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修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第3章

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9/10

4.


 食事は、配られる前からもう価値がついていた。


 スクリーンの白い光が食堂の壁へ落ち、その中央へ、あまりにも簡潔な文字が浮かぶ。


 本日の昼食ランク

 13ポイント以上:定食+デザート

 12ポイント:パン・サラダ・おにぎり・スープ

 11ポイント以下:コンビニパン

 失格班:水のみ


 ざわめきは、最初は小さかった。

 意味が飲み込めた者から順に、声の色が変わっていく。


「ビュッフェじゃないの?」

 誰かが言った。

「昼はなしかよ」

「じゃあ、パンフレットのあれは夜だけ?」

「十三以上って……」


 初日午前で取れる個人ポイントは、最大でも八。

 そこへ班の特別問題を()()した者だけが十を足される。

 だから定食へ届くかどうかは、ほとんど班次第だった。


 午前中ずっと机に向かっていても、最後の問いで止まれば、一気に食事が粗末になる。

 それが嫌になるほど分かる文字が見下ろしている。


 純美子は食堂を見渡した。

 淡々としているようでいて、その淡々とした表情の奥で、今この数字を生徒達がどう受け止めているのかを確かめているようにも見える。


「本日の昼食は、各自の個人ポイントと所属班の班ポイントを合算して判定します」


 班ポイント。

 その一語だけで、机ごとの空気がまた少し軋んだ。

 自分一人が点を取っても足りない。

 誰か一人が答えられれば、十点が班全員へ乗る。

 つまり、特別問題は最初から“誰かの告白”ではなく“全員の昼食”に変えられていたのだ。


 勝ち組・甲班の机で、由良がメモ帳の上へ指を置いたまま動かなくなる。

 堂島は頬杖もつかず、浅く座ってスクリーンを見ていた。

 白峰は口元を少しだけ引き締める。興味を失ってはいないが、もうただのイベントとは思っていない顔だ。

 悠人は、自分がさっき答えた言葉の重さを、遅れて食堂の数字で思い知っていた。


 あれが自分だけの問いではなかったのだと、いまさら分かる。


 配膳台の向こうで、銀の蓋が持ち上がる。

 湯気が立つ。

 それが合図だった。


 同時に、食堂の匂いが鼻の奥に染み込んでくる。


 澄んだコンソメの匂い。

 焼きたての鶏の皮が持つ、香ばしい脂の匂い。

 ソースの奥にある、少しだけ甘い果実の酸味。

 切られた果物から落ちる水気。

 バターの層が折り重なったロールパンの、ほのかな甘い熱。


 豪奢すぎるわけではない。

 けれど、この学園の食事らしく、どれも美しく飾られて盛られている。丁寧で、品がよくて、手を抜いていない。

 普段から裕福な食卓に慣れた生徒ですら、見ればちゃんと食欲を動かされるだけの美しさがある。

 それが今は、慰めではなく脅しの匂いになっていた。


 スクリーンの表示が消え、かわりに名前が呼ばれていく。


「定食ランク」


 その言い方だけで、胸の奥がざらつく。

 定食“でも”十分に豪華だ。けれど、そう聞かされた瞬間に、上と下があることが分かってしまう。


 最初に呼ばれたのは、白峰だった。

 次いで堂島。

 勝ち組・甲班の机に、わずかな沈黙が落ちる。


 白峰は立ち上がる時、椅子をほとんど鳴らさなかった。

 当然のものを受け取りに行く人の動きだった。

 堂島はそのあとに続く。


 だらしないようでいて、歩き方に隙はない。こういう場面で慌てないこと自体が、人を上に見せるのだと悠人は思う。


「水城、荒木。定食ランク」


 由良が「まあね」と小さく言った。

 安堵とも諦めともつかない声だった。

 悠人も立ち上がる。

 自分の脚が思っていたより軽いことに、少しだけ自己嫌悪を覚える。

 結局、自分も食事の内容に救われている。あれだけ嫌な問いを食らっても、食事がまともだと知るだけで息が少し楽になる。


 定食の皿は、白い大きなプレートだった。

 中心には皮をぱりっと焼いた鶏もも肉。表面には薄い照りがあり、ナイフを入れると下から白い湯気が逃げる。

 横に小さなグラタン。焼き色のついた表面を崩すと、柔らかなクリームが見えた。

 シャキッと冷やされたサラダ。淡い色のドレッシング。

 丸いロールパンが二つ。

 そしてデザートに、薄いガラスの器へ入ったバニラムースと、半分に切られた苺。

 それだけで、普通の学校の昼食よりずっと贅沢だ。

 それなのに、ここではもう“上ではない”。


 その下のランクは、一気に色が変わる。

 呼ばれた生徒の前に置かれるのは、個包装のパン、冷えたサラダ、おにぎり、紙カップのスープ。

 悪くはない。

 だが、プレートの上で湯気を立てる皿を見たあとでは、どうしても“落ちた”ように見える。


 そして、その下。


「九条湊。コンビニパン」


 名前を呼ばれた瞬間、湊の笑顔が一度だけ止まった。


「……は?」

 小さな声だった。

「俺?」


 応じる者はいない。

 新庄が無言でビニール包装のパンを二つと、ペットボトルの水を差し出す。


 食堂の匂いの中で見るコンビニのパンは、妙に味気なく見えた。

 金色の包装フィルム。総菜パンの油。甘いクリームパンの人工的な匂い。

 それ自体は別に悪くない。空腹は満たせる。

