒して。
ぼくには速過ぎて、気づいたら実力もかなり離れてた。
二週間ぼくも全力で走ったけど、…まだ追いつけてない。
だから、どっちかっていうと尊敬する人だ。
むしろぼくが友達で良いのかなってくらい。
――本当は、そういう言葉を返したかった。
でも、どう頑張っても声は出ないままで。
科せられた重りはいつまで経っても外れない。
だから、ぼくは頷きながら笑顔を見せた。
それが彼の為になったかは分からないけど、どこか吹っ切れたような顔をしていたからきっと大丈夫なのだろう。
今も、ヒシはぼくの為に戦っている。
妖術で幻妖に根比べを挑むなど、普通に考えれば愚かな行為だろう。
それでも、彼は自分一人で逃げることを選ばずに。
鈍間なぼくを護るという選択をしてくれたのだ。
ならば、ぼくもそれに応えなければ。
ただ見てるだけなのはダメだ。自分で動かないと。
「―――、」
「…クリモさん?」
ぼくは、左腕に付けていた緑色の腕輪を取り外した。
垂柳に所属すると渡される、ギルドメンバーとしての証のような物だ。
素材は妖石。それも準幻妖クラスの物が使われている。
腕輪を右手で握り、『光』のドームへ優しく触れさせる。
『無』の妖力を注ぎ込み、一度だけ大きく深呼吸した。
押し寄せる水を眺める。媒質は充分すぎるほどにあった。
あとは、ぼくがこれを押し返すだけだ。
「――――!!!!」
『 ――!?!? 』
「……!」
天鯨は『水』による押し流し作戦を中断し、逃げ帰るように上昇した。
全力の逃走行動、無理もないだろう。
天鯨自身が生み出したはずの大洪水、
敵を逃すことなく確実に呑み込むはずだった濁流。
その全てが突如として牙を向いたのだから。
十五メートル級の大波に姿を変えて。
---
何が起こったか、理解出来なかった。
クリモがゆっくりと前に歩み出して、
腕輪に相当量の『無』を込め始めて、
気付けば《照葉》を覆っていた大海は消えていた。
同時に俺の集中力が切れ、妖術が解けた。
正直に明かすと、精神的に限界が来ていたのだ。
あの強度を維持するのには想像以上の妖力を使う。
「クリモさん、一体何を、――!」
「――、―――、」
クリモに声を掛けようとした時、彼が突然膝をついて咳き込み始めた。
安否を確認しようと駆け寄るが、俺の体は思わず固まってしまう。
クリモの手、そして白基調の地面にはべっとりとどす黒い血が広がっていた。
「っ……!」
言葉が出ない。…いや違う、考えろ。
ショートしかけた思考を無理矢理繋ぎとめた。
今俺にできることは、考えて適切な処置を施すこと。
この吐血は確実に今の妖術が原因だろう。
強力な技には、強力な代償が付き物だ。
俺の超再生は反動として酷い眠気が襲ってくるし。
使い捨て型の妖具は役目を終えた時それ自身が壊れる。
クリモがなんの妖術を使ったのかは分からないが、体に相当大きな負荷がかかるデメリット付きの力だったということだろう。
『 VAAWOOO…,』
再び地上付近まで降りて来た天鯨が唸った。
大きく開かれた奴の口内に『風』の妖力が溜まっていく。
クリモのおかげで窮地は脱したが、ただの延命措置に終わってしまったのかもしれない。
「―――! ―――、」
「俺が止めます。…休んでてください。」
迫り来る危機を知らせるように俺を叩いたクリモ。
そんな彼に対し、次はこちらから微笑んで見せる。
……さぁ、二回目の正念場だ。護りきれ。
――その時、一枚の紙が大気を裂くように空へ飛んだ。
長い予備動作の途中だった天鯨に向かい、一直線に。
鯨を模した巨大な体の下部にペタリと貼りついた。
間髪入れずにその紙――小さな御札は大爆発。
天鯨がここにきて初めて苦しそうな呻き声をあげた。
…それを成し遂げた一人の男が、俺達に歩み寄ってくる。
「いやぁ、遅れてしまいましたねぇ。」
「ニュートさん! あの化物達は?」
「ふふっ、妖石大収穫祭りでした。」
