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朝五時。


 まだ空が白み始める前の時間に、ユート・アルヴェインは一人で木剣を握っていた。


 一振り、また一振りと狭い部屋の中で同じ動作を繰り返していく。木剣が空気を切る音だけが静かな部屋に響き、額から流れ落ちた汗が床に小さな跡を作っていった。


「……九百九十八、九百九十九……千」


 最後の一振りを終えると、ユートはゆっくりと木剣を下ろした。息は上がっているものの倒れ込むほどではない。木剣を壁に立てかけると部屋の隅に置いてあった椅子へ腰を下ろし、目を閉じた。


 頭の中でいつもの言葉を思い浮かべる。


 ――ステータス。


 すると視界の端に半透明の文字が浮かび上がった。


【名前】ユート・アルヴェイン

【年齢】15

【職業】なし

【レベル】1

【経験値】0/100


【HP】11.2

【MP】6.1


【筋力】4.70

【体力】5.00

【敏捷】5.40

【知力】6.80

【精神】6.30


【剣術】Lv.1

【走術】Lv.1

【魔力操作】Lv.0

【気配察知】Lv.0


【称号】なし


 ユートはしばらくその数字を眺めていた。


 昨日とほとんど変わっていない。それでもユートにとってはこの数字を見ることが一日の始まりだった。


 この世界にはステータスを確認できる人間がいる。十歳を過ぎた頃から誰でも一度は自分のステータスを確認できるようになるが見えるのは自分自身のものだけで他人の能力を覗くことはできない。


 そしてユートには周囲の人間とは少し違うところがあった。


 努力を続けていると能力値がほんの少しずつ変化するのだ。


 剣を振れば筋力が上がる。走れば体力が上がる。魔力を操れば魔力操作の経験が蓄積される。


 ただしその成長は遅い。


 昨日まで筋力が4.69だったものが今日になって4.70になったとしてもそれだけだ。努力したからといって突然レベルが十も上がるわけではないし、一日鍛えただけで誰にも負けない強さを手に入れられるわけでもない。


 それでもユートはこの数字が好きだった。


 曖昧ではないからだ。


 昨日の自分と今日の自分。どちらが強いのかを数字が教えてくれる。


 ユートは立ち上がると部屋の外へ出た。次は走る時間だ。


 家の周囲を何度も走り合計で五キロを走り終える頃には空はすっかり明るくなっていた。息を切らしながら家へ戻り汗を拭ってからもう一度ステータスを開く。


【体力】5.01


「……0.01」


 ユートはその数字を見てほんの少しだけ笑った。


「昨日より一歩だけ前に進んだ」


 それで十分だった。


 汗を拭いて朝食を取る。食事を終えたところで部屋の棚に置かれた一冊の本が目に入った。


 古びた革表紙で何度も読み返したせいか角は擦り切れている。表紙にはこう書かれていた。


『大陸東方探訪記』


 著者――アルベルト・アルヴェイン。


 ユートの父親が残した本だった。


 ユートの父アルベルトは冒険者だった。


 特別に強かったわけではない。魔法の才能に恵まれていたわけでもない。それでも未知の場所へ行くことが好きな男だった。


 誰も知らない道を歩き誰も見たことのない景色を見る。


 それがアルベルトにとっての冒険だったらしい。


 ユートが七歳のとき父は最後の冒険へ出た。


「東の果てまで行ってみる」


 それが家を出る前に父が残した言葉だった。


 しかし父は帰ってこなかった。


 遺体は見つかっていない。見つかったのは破れた鞄と何冊かの本だけだった。


 その中にこの『大陸東方探訪記』があった。


 ユートは本を手に取る。


 何度も読んだ本だ。それでも最後のページだけは今でも開くたびに胸がざわつく。


 そこには父の筆跡で短い言葉が残されていた。


『もし、この先を読む者がいるなら――東の果てへ行け』


 その下には見たことのない紋章が描かれている。


 円の中に三本の線。


 意味は分からない。


 父が何を見つけたのかも分からない。


 なぜ帰ってこなかったのかも分からない。


 だからこそユートは決めていた。


 いつか自分の足で東へ行く。


 父が見た景色を見る。


 父が何を探していたのかを知る。


 そして父が途中で終わらせた旅の続きを自分が歩く。


 そのためには強くならなければならない。


 冒険者になる必要がある。


 ユートは本を閉じた。


「……行ってくる」


 誰もいない部屋にそう告げて家を出た。


 向かった先は町の中央にある冒険者ギルドだった。


 木造の大きな建物には朝だというのにすでに何人もの冒険者が出入りしている。剣を腰に下げた者や杖を持った者そして大きな荷物を背負った者が行き交う中をユートは一人で歩いていく。


