18.頭を使えば甘いものが食べたくなるものです
「暗い話はここまでにしましょう。おかわりはいかがですか?」
ふんわりと微笑むユリアヌスに手招かれるまま、ふらふらと机に近づく。気づいたときには皿に盛られた焼き菓子をつまんで口に放り込んでいた。
ハッ……抗えない。これが魔性か。
食欲の前で人は無力だ。ユリアヌスの用意するお菓子は美味しい。購買で安売りされている袋詰めの菓子とはモノが違う。やっぱ手作りなのかなこれ。
二つ目に手を伸ばそうとして、近づきすぎていることに気づき、いそいそと距離を取りなおす。戻ってこい警戒心。でもやっぱり飲み物もほしい。思いっきり腕を伸ばしながらカップを持ち上げた拍子に、注ぎたてのハーブティーを派手にこぼした。
「あっつぅ!」
「大丈夫ですか!? すみません、もうすこし冷ましてから出していれば」
とっさに心配の声をかけ、相手の不注意を責めずに自分の落ち度を悔いる。さすがの聖人っぷりにぐうの音も出ない。疑うのが申し訳なくなってくるんだよなあ、悪いのはユラなんだけど。
これがアルさんなら呆れてため息をつくか鼻で笑うか冷ややかに一瞥するかその全部かだ。反応してくれるかどうかすら怪しい。
手の甲がヒリヒリと熱を持つ。火傷したかも。まあ、このくらいなら私のしょぼい治癒術でもどうにかなるし問題ない。
「『我に、』……おっと」
祝詞を唱えかけてやめた。人は学ぶ生き物なのだ。さっきの話を受けて、さすがに目の前で女神――『月の民』の女神ではなく唯一神デアモルス――の祝福を願うのはどうだろう。
ユリアヌスは手当に使えるものを探していて、私の失言には気づいていないようだった。セーフ。
「ああ、よかった。ちょうどいいものが」
ユリアヌスが懐から取り出した小瓶には、綺麗な天色の液体が入っていた。そう、まるで、アルトゥールの瞳の色のような――。
あれ、これ、見覚えあるな。
「『星泉水』……?」
「随分と古い呼び名を知ってますね。回復薬に加工する前の精製水ですが、このままでも熱傷にはよく効くんですよ」
ひんやりとした感覚と同時に、『星泉水』をふりかけられた肌から綺麗さっぱり赤みが引いていく。
うわまじか。『聖樹の宿し子』には『星泉水』を振りかけろとしか書いてなかった。調べても情報出てこなくて手に入れるのめちゃくちゃ大変だったのに。
知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの店に出入りする商人がようやく見つけて、十年分のお小遣いが飛ぶ金額で譲ってもら……ぼったくりやがったなあのおっちゃん!?
「さすが学園の学生はよく勉強していますね」
感心するユリアヌスの前で、私はがっくりと項垂れた。勉強したというか。勉強させられたことに気づいたというか。道理で満足げな顔して帰っていったわけだ。
「ちがう……聖狼を喚ぼうとしたときに、ちょっと……」
「聖狼ですか?」
手際よく机の上を片付け、新しいカップに私と自分のハーブティーを注ぎなおしながら、ユリアヌスは尋ねた。
「契約者のいない聖獣は聖狼だけだったからさぁ」
もういいや、普通に座ろう。そしてティータイムを満喫しよう。そうでもしなければやってられない。テーブルを挟んでユリアヌスと向かい合い、今度こそ二つ目のお菓子を手に取って、ありがたくハーブティーを頂戴する。
「しかし聖狼は……あれはなかなか面倒な獣ですよ。ああ、いえ、聖獣に憧れる子供は多いですが、聖狼は、その」
お優しいユーリ兄さまは言い淀んだ。いいんだよハッキリ言って。
「ロリコン処女厨だろ」
知ってるから。
「げほっげほっ……」
ユリアヌスはハーブティーをすすりそこねて派手にむせた。
いやごめん。アストレアさまみたいな上品な女の子と育った人だもんな。
「一か八か選ばれる望みがあるうちに召喚しようとしたら、アルさんが出てきたってわけ」
「……聖狼の召喚に、彼が応じたと」
召喚というか召門というか。繋がった空間の向こう側から、狂獣化した雪豹までついてきた。めちゃくちゃだったなぁ、あの時は。なんだか随分と昔のことのように思える。
アルさん曰く、聖域まで繋がってはいたらしいけど、それもきっと『クラヴィス』の特性のせいなんだろう。
「なるほど」
「だよね、意味わかんな――なるほど?」
予想と違う反応に、首を傾げる。
「最初に人と絆を結んだとされる聖獣の中でも、聖狼の契約者は女神の側仕え――わかりやすく言うと彼のご先祖ですよ」
「げほっ!」
今度は私がむせる番だった。
「……なんて?」
「アルトゥール=ゼノアは、聖狼と最初に絆を結んだ契約者の子孫です」
アルさん?