心底嬉しそうに笑ったニュート。
全滅させたのか…、遅れるどころかあまりにも早い。
彼は苦しそうに蹲るクリモを視ながら、俺に問うてきた。
「それで、状況は?」
「クリモさんが妖術を使って戦闘継続困難。
……天鯨には、まだ傷をつけられていません。」
「! そうですかそうですか。」
「俺がクリモを連れて一度退きましょうか。」
俺は考え得る限りの最善策を提示した。
この場で最も幻妖と闘い慣れているのはニュートだろう。
ならば後はニュートに任せるのが安全で安牌な策のはず。
そもそも俺が戦闘中に余計なことを考えていたのが悪い。
クリモが妖術を使わざるを得ない状況を作った所為だ。
これ以上、クリモとニュートに負担を掛けたくなかった。
「いや、大丈夫です。クリモ君は一度私が引き受けます。」
「…! つまり俺は、」
「囮です、…ふふっ、二週間の成果が出ますねぇ。」
狡猾な笑みを顔に浮かべたニュート。
少し腹は立つが、その役目は喜んで引き受けよう。
「ただ問題が。俺の剣は天鯨に届きません。」
「ふむ、弓使いでも居れば楽でしたが…。
……生憎とこの場には居ないようですしねぇ。」
「―――――。」
クリモが恨めしそうな顔をしてニュートを見つめていた。
今の発言に何か思うところでもあったのだろうか。
ニュートは人差し指を上に向けて口を開いた。
「さてヒシ君。私が君に教えた『光』の壁ですが…
私の知る限り、それには幾つかの活用法があります。」
「活用法…。」
俺は聞いた言葉を復唱した。
そんな化物の足元を指差し、口角を上げたニュート。
「――君は、良い靴を履いてますねぇ。」
………考えろ。意図を汲み取れ。
このタイミング、この話題。何の意味も無いはずがない。
その時、重低音が鼓膜を刺激した。
『 …VWOO 』
「向こうも準備が出来たらしいですねぇ。
では、頼みましたよ。頑張ってきてください。」
「―――はい。」
深緑色の植物に覆われた奇妙な化物は、ゆっくりとこちらに体を向けた。
ニュートの爆破が与えたはずの傷は少しずつ再生していて、今やほとんど無傷の状態にまで復活していた。
「……靴か…、」
これは爺ちゃんからのプレゼントだったか。
貰った時はキラキラと輝いて見えたが、游蕩士としての活動の中で泥や血が至る所に染み付き、靴全体がもう元には戻らないほどの鈍色に変化してしまっている。
確かに、編み込まれた妖石は上等の物だろう。
半年使っても壊れない程、靴自体も相当頑丈だ。
それでも、"良い靴"と云うのにはあまりにもボロボロ。
「―――戦りながら考えよ。」
---
二匹の化物による戦闘が始まった。
ヒシは未だにピンときていないらしく、地上に足を着きながら駆け回り、ひたすら天鯨の妖術の回避に専念している。
その顔には彼が思案している時特有の陰りが見えた。
それで良い、いずれ答えに辿り着けるだろう。
クリモは咳こそ収まったものの、体調は優れないようだ。
そんな彼の背中を摩りながら、私はヒシの様子を眺めた。
「足手纏い、とか考えてますか?」
「――――!」
「図星ですねぇ。大方、ヒシ君に感化されて使用したか。」
「――――、―――。」
「責めてないですよ、むしろ褒めている。
君がそれを"使えた"、その事実が私は嬉しい。
少しずつ封印が解けているという証拠ですから。
負荷も微少だ、二週間鍛えた甲斐がありましたねぇ。」
ただ、と一言区切り。…クリモを見据え、先を続ける。
「君がその重たい一歩目を踏み出すとき。
彼は光のような速度で、もう少し先に進んでいる。」
視線を戦場へ戻すと、ヒシの表情が晴れていた。
---
「……わかった」
分かった。
簡単な話だ。
俺は『光』を物体として使えるようになった。
質量を持つ物体として、形を保てるようになった。
物体として存在させられるならば、だ。
壁として使うことも、床として使うことも出来る。
