5.
立ち上がったのは、黒沢だった。
椅子が大きく鳴る。
紙カップのスープが揺れ、卓上に小さな雫を散らした。
「ふざけんな」
その声は、食堂の天井へ跳ね返って少し遅れて落ちてきた。
黒沢はもう、食事を見ていなかった。スープでも、おにぎりでも、パンでもない。もっと向こう、いまここにいない誰かへ向かって怒っている顔だった。
「人に勉強させといて、こんなもん出すのかよ」
机を指で叩く。
「修学旅行だろ? これが?」
さっきまで教卓の前にいた純美子の姿は、もう食堂にはない。
伊吹もいない。
残っているのは榊原と新庄だけだった。
それが逆に、不穏だった。
普段なら生徒人気のある二人だ。榊原は明るくて、何でも前向きにまとめてしまう。新庄は相談しやすくて、面倒見がいい。
少なくとも教室や校庭で見かける二人は、そういう教師だった。
けれどいま食堂にいる二人は、その面影をほとんど見せていない。
黒沢は立ったまま、机を回るように一歩踏み出した。
その動きだけで、美苑が椅子を鳴らして身を引く。
教室なら、みんなが一番嫌う瞬間だった。
ああやって黒沢が立つ時、たいていろくなことにならない。
「黒沢」
新庄が言う。
声は大きくない。
いつもの朗らかな調子もない。
名を呼んだだけなのに、妙に硬い。
「座りなさい」
「は?」
黒沢がそちらを見る。
「なんで」
「座りなさい」
同じ言葉を、同じ声で繰り返す。
その無機質さに、何人かが顔を上げた。
いつもの新庄なら、こんな言い方はしない。なだめるか、笑って流すか、別の言葉を使う。
いまの声は、命令だった。
「こんなの食えるわけねえだろ」
黒沢が吐き捨てる。
「犬じゃねえんだから」
次の瞬間、新庄が動いた。
速かった。
見えた時にはもう、黒沢の手首を取っていた。
捻るほど大げさではない。ただ、逃がさない角度で掴み、そのまま体勢を半歩だけ崩す。黒沢の肩が不格好に傾く。
それだけで、黒沢の顔色が変わった。
「……っ」
「座りなさい」
もう一度。
同じ声。
同じ硬さ。
食堂が、静まり返る。
榊原はその脇へ立っていた。
止めるでもなく、助けるでもなく、必要なら次に入れる位置へ。
その立ち方が、教師のものに見えない。
体育教師や副担任ではなく、もっと別の、身体を押さえつけることに慣れた大人の立ち方だった。
「離せよ」
黒沢が低く唸る。
「教師だろ、おまえ」
「だから言っています。座りなさい」
手首を取る力が少しだけ増したのだろう。
黒沢の口元が歪む。
痛みを隠しきれない顔だった。
その瞬間、美苑だけではなく、何人かが同時に気づいたはずだ。
あれは、普段の副担任の手つきではない。
生徒をなだめる手ではない。
暴れる相手を制圧するための手だ。
堂島は立ち上がらなかった。
だが、フォークを置く。
小さく、乾いた音。
その音ひとつで、黒沢の動きが一瞬だけ止まる。
堂島が本気で苛立つ前に、黒沢は自分の役目を思い出す。そういう主従ではないにせよ、長い付き合いの中でできあがった力関係があるのだろう。
「……座れってさ」
堂島が言う。
静かな声だった。
怒鳴らない。けれど逆らえない声だ。
黒沢は舌打ちをして、ようやく椅子へ戻った。
新庄が手を放す。
その手首には、赤い指の跡がうっすら残っていた。
誰も何も言えない。
いつもの副担任なら、生徒をここまでの力で押さえない。
少なくとも、この学園の“表向き”ではあり得ない。
それなのに、いま食堂にあるのは脅しでも指導でもなく、もっと生の圧力だった。
榊原が食堂全体を見渡す。
「食事を続けてください」
それだけ。
だが、その一言で机へ戻る手つきまで変わる。
反抗すれば押さえつけられる。
その事実が、もう教室の常識ではない。
九条が、そこでかすかに笑った。
笑ったというより、口の端がひきつった。
「何これ」
小声だった。
「普通に怖いんだけど」
神宮寺は答えない。
ただ、食事の手を止めたまま、榊原の手元を見ている。理屈で物を見る彼の目が、いまは言葉を探しきれていない顔だった。
雫は、おにぎりを持つ指先まで冷えたみたいに動かない。
柏木は目を伏せる。
成瀬でさえ、その表情を少しだけ崩していた。
その沈黙の中で、悠人の頭に、普段の教室の光景がふと差し込んだ。
昼休みの教室。
窓際の席で、先生が黒板に貼るプリントを整えている。
その後ろで湊が「地味子ってさ、ほんと地味すぎて逆にすごいよな」と笑う。
結花がそれを聞いて、声を立てずに肩だけ震わせる。
黒沢は教卓の端に腰を乗せ、堂島は席からそれを眺めている。
先生は振り返るが、何も言わない。
言えないのだ。
その時、悠人はノートを開いたふりをしていた。
見ていた。
聞こえていた。
でも、止めなかった。
止めれば今度は自分があちら側へ入れられると、知っていたから。
別の日。
放課後の廊下。
雫が配布物を胸へ抱えて歩いている横を、九条と天津が通り過ぎる。
肩が触れる。わざとかどうか分からない程度に。
紙が散らばって二人の笑い声だけが通り過ぎていく。
雫はしゃがみ込んで、何も言わずに拾う。
柏木は少し離れた場所で立ち止まる。
手伝うか迷って、結局動けない。
その二、三秒のためらいが、ずっと教室の隅に残る。
また別の日。
教卓の近くで、先生が授業を始めようとしている。
後ろから黒沢が教科書を黒板へ叩きつけ、湊が笑い、堂島は目だけで教室の空気を見ている。
先生は一度だけ目を伏せ、それから小さな声で「では、始めます」と言う。
その時も悠人は、前を向いたままだった。
聞こえていた。
聞こえていたのに、何もしていない。
食堂の机へ戻ると、目の前の鶏肉はまだ温かかった。
ロールパンも、ムースも、ちゃんと美味しそうだ。
なのに、もう最初のひと口とは違う。
味の前に、さっき見た新庄の手つきが喉の奥へ残っている。
修学旅行の初日の午後だ。
本来なら、もう少し浮かれていてもいい時間だ。
写真を撮って、料理を比べて、夜の予定を話して。
そういうものがあるはずだった。
けれど食堂には、それがない。
あるのは、ランクのついた皿と、押さえつける手と、普段の教室から連れてこられたままの怯えだけだった。
楽しくない。
その当たり前のことを、誰ももう口にしなかった。
口に出したところで、この食堂では何も変わらないと、さっきの手首の赤さが教えてしまったからだ。