 けれど、この学園の食堂で、銀の蓋の向こうにある料理を見せつけられたあとでは、露骨に安い。露骨に“下”だった。


 湊は受け取ったパンを見下ろし、すぐには机へ戻れなかった。

 その一拍の遅れが、いちばん恥ずかしい。

 周囲に自分のランクを見られてしまうからだ。


 負け組・甲班では、黒沢が「パンとスープ」の段へ落ちた。

 スープの紙カップをトレイへ置かれた瞬間、黒沢の口元が目に見えて歪む。

 普段なら、こういう顔をした時点で周囲が引く。

 だがここは食堂で、食事の配分はすでに終わっている。怒ったところで皿は変わらない。

 その変わらなさが、黒沢には一番腹立たしいのだろう。


 雫は、パン・サラダ・おにぎり・スープの段だった。

 呼ばれた瞬間、ほんのわずかに息が戻るのが見えた。もっと悪い結果を想定していたのかもしれない。

 その安堵は、見ているこちらの胸が詰まるほど切実だった。


 余物班の机では、奥平が呼ばれてもすぐ立たず、名前をもう一度繰り返されてからようやく動いた。

 牧瀬は最初から表情を変えない。

 真壁は、コンビニパンを受け取る他人の姿を見て、笑うでも怯えるでもなく、ただ飲み込めないものを見るみたいな目をしていた。


 配膳が一通り終わる頃には、食堂の中で“食べ物の違い”がそのまま人間の違いへ見えていた。


 勝ち組・甲班の机へ戻ると、由良がすぐにフォークを手に取った。

 苛立ちを抑える時ほど、彼は食べる動作をきっちりさせる。

 白峰はナイフを滑らせ、堂島は皿へ視線を落としたまま、最初のひと口を静かに運ぶ。

 悠人もパンをちぎる。


 味は、ちゃんと美味しかった。

 それがひどく気持ち悪かった。


 この空気の中でも、舌は普通に美味しいと感じてしまう。鶏肉は柔らかく、ソースは少しだけ甘い。ロールパンはまだ温かく、指先へ薄い熱が残る。

 その“まともさ”が、かえって残酷だと思った。


「むかつくくらいちゃんとしてる」

 由良が、小さく言う。


 白峰がナプキンで唇を押さえた。

「でも、初日からこの程度なら悪くないかも」

 その言い方には本音があった。

 まだ彼女の中では遊びの延長なのだ。少なくとも、いま皿の上に上等な食事があるうちは。


「悪くない?」

 由良が顔を上げる。


「どこが」

「だって、ちゃんと取ればちゃんと出るんでしょ」

「人間を餌で振り分けてるだけじゃん」


 白峰は返さない。

 かわりに堂島がフォークを皿へ置いた。

 かち、と短い音が鳴る。

 ほんの小さな音なのに、机の空気が一段だけ締まった。

 堂島は怒鳴らない。だがこういうふうに、自分がいま面白くないと思っていることだけは、机の上で静かに表す。


 教室でもそうだ。

 机を蹴る。ドアを鳴らす。机へ鞄を乱暴に置く。

 大声を出す前に、まず音で周囲を黙らせる。

 その役を、たいてい黒沢が身体で引き受けてきた。


 負け組・甲班の方から、スープのカップが揺れる音がした。


 黒沢だった。

 紙カップを机へ置くというより、打ちつけるように下ろしたのだろう。


「これで食えって?」

 低い声が、食堂の中で意外なほどよく響く。


 美苑がびくりと肩を揺らす。

 白萩はそちらを見ない。

 宮部はパンの袋を開く手を止めたままだ。


「十分でしょ」

 誰かが言った。

 たぶん白萩だった。

 静かな声だ。

 静かなだけに、余計に黒沢の神経を撫でる。


 黒沢はすぐには返さない。

 ただ、紙カップの縁へ指をかけたまま、顔だけを上げる。

 その横顔を見た瞬間、美苑の喉が小さく鳴ったのが分かった。

 普段の学校生活なら、ああいう沈黙の時点で視線を伏せる。

 誰も何も言わず、やり過ごす。

 それが最下位クラスの防衛だった。


 けれど今日は、皿がある。

 ランクがある。

 食事の格差が、その沈黙を普段よりもっと惨めにしている。


 九条の机は、もっと露骨にしおれていた。

 湊は、ビニール包装の惣菜パンを開ける手元まで気まずそうで、いつもの軽口が続かない。

 戸川は笑わない。

 笑わないこと自体が、もうかなり冷たい。

 普段なら“おまえそれ似合いすぎ”くらいは言うだろう。けれど今は、自分の皿が少しでも上であることの方が重要なのだ。


 雫の机では、スープの湯気だけがやけに優しく見えた。

 優しいのに、誰もその優しさに救われない。

 鷹宮は食べ方まで乱暴で、柏木は縮こまり、成瀬は最初から“私は悪くない”という顔のまま、おにぎりの包装を剥いている。

 雫はおにぎりを手に持ったまま、ひと口目をなかなか噛めずにいた。


 普段の昼休みなら、こうはならない。

 堂島たちは自分たちの輪で騒ぎ、白峰たちは見られる側の机に座り、九条は大きな声で誰かを笑い、雫みたいな生徒は目立たない席で静かに食べる。

 そこには確かに序列がある。

 でもそれは、もっと曖昧で、もっと日常のふりをしている。

 いまは違う。

 プレートも、パンも、スープも、その曖昧さをなくしてしまう。

 皿の上に、はっきりと順番が見える。


 食堂のざわめきは、昼休みのそれにはならなかった。

 誰かと味を言い合う声も、旅行気分の浮ついた笑いもない。

 ただ、カトラリーの触れ合う音、包装を剥く音、スープを啜る音だけが、それぞれのランクに合わせた温度で響いている。


 悠人は、デザートのムースへスプーンを入れた。

 表面はなめらかで、すっと沈む。バニラの匂いがする。

 美味しい。

 その事実だけが、どうしようもなく嫌だった。

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