『光』の質量は限りなく零に近いから。
空中で維持するのにそれほど苦労はしなかった。
俺に無いのは対空手段。自分でも分かっていた。
だから、ニュートはその解決策を示唆してくれていた。
この靴は戦闘用の靴で、中に妖石が織り交ぜられている。
妖石と妖力さえあれば妖術が使える。
例えば、自分の足元に『光』を出現させることだって。
その『光』は踏める。そういう風に訓練してきたから。
床があれば、次の一歩が踏み出せる。地上でもそうだ。
使う筋肉は変わらない。床を蹴って、次の床に跳ぶだけ。
"『光』の床を創る"という、ひと手間が増えただけだ。
神経を研ぎ澄ませ、意識的に、繰り返せば……
『 !!!! 』
「出来た…。」
空をも駆けられる。
---
「満点。花丸回答ですね、ヒシ君。」
本当に末恐ろしい。
将来一体どんな化物が生み出されるのか。
「ここから先は君の自由です。
身の安全を考えるならば止めた方が良い。
私は課題を出しますが、義務は与えません。しかし、」
「―――、――――。」
言い切るよりも早く、急いで立ち上がるクリモ。
彼はそのままこちらを振り返ることも無く走り出した。
「――それで良い、食らいつけ。置いていかれるな。」
…私が出る幕は無いだろう。
---
ヒシが縦横無尽に空を走っている。
羨ましい、心の底からそう思った。
ぼくにはあれほどの『光』を使えないから。
でも、彼に出来ないことは出来る。
「――――。」
…どうしようかな。
さっきみたいな大量の水は無いし。
早くしなければ彼にあの幻妖を倒されてしまう。
ぼくの獲物を取られてしまう。そうなる前に追いつけ。
なんとか天鯨の気をこちらに引きたい。
また『力』で跳ぶか。…一度きりの跳躍は意味がないな。
確実に仕留めきれる状況――"勝ち筋"を作ってからだ。
「――、――――!!」
あ、思いついた。
こんなにいっぱいあるんじゃん。
ぼくは思いつきのままに『無』を短剣に込めて――、
---
あぁ、楽しい。
久しぶりに、化物との戦闘が楽しいと感じた。
勿論、この戦いが持つ重みは知っている。
相手は迷宮の親玉、負ければ人類が危険に晒される。
それでも、この高揚感は抑えられない。
今まで遠くにあったはずの空が、天鯨が、こんなに近くにある。
地上でしか動けなかった矮小な化物が、空の王者と対等に戦えている。
この事実が嬉しくて仕方がない。
化物という生物は、戦いを好む傾向にあるそうだ。
好戦的で血気盛ん。生まれつきの習性らしい。
であれば俺の遺伝子にもきっと刻まれていることだろう。
"闘争の欲求"が本能として、深くはっきりと。
正直天鯨にダメージが入っているとは言い難い状況だ。
表面の苔が想像以上に分厚く敷かれているようで。
俺では精々数センチの刃を通すのが精一杯だった。
誤算もあった。
二十メートルというのは、恐らく天鯨の最適距離。
奴が自身の妖術で相手を正確に射止められる範囲だ。
実際の射程距離で云うならばもっと長いだろう。
持久戦を視野に入れつつ、俺が攻撃を躱していた時。
突如として天鯨の巨躯が大きく揺らいだ。
まるで何か大きな物体が激突したかのような挙動と音。
しかし、見渡してもそんな物体は見つからない。
……いや、地上に居た。
決して、大きな物体ではない。
決して、単独で幻妖を倒せる人物ではない。
けれども、確実に今の事象を引き起こせるであろう人物。
「―――、――――!!」
直後、その人物――クリモが鼻から血を吹き出した。
タイミング的に、今の妖術の反動を受けたのだろう。
相当な無理をしているようだ。…止めた方が
「………!」
…多分、止めたらダメだ。彼の行先を妨げてはダメだ。
血をぼたぼたと垂らすクリモは、笑顔だったから。
俺と同じく、戦闘を心の底から楽しんでいる顔だった。
自身の止まらない成長を、存分に味わっている顔だった。
幸福感に満ち溢れた、血気盛んな生物の顔をしていた。