隠し事多いのは知ってたけど、……アルさん?
ちょっとまって理解が追いつかない。それはつまり、ええと、どういうことだ?
「女神に最も愛された少女が、聖狼が最も愛した巫女。聖狼の巫女が授かった子供が、『月の愛し子』あるいは『異端の民』と呼ばれる一族の祖先です」
ユリアヌスは穏やかな口調でくり返した。
「聖狼って……私の知ってる聖狼……? ふわふわもふもふの……黄金の毛並みの……?」
「ですから、あまり気に入られすぎるのも問題というか、……契約しなくてよかったかもしれませんね」
絶句。
いやまあたしかに? もしかしたら人型の聖狼かもしれないとか思ったよ。初めて会ったとき。一瞬。ほんと一瞬だけ。速攻で否定されてハートブレイクしたけど。
呆れながら解説された知識は忘れても、憧れを全否定された悲しみは忘れられない。
「冗談はさておき」
「冗談? 本当に冗談? どこまで冗談!?」
鬼気迫る形相の私に迫られた正直者の聖人君子は、困ったような顔で微笑した。
「巫女が産んだ子の父親が誰かは伝わっていません。巫女は生涯未婚でしたので……聖狼は独占欲が強いですから」
「アルさんの嘘つきィィ! 心当たりないって言ったじゃん!」
私は裏切られた気持ちで机に突っ伏した。
フォノンさまの英才教育ってことで納得してたけど、剣士のくせにやたら召喚術に詳しくて、学園で教わった覚えのないようなことまで知っていて、なんだか召喚獣――狂獣に特別な思いがありそうな感じもしていたなあ、そういえば。
その辺の事情まだ聞いてないけど下手につつくの怖い。
ていうか、あの人まじで隠し事しかしてねぇな!?
人の話聞かないし自分の話しないしどうかと思うよそういうところ。
本人には言えないけどな!
「それにしても。どうしてまたメルフィはそんな無茶をしてまで聖獣の契約者になりたかったんです?」
「ッ……ユーリ兄さまぁああ……!」
優しい声で尋ねられて、私の涙腺は決壊した。
やっと聞いてくれる人がいた。誰も耳を貸してくれず、もう一人の当事者にはなんの関係もないと吐き捨てられ、そっちのけにされてきた私の事情を聞いてくれる人が。
ああ、味方だ。味方がいる――。
*****
ユリアヌスは、私がとっ散らかった説明をする間、何度もうなずき、相槌を打ちながら微笑みつづけていた。
「婚約とは、貴族も大変ですね」
「うちみたいな弱小国家の弱小貴族なんて大したことないよ……」
ただちょっと歴史だけが長くて伝統にうるさい。屋敷もボロいし暮らしぶりは領民と変わらない。
「相手方は知っているんですか?」
「相手?」
「婚約というからには相手がいるのでしょう?」
ぱちぱち、と目を瞬く。
そっか、そりゃそうだ。
なんで今まで思いつかなかったんだろう。
「知らない……ていうか全部読む前に手紙破り捨てたし……」
いい歳をした親から弟できちゃった報告をされること自体まずきつかった。ましてや結婚しろっていう内容が衝撃的過ぎて、それ以外の記憶がぜんぜん残ってない。
うちの親父が引っ張ってこれる相手なんて高が知れてるとは思うけど、一体どうやって説明したんだろうか。私の生名は隠されていた。『クラヴィス』という名前の令嬢はどこにも存在しないはずなのに。
ルシオラ貴族の生名は洗礼名で、親が自由に名付けたものではない。
気に入らない場合、別の通り名を使うこと自体はそんなにめずらしくない。
でも、ルシオラには古臭くてカビが生えたような淑女教育の文化がある。
メルフェザード家の嫡子は一人。十一年前、私が七歳になった日からずっと、学園に入寮したきり戻ってこないドラ息子ということになっていた。じつは息子ではなく娘でしたと明かして縁談がまとまるはずがないのだ。
