マリという女
真っ暗闇の中、暑くも寒くも無い。
『おーい!』と、叫んで見るが、ただ単に暗闇の中に音が吸い込まれて行くだけだ。
『ちっ、これが死後の世界なのか?』
あまりの暗さで自分がどんな姿でいるのかも分からない。
『まったく、味気ない世界だぜ』
何をするでもなく、呆然と、暗闇を見つめている。
どれだけの時間が経っただろうか、遠くの方に何やら薄明かりが見えて来た。
少しずつ、その明かりが大きくなって行く。
『誰かいるのか』と、大声で呼ばわった。
暫く返事を待つが、何も反応が無い。
いらいらしながら、もう一度叫ぼうとすると、何かが聞こえたような気がした。
耳を澄まして見る。
微かに聞こえる。
『おーい----』
『おう、やはり人の声だ』
更に耳を澄ます。
『おーい、菊王丸!』
『なんだ、俺を呼んでいるのか?』
その声は、次第に大きくなる。
『うん、なんだ、この声は、龍慶じゃあないか!』
そう思った途端目が覚めた。
背中がジリジリと暑い。
何処かの砂浜に、うつ伏せになっているようだ。
体を動かそうとするが、力が入らない。
体が誰かに押さえ込まれているように重い。
じれったいが、どうしようもない。
『背中が暑いし、体の重たさを感じるってことは、俺は生きてるって事か?』
そう思いながら、龍慶の最後の言葉を思い起こしていた。
『爺さんよう、本当に俺を助けてくれたのか?』
その時、何者かの気配を感じた。
“ザクザク”と言う、砂浜を歩く音だ。それも一人ではない。
足音が近付いて来る。
菊王丸からは、足だけしか見えない。
『なんだこの足は。何を履いてやがるんだ』
所謂、皮靴である。当然、菊王丸は、初めて見る。
一人が、菊王丸の側にしゃがみ、額に手を当てたり、腕の脈拍を見ている。
その時、初めて男の顔が見えた。
『なんだ、こいつら。髪の毛が金色だし、目が青いぞ』
菊王丸が、西洋人を見たのは、これが初めてである。
彼らは、何かしゃべっているようだが、さっぱり分からない。
暫くすると、彼等は布制のタンカに菊王丸を乗せて何処かへ運びだした。
ユラユラ揺れる中で、不覚にも、気を失ってしまった。
数日後。
「あーら、気が付いたわ!」
菊王丸が、ゆっくりと目を開ける。
目の前に女の顔がある。
笑顔で、菊王丸の顔を覗きこんでいるようだ。
「あなた、日本人なんでしょ」
菊王丸は、頭が混乱してきた。
『俺は船で遭難したはずだ。ここが日本であるはずがないんだが。しかしこの女は、どこから見ても日本人のようなんだが?』
「ふふふ、日本語が分かるんでしょ」
「ああ分かる」
「良かった、もう大丈夫よ。あんた三日間も寝ていたのよ」
「なんだと、三日間だって」
菊王丸は、起き上がろうとしたが、体が鉛のように重い。
「動くのは無理よ。だってあなたは、脱水症状を起こしてたし、全身擦り傷だらけだったのよ。しっかり体を休めて、御飯も食べれるようにならなければね。。本当に良く助かったと思うわ」
「そうなのか。お前が面倒見てくれたんだな」
「そうよ。でもここまで運んで来てくれたのはポルトガルの兵隊さんよ」
「なに、ポルトガルだって。そいつは金髪の奴らか?」
「そうよ。西の西の天竺よりも、もっと遠くから海を渡って来てるのよ」
「そ、そんな遠くから来てるのか」
「ええ、確か、ヨーロッパって言ってたわ」
「ヨーロッパだと、聞いた事もねえな」
「でも、良い人達だから安心して」
「そうなのか、それはそうとここは何処なんだ。まさか日本じゃあねえだろう」
「そうよ、日本じゃあないわ」
「じゃあ何処なんだ?」
「ここは、バラワン島の日本人街よ」
「なに、ここがバラワン島なのか、しかも日本人街とはな」
「まあ、そんなに嬉しそうな顔をして。あなた、日本からはるばるここへ来たかったのね」
「ああそうさ、ここが俺達の目的地だよ。だが、ー番ここへ来たかった龍慶の爺さんは、死んじまったがな」
「龍慶さんですって、知ってるわよ。だって私のお爺さんのかけがえのない親友よ。いろんな所で、暴れまわったって言ってたわ」
「なんでー、なんでー、お前、知ってんのか。こりゃあいいや」
「でも、死んでしまったんでしょ。本当に残念だわ。お爺さん、会えれば、喜んだんでしょうに!」
「死んでしまったもなあ、しょうがねえ。生き返るこたあねえからな」
そう言いながらも菊王丸は、龍慶の最期の事を思い出していた。
「ねえあんた、名前なんて言うの?」
「そう言うお前は、何なんだ?」
「あら、やだあ。私も言ってなかったわね。私の名は、マリよ」
「マリか、言い名だ」
「まあ、偉そうに! ところであなたの名は?」
「俺の名は、菊王丸だ」
「へえ、立派な名前だこと」
「ところでマリ、平蔵っていう男は知ってるか?」
「知ってるも何も、今の王様のお父様ですよ。偉いのよ!」
「はっはっは、そりゃあいいや。それで元気なのか?」
「あらまあ、良く知っているようね」
「ああ、龍慶の爺さんが、色々と話してくれたからな。会ってみてーもんだ」
「そうね、会ってくれるかもしれないわよ。菊太郎さん!」
「な、なんだと。菊太郎じゃねえ、菊王丸だ。しっかり覚えておけ!」
「あーら、ごめんなさい。でも、そんなに怒らなくてもいいでしょう。体は動かないのに、ロだけは達者なのね」
「うるせえ!」
「ところでねえ、菊太……、あっいや菊王丸さん」
「おいおい、間違えんなよ!」
「えへへ」
「笑ってごまかすな!」
「話が進まないわね」
「おめえが悪いんだ!」
「そうね、うっうん、じやあ話すわよ」
「言ってみな!」
「実はね、菊王丸さんを助けてくれたポルトガルの人が、あなたに会いたがっているのよ。どう、会ってやってくれないかしら」
「へえ、そうかい。そりゃあ礼も言わなきゃならんしな。俺の方から行かなきゃならんだろう」
「ああ良かった。私も通訳として付いて行くわ」
「へえ、お前、ポルトガルの言葉が分かるのか。たいしたもんだ」
「こう見えても、結構役に立つのよ。じゃあ、あなたの体力が回復したら行く事にしましょうね、菊太郎さん」
「バカやろう! 菊王丸だあ。いい加減にしろ!」
「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。今日はこれでおしまいにして、また来るわよー」
マリは困ったように、慌てて部屋を出て行った。