思い出す。ニュートが硬犀を仕留めた時のことを。
暴れ狂う化物が、一瞬にしてその鼓動を止めたことを。
察するに、クリモの使う妖術と同系統の技なのだろう。
俺には理論が分からないし、原理も全くの未知だ。
けれど、好奇を向けていた事象が一つだけ。
"クリモが同じ技を使ったとき、その威力は如何ほどか。"
ニュートはクリモの潜在能力を称賛していた。
クリモに比べれば、自身の技は粗末な物だと。
ニュートにそう言わせるほどの能力ならば。
幻妖すら一撃で滅ぼす、必殺の妖術になるのではないか。
実際に、クリモは短剣に『無』を込め始めている。
彼は間違いなくやる気だ。反動も省みず、全力で。
「…道を作れ。囮役を全うしろ。彼を護りきれ。」
幻妖との最終決戦。思わず体が震えるのを感じた。
---
流石にしんどいな…。
こんなに力を使うのは初めてだ。
空気を伝わせるのは成功だった。
あいつは見るからに傷ついているから。
――次で仕留められる。
ぼくは『力』を足に込めて走り出した。
天鯨の場所まで跳べるのは実証済みだ。
あとはタイミング。あいつが絶対に上昇出来ないときに。
「―――!」
危険を感じて立ち止まった。
数秒後、身を捩った天鯨…巨体に妖力が籠っていく。
更に数秒後――奴の周辺に数本、水の渦巻きが出現した。
改めて『やばい』と感じたときには、遅かった。
渦は既に回避不能な距離にまで迫って来ていて、
刹那、間に割り込んできた光壁がそれを防いでくれた。
頭の上から聞こえたのは、ぼくの大切な友達の声。
「俺が護ります。気にせず走ってください。」
「―――、―――。」
……ぼくは、恵まれているのだと感じた。
幻妖との戦いで、こんなに安心出来るなんて。
普通ならばありえない。本当に、恵まれている。
水飛沫が体に降りかかった。
ヒシが『光』で防いで飛び散った渦巻きの残骸だ。
威力を殺され、最早妖術とも言えぬ形になった水滴達。
今のぼくには、恵みの雨のようにすら感じられた。
びしょ濡れになりながら走り続けた。
眼前に迫る渦を気にも留めず、我武者羅に。
この小さな命を友人に任せ、ぼくは前進だけを考えた。
『 ……VVOWWOO………, 』
天鯨は意を決したように唸り、口に『水』の妖力を溜め始めた。恐らく勝負を決めに来たのだろう。
それを見て、ぼくも剣の柄を固く握り直した。
保有する妖力を、一滴も残すことなく刃へ注ぐ。
「――――、――。」
次の一手に賭けているのはお互い様だ。
相手を仕留めた方が勝ち、仕留められれば負け。
余計な足掻きはいらない、シンプルに行こう。
『 VOOWOOOOOO!!!!!! 』
――大きく吠えた天鯨。
直後、ぼくを囲むように大きな『水』の壁が形成された。
予め四方八方を塞ぎ、その水圧で圧し潰すつもりだろう。
壁が反りはじめ、徐々に天井が閉まっていく。
唯一の逃げ道が閉まるのは時間の問題、そうなる前に、
「――、―――!!!!!」
足に込めた『力』で大跳躍、ぼくは水の檻から脱した。
……天鯨まで残り十五メートル。
跳びあがったぼくを待っていたのは、天鯨の息吹。
息吹というにはあまりにも激しい、『風』の猛攻だ。
「――――!!! ――――?」
「大丈夫、まだ生きてます。」
吹き飛ばされかけたぼくは『光』の床に受け止められた。
ヒシが創ってくれたのだろう、普通なら死んでいた。
ぼくの横に降り立ったヒシが、…背中を押してくれた。
「…思う存分、跳んでください。」
「―――、――――!!!」
天鯨の猛攻は既に止んでいた。
自分にチャンスが在ること理解し、再び跳び上がる。
『 …VWOOO…, 』
天鯨は再び妖力を溜めようとして、…中断した。
それはきっと、これから起こる未来を奴が察知したから。
己の妖術は全て『光』に無力化されると悟ったから。
奴は、ぼくを仕留められないことを理解したのだろう。