フォノンさまに言われるがまま預けっぱなしにしてたけど、もうすこし真剣に気にするべきだろうか。
「ところでメルフィ。あなたは結婚したくないのであって、家を継ぎたいわけではないのですよね」
「うぇ? んーまあ、そう、かも。っていうより、継ぐ継がないとか考えたことないんだよな……」
だって『俺』はそのために生きてきた。
家族以外には呼ばれない洗礼名でも、それが『私』であるとわかっていた。
女神に証を立てられない通り名でも、それが『俺』であるとわかっていた。
ずっとそういうものだったのに。
『俺』と『私』は同じものだったのに。
手紙を読んだ瞬間、同じじゃいられないんだって突きつけられた気がした。
「嫌ではなかったんですか? 性別を偽るとなれば不自由なこともあったでしょうに」
「私に演技ができると思う?」
「それは……」
いいんだよハッキリ言って。それで傷つくようなメンタルはしていない。
「できないよ。してないよ。私はずっと私だよ」
二つの名前があること。他の女の子たちと同じ生活をしないこと。なんでも打ち明けられる友人が存在しないこと。それがずっと当たり前で、不満だなんて思ったことなかったのに。
もういいって言われたのがショックで、なにもかもを取り上げられるような気がした。
『俺』が『私』ではなかったのなら、『私』には何が残るのだろう。今までの人生なんだったのかとか真面目なこと考えちゃったりもして。
「あなたのご両親は、男性として生きさせるつもりはなかったのでは」
「なんでそう思うの?」
そういえば、ユーリもユラも私を初見から女扱いしていたな。制服の男女差やルシオラの風習を知らなければめずらしくないとはいえ。
「気を悪くしないでくださいね。ご令嬢らしくなくとも、一般庶民の感覚では、あなたの言動は十分に女性的なので……そのように身内も接してきたのだろうなと」
思えば、洗礼名と性別を隠すこと以外、なにかを強制された記憶はほとんどない。
貴族令嬢らしく良家に嫁入りなんて死んでも嫌だ、なにがなんでも拒否してやるって、それだけしか考えていなかった。アルトゥールに指摘されたとおり、聖狼の召喚に成功して巫女に選ばれたとして、その先にあったのは私が思い描く薔薇色の人生ではなかったんだと思う。
『俺』を取り上げられたくなかった。
『私』に戻りたくなかった。
『私』に用意された人生が嫌いだった。
ただ、それだけで。
「そうだね。男らしく生きたかったわけでも、当主になりたかったわけでもない」
むしろ難しいこと考えるのに向いてない自覚しかない。
成績表は毎年実家にも送られていたはずだから、他の候補ができたからって後継者から外されても文句は言えない。
なにしろ私の成績を下回るのは、トムぐらいの猛者でなければ難しいのである。
だからといっていきなり結婚しろはないと思うけど! こっちはこっちでいきなり『融光のジェラール』なんて大物がでてきて、親父も驚いただろうなあ。仮契約問題が片付いたら一回ちゃんと話に帰らないと……。
「それを聞いて少し安心しました」
「へ?」
「彼の方が望むなら、僕は貴女をさらう心づもりなので」
あれ、なんだろう。
ユリアヌスの顔が二つにブレて見える。
地面が、傾いて……?
「すみませんメルフィ。どうしたって僕たちは『月の民』――旧き神々に仕える狂信者なんです」
話しかけられている言葉が聞き取りづらい。
身体が重い。目を開けていられない。
瞼が閉じる間際、力が抜けた指先からお菓子が地面に転がっていった。
ああ、もったいない、な……。