「冒険者登録をしたいんです」


 受付に立っていた女性が顔を上げた。


「新規登録ですか?」


「はい」


「年齢は?」


「十五です」


「戦闘経験はありますか?」


「ありません」


 女性は少し驚いた顔をした。


「……剣は?」


「練習しています」


「実戦は?」


「ありません」


「魔物を倒したことは?」


「ありません」


 女性はしばらくユートを見たあと依頼掲示板を指差した。


「でしたら最初は採取依頼から始めるのがおすすめです。薬草なら戦闘を避けられますから」


「分かりました」


 ユートは掲示板を見る。


 いくつか依頼が並んでいる。


 その中から一番簡単そうなものを選んだ。


「これにします」


「東の草原で薬草を十本ですね。危険を感じたら必ず戻ってきてください」


「はい」


「……本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


 ユートは頷いた。


 強くなりたい。


 だからといって死ぬつもりはない。


 無理をすることと努力することは違う。


 ユートはそう考えていた。


 東の草原までは歩いて三十分ほどだった。


 依頼された薬草を探しながら周囲を確認していく。薬草を一本、また一本と集めて十本目を袋へ入れたところで草むらから物音がした。


 ガサッ。


 ユートは立ち止まった。


 草むらから一匹の魔物が姿を現す。


 緑色の肌。小柄な身体。そして手には錆びた短剣。


「……ゴブリン」


 初めて見る。


 心臓が大きく鳴った。


 逃げたほうがいい。


 頭ではそう思った。


 だが足は動かなかった。


 ユートは腰の剣を抜く。


 父の本を思い出した。


 東へ行く。


 そのためにはまず今日を生き残らなければならない。


「……来い」


 ゴブリンが飛び込んできた。


 ユートは剣を振る。


 外した。


 二撃目も外した。


 三撃目を振ったところでゴブリンの短剣が腕をかすめた。


「っ……!」


 痛い。


 怖い。


 それでも剣を握る。


 四度、五度、十度。


 何度振っても思うように当たらない。


 ゴブリンの動きは速かった。


 ユートは何度も攻撃を避け何度も剣を振った。


 そして――四十七回目。


「……っ!」


 剣がゴブリンの肩へ食い込んだ。


 ゴブリンが倒れる。


 しばらく動かない。


 ユートは剣を下ろせなかった。


 息が荒い。


 手が震えている。


 やがてゴブリンの身体が光の粒になって消えていった。


 その瞬間、視界に文字が浮かぶ。


【経験値を獲得しました】


【経験値】17/100


【剣術】経験値が一定量蓄積しました


 レベルは上がらなかった。


 剣術もLv.1のままだ。


 ユートは少しだけ笑った。


「……まだ、これだけか」


 けれど不満はなかった。


 今日初めて魔物を倒した。


 昨日の自分にはできなかったことだ。


 それだけで十分だった。


 ギルドへ戻り依頼達成の報告をすると受付の女性――ミレイが驚いた顔をした。


「ゴブリンに遭遇したんですか?」


「はい」


「逃げなかったんですか?」


「……逃げることも考えました」


「それでも?」


 ユートは少し考えた。


 そして答える。


「昨日までできなかったことがありました」


「?」


「でも今日はできました」


 ミレイは黙ってユートを見る。


「だから次は今日できなかったことを明日できるようになりたいです」


 ミレイは少しだけ笑った。


「……変わった子ですね」


「よく言われます」


 ユートも笑った。


 その日の夜。


 家に戻ったユートは今日の記録をノートに書いた。


『木剣一〇〇〇回』


『五キロ走』


『薬草十本』


『ゴブリン一体』


 そしてステータスを確認する。


【レベル】1

【経験値】17/100


【HP】11.2

【MP】6.1


【筋力】4.70

【体力】5.01

【敏捷】5.40

【知力】6.80

【精神】6.30


【剣術】Lv.1

【走術】Lv.1

【魔力操作】Lv.0

【気配察知】Lv.0


【称号】なし


 今日も大きな変化はない。


 けれど体力は0.01上がった。


 経験値も17増えた。


 剣術にもほんの少しだけ経験が蓄積された。


 ユートはノートに最後の一行を書く。


『今日より少しだけ強くなった』


 ペンを置いた。


 その瞬間だった。


 ステータスの一番下、称号のさらに下に一瞬だけ見慣れない文字が浮かんだ。


【――――】


「……?」


 ユートが目を凝らす。


 しかし次の瞬間には消えていた。


「何だったんだ……?」


 もう一度ステータスを開く。


 何もない。


 ユートは首を傾げた。


 そして気にしないことにした。


 今はまだ分からない。


 分からないなら明日考えればいい。


 今日できなかったことを明日できるようにする。


 それだけでいい。


 ユートは灯りを消した。


 十五歳。


 レベル一。


 まだ何者でもない。


 剣も弱い。


 魔法も使えない。


 冒険者としても今日始めたばかりだ。


 それでも――。


 明日の自分は今日の自分より少しだけ強くなっている。


 ユートはそう信じて眠りについた。


 まだこの小さな努力が、やがて世界の運命を変えることになるとは知らずに。

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