……天鯨まで残り八メートル。
『 …………, 』
天鯨はゆっくりと上昇を始めた。
奴にとって最大の失敗は、初撃で仕留め損なったこと。
最初の大技を無駄撃ちしてしまったことだ。
仕切り直しを試みるのは、賢く冷静な判断だろう。
――空高くに形成された『光』の天井が、それを拒んだ。
『 ………!!!!!???? 』
頭頂部を激しくぶつけた天鯨は、理解した。
既に、己を仕留める為の仕掛けは整っていたのだと。
ずっと前に、己の敗北は決定していたのだと。
「―――、―――。」
…至れり尽くせりだな。
本当に最強のサポーターだ。
……天鯨まで残り二メートル。
「――、―――!!!」
ぼくは全力で、最後の床を蹴った。
パリンという軽い音とともに全ての『光』が解ける。
…ヒシによる保険はもう消えた。後ろ盾は無い。
これを外せば敗北、当たれば勝利。
分かりやすい話だ。ぼくもこの方がやりやすい。
……天鯨まで、残り零メートル。
苔に覆われて、口以外の器官が視認出来ない頭部。
人間でいうと額に当たるであろうその部分に、
ぼくは両手で支えた『無』の短剣を突き刺した。
これを発動すれば、ぼくも無事では済まない。
どんな反動が返ってくるか、自分でも分からない。
でも、やらないという選択肢は無かった。
ここでやらなければ、何も前に進まないのだから。
だから、今のぼくが出せる全てを。
今のぼくが伝えられる、最大限の波を…!
「――――ぅ、ぁ!!!!」
直後、天鯨の体中を巨大な波動が駆け巡った。
あらゆる骨を砕きながら、あらゆる組織を破壊しながら。
ぼくを震源として、幻妖を媒質として。波が伝わり……
『 ……Vwoo… 』
刹那のように短い時間を経て、全てを壊し廻った波は。
天鯨という巨大で強大な幻妖の絶命を以て消失した。
――同時にサミット迷宮へ鋭い亀裂が走る。
ミシミシと鈍い音を響かせながら、迷宮崩壊が始まった。
…攻略、したんだ。ぼく達が勝ったんだ。
「クリモ君、課題クリアおめでとうございます。
この二週間、そして今日。…よく頑張りましたねぇ。」
地上から声が聞こえた。大好きな、落ち着きある声。
「君を垂柳に勧誘して良かった。」
……うん、もう泣いても、いいよね。
本当に恵まれている。
小さい頃から蔑まれてきたこの力が、
封じられて良かったとすら感じていたこの力が、
ようやく望まれた。ようやく認められた。
ぼくは本当に、恵まれている。
――ぼくの体が、落ちていく。
涙を零しながら。
言葉で表現のしようがない
達成感と、幸福感に包まれながら。
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「お疲れさまでした。」
「――――。」
俺は落ちてきたクリモを両手でキャッチした。
彼の両腕は、見るも無惨な様子だった。
十枚の爪は剥がれ、肘から先は青黒く腫れ、あらゆる場所から血を垂れ流している。
今は満足気な笑顔をしているが、直に興奮が引けば想像を絶するほどの痛みに苦しむことになるだろう。
俺自身、何度もその痛みを経験している。
だからこそクリモが心配だ、その時に彼がまともな精神状態でいられるかが。
ニュートが俺達に近寄って来た。
丁度その時、迷宮からバキバキと激しい音が鳴る。
「崩れますねぇ、早く逃げましょう。」
「! はい、でも、どうやって。」
「こちらに。」
俺達は言われるがまま円形の床の端っこにまで移動した。
崖ギリギリに立ち、眼下に広がる雲海を眺めるニュート。
「…ふむ。」
「? 何を、」
地上まで続く梯子でも出現しているのだろうか、
そう思い、俺はクリモを抱えたまま少し身を乗り出した。
「――ふふっ、さよならです。」
――その時、ニュートに軽く背中を押された。
「っ!?!?」「―――!!!」
青年二人の体重が前にかかっている状態。
そんな崖の縁で背中を押されればどうなるか?
前に倒れるだろう。
前に地面はあるか?
無い。
じゃあどうなるか?
死ぬ。
そうして俺達は高度3500mの屋上から落ちた。
まぁ二度目だしね、そろそろ慣れっこよ。
「……マジで死ぬ…!!」
ふざけんな何が慣れっこじゃ。前とは状況が違い過ぎる。
前はクリモを背負わせることが出来たから良かった。
空いた両手を使って、何とか藻掻くことができたから。
…今、両手にはクリモを抱えている。
両腕がバキバキに折れた状態のクリモをだ。
『掴まれ』などという無茶な要求を出来るはずが無い。
俺が取れる選択肢は二つのみ。
クリモを投げ捨てて自分だけ生きるか。
仲良く大地に叩きつけられるかの二択だ。
「…あのくそ眼鏡ヤンキーめ!!!」
まさかあそこまで行って裏切るとは。
想像以上の極悪人だ、絶対に赦されてはならない。
…『光』で足場を作って着地するか?
既に500mは落下している。
この運動エネルギーに俺の足は耐えられるだろうか。
いや、それでもやるなら早めが良い。
時間が経てば経つほど不利になるのは俺だ。
よし、やるぞ。
「――――、」
そう思って靴に『光』を溜め始めた時…
突然、クリモが安堵したように息を吐いた。
その表情に疑問を感じ、どうしたのかと問いかけ――
「っわぷ、」
『 Pii!! 』
気付けば、視界は黄色で染まっていた。
肌に当たる柔らかな羽毛が抜群に心地よい。
「…ファイちゃん!」
『 Pi! 』
あぁ、可愛い。
この世界唯一の癒しだ。
あんなヤンキーの数十倍は信頼できる。
街に帰ったら即行であの狂人を訴えよう。
あの犯罪者が行ったこれまでの悪行も全て明るみに――
――ん? ファイは誰の眷属だった…?
「焦りました?」
数秒後着地したニュートはニヤニヤしながら聞いてきた。
どっきり大成功とでも言いたげな顔だ。
俺は一度咳払いをし、表情を取り繕って返事をした。
「いえ、ニュートさんを信頼してましたから。」
「おぉ、嬉しいことを言ってくれますねぇ。」
「……ファイちゃんは500mより上を飛べないのでは?」
「あれ嘘ですから。本当は3000mです。」
「………まぁいいですけど。」
この詐欺師の言葉を真面目に聞く方が馬鹿らしい。
こうなってくると3000mというのも怪しいだろう。
「それで、"くそ眼鏡ヤンキー"とは?」
「…………聞こえてました?」
死が確定した。
◇
「それなんですか?」
ニュートは鞄から二本の針を取り出した。
俺の暗器のようなサイズでは無く、ごく一般的な小さな針だ。
「ヒシ君は『封』をご存じで?」
「話だけは、使えないので意味無いですが。」
「なら説明は要りませんねぇ。」
ニュートはクリモの両手に一本ずつ針を刺した。
クリモは小さく呻くが我慢するように歯を食いしばった。
数秒後、針は灰色に輝き始める。
その状態が数分続いた後、針は塵になって消えていった。
妖石を針型に加工しただけの物かと思っていたが、どうやらあれも立派な妖具だったらしい。あの小さな針のどこに刻印を入れていたというのだろうか。とてつもなく高度な技術だということは確かだ。
「痛みは?」
「―――。」
クリモは首を横に振った。
「痛覚を封じたと?」
「そんなところです。
実現するまでにかなりの時間を要しました。
本当は『癒』も混ぜたかったのですが…。」
残念そうに苦笑いをするニュート。
「そもそも『癒』に関しては謎が多すぎますからねぇ。
単体ですら利用できていないというのに。」
「俺は『封』を使える人自体初めて見ました。」
「『闇』『封』『癒』はマイナー過ぎるのです。
あぁ、『光』もその仲間でしたねぇ。」
「皮肉が効いてますね。」
「いいえ? 私はどれも大好きですから。」
上記四つにはそれぞれマイナーたる所以がある。
左から順に、
使い勝手が悪い。
扱いにくい。
よく分からん。
そして、地味。
結局『火』とか『水』とかが派手で楽しいのだ。
…クリモの腕の腫れが徐々に退いていく。
「今は痛みを感じないようにしているだけです。
見たところ骨もぼろぼろですし…、
帰ったらきちんとした医療を受けましょう。」
「――――。」
頷いたクリモ、それを見たニュートが微笑む。
「では、本題です。」
そう言ってニュートは鞄から一つの妖石を取り出した。
緑と青の中間くらいの色だろうか。
手の平に乗るくらいの円柱の妖石で、未だ輝きを失うことなく発光していた。
一言でいえば、美しい。
今まで見たどの妖石よりも、神秘的で魅惑的な風貌をしていた。
「――――!」
「それってもしかして、」
「えぇ、天鯨の妖石です。」
完全に回収を忘れていた。
ニュートが安全に確保していてくれて助かった。
「幻妖の妖石は、恐ろしく高い価値を持ちます。
売れば数年は遊んで暮らせますねぇ、…ヒシ君?」
「……ぃ、いえ、なんでもないです…。」
…爬竜の妖石、回収忘れてた…。
なんならあの巨大な死骸を丸々放置してある。
まだ残ってるかな…。もう誰かに盗られてるかも…。
「クリモ君。これは君が受け取るべき物です。」
「――!」
「異論無しです。」
妖石は元の化物にトドメを差した人が受け取る。
游蕩士間の、暗黙のルールともいえる共通認識だ。
「それで、使い道なのですが…、」
「――――。」
「私は"契約"をオススメします。」
「――――!」
「…本気ですか?」
「えぇ、嘘はつかない主義なんです。」
はい、嘘。
「…契約は絶対服従を誓わせるものではない。
当然、契約後に復讐――殺害される事例も存在する。」
「幻妖クラスとなると、流石にリスクが…、」
「はい、暴走されたときの収拾はつきません。
それでもその幻妖にはリスクを冒すだけの価値がある。」
「――――。」
それはそうだろうが…。最悪自滅にもなりえる。
「決めるのは、君です。選びなさい。」
「―――――。」
クリモに決断を委ねたニュート。
長い、途轍もなく長い、静寂が訪れる。
その末、クリモは――軽く微笑んだ。
彼は包帯に覆われた両手で妖石を掴み、抱きしめる。
まるで我が子を愛でるような柔らかい抱擁。
…クリモ自身がそれを選ぶなら、俺に文句はない。
――妖石にクリモの妖力が流されていく。
白い輝きは、徐々に青緑色へと変化し。
やがて、視界を埋め尽くすほどの眩い光へ変貌を遂げた。
…光の消失。既に妖石は無く、小さな鯨のみが在った。
人間の腕にすっぽり収まるほどの、未成熟な化物
ターコイズブルーの綺麗な模様が体の節々に見られた。
『 …Vooo, 』
全身を覆うような苔は消えているが。
重たい威圧感を放つ巨体では無くなっているが。
この綺麗で小柄な鯨は間違いなく天鯨だ。
『 Voooo…. 』
「―――、―――!!」
小鯨はクリモの手を離れて揺れるように空を飛び、
クリモのふさふさとした緑髪の上に優しく着地した。
その様子を見て、俺からようやく肩の力が抜けた。
俺は構えていた片手剣から『光』の妖力を消失させた。
厳かに、言葉を紡ぎ出すニュート。
「討伐は妖力の強奪。契約は妖力の遣取。」
クリモは震える手で紙に何かを書き始めた。
それを視たニュートは目を細めて話を続ける。
「――名付けは、存在の承認。」
クリモはペンを離し、その小さな紙をこちらに示した。
…実にクリモらしい、丸っぽい字で書かれた四文字。
それを見て、ニュートは柔らかく笑む。
「『 サーミン 』ですか。良い名前ですね。」
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