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修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第3章

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5.


立ち上がったのは、黒沢だった。


 椅子が大きく鳴る。

 紙カップのスープが揺れ、卓上に小さな雫を散らした。


「ふざけんな」


 その声は、食堂の天井へ跳ね返って少し遅れて落ちてきた。

 黒沢はもう、食事を見ていなかった。スープでも、おにぎりでも、パンでもない。もっと向こう、いまここにいない誰かへ向かって怒っている顔だった。


「人に勉強させといて、こんなもん出すのかよ」

 机を指で叩く。

「修学旅行だろ? これが?」


 さっきまで教卓の前にいた純美子の姿は、もう食堂にはない。

 伊吹もいない。

 残っているのは榊原と新庄だけだった。


 それが逆に、不穏だった。

 普段なら生徒人気のある二人だ。榊原は明るくて、何でも前向きにまとめてしまう。新庄は相談しやすくて、面倒見がいい。

 少なくとも教室や校庭で見かける二人は、そういう教師だった。

 けれどいま食堂にいる二人は、その面影をほとんど見せていない。


 黒沢は立ったまま、机を回るように一歩踏み出した。

 その動きだけで、美苑が椅子を鳴らして身を引く。

 教室なら、みんなが一番嫌う瞬間だった。

 ああやって黒沢が立つ時、たいていろくなことにならない。


「黒沢」

 新庄が言う。

 声は大きくない。

 いつもの朗らかな調子もない。

 名を呼んだだけなのに、妙に硬い。


「座りなさい」


「は?」

 黒沢がそちらを見る。

「なんで」


「座りなさい」


 同じ言葉を、同じ声で繰り返す。

 その無機質さに、何人かが顔を上げた。

 いつもの新庄なら、こんな言い方はしない。なだめるか、笑って流すか、別の言葉を使う。

 いまの声は、命令だった。


「こんなの食えるわけねえだろ」

 黒沢が吐き捨てる。

「犬じゃねえんだから」


 次の瞬間、新庄が動いた。


 速かった。

 見えた時にはもう、黒沢の手首を取っていた。

 捻るほど大げさではない。ただ、逃がさない角度で掴み、そのまま体勢を半歩だけ崩す。黒沢の肩が不格好に傾く。

 それだけで、黒沢の顔色が変わった。


「……っ」

「座りなさい」


 もう一度。

 同じ声。

 同じ硬さ。


 食堂が、静まり返る。


 榊原はその脇へ立っていた。

 止めるでもなく、助けるでもなく、必要なら次に入れる位置へ。

 その立ち方が、教師のものに見えない。

 体育教師や副担任ではなく、もっと別の、身体を押さえつけることに慣れた大人の立ち方だった。


「離せよ」

 黒沢が低く唸る。

「教師だろ、おまえ」

「だから言っています。座りなさい」


 手首を取る力が少しだけ増したのだろう。

 黒沢の口元が歪む。

 痛みを隠しきれない顔だった。


 その瞬間、美苑だけではなく、何人かが同時に気づいたはずだ。

 あれは、普段の副担任の手つきではない。

 生徒をなだめる手ではない。

 暴れる相手を制圧するための手だ。


 堂島は立ち上がらなかった。

 だが、フォークを置く。

 小さく、乾いた音。


 その音ひとつで、黒沢の動きが一瞬だけ止まる。

 堂島が本気で苛立つ前に、黒沢は自分の役目を思い出す。そういう主従ではないにせよ、長い付き合いの中でできあがった力関係があるのだろう。


「……座れってさ」

 堂島が言う。

 静かな声だった。

 怒鳴らない。けれど逆らえない声だ。


 黒沢は舌打ちをして、ようやく椅子へ戻った。

 新庄が手を放す。

 その手首には、赤い指の跡がうっすら残っていた。


 誰も何も言えない。


 いつもの副担任なら、生徒をここまでの力で押さえない。

 少なくとも、この学園の“表向き”ではあり得ない。

 それなのに、いま食堂にあるのは脅しでも指導でもなく、もっと生の圧力だった。


 榊原が食堂全体を見渡す。


「食事を続けてください」


 それだけ。

 だが、その一言で机へ戻る手つきまで変わる。

 反抗すれば押さえつけられる。

 その事実が、もう教室の常識ではない。


 九条が、そこでかすかに笑った。

 笑ったというより、口の端がひきつった。


「何これ」

 小声だった。

「普通に怖いんだけど」


 神宮寺は答えない。

 ただ、食事の手を止めたまま、榊原の手元を見ている。理屈で物を見る彼の目が、いまは言葉を探しきれていない顔だった。


 雫は、おにぎりを持つ指先まで冷えたみたいに動かない。

 柏木は目を伏せる。

 成瀬でさえ、その表情を少しだけ崩していた。


 その沈黙の中で、悠人の頭に、普段の教室の光景がふと差し込んだ。


 昼休みの教室。

 窓際の席で、先生が黒板に貼るプリントを整えている。

 その後ろで湊が「地味子ってさ、ほんと地味すぎて逆にすごいよな」と笑う。

 結花がそれを聞いて、声を立てずに肩だけ震わせる。

 黒沢は教卓の端に腰を乗せ、堂島は席からそれを眺めている。

 先生は振り返るが、何も言わない。


 言えないのだ。

 その時、悠人はノートを開いたふりをしていた。

 見ていた。

 聞こえていた。

 でも、止めなかった。

 止めれば今度は自分があちら側へ入れられると、知っていたから。


 別の日。

 放課後の廊下。

 雫が配布物を胸へ抱えて歩いている横を、九条と天津が通り過ぎる。

 肩が触れる。わざとかどうか分からない程度に。

 紙が散らばって二人の笑い声だけが通り過ぎていく。

 雫はしゃがみ込んで、何も言わずに拾う。


 柏木は少し離れた場所で立ち止まる。

 手伝うか迷って、結局動けない。

 その二、三秒のためらいが、ずっと教室の隅に残る。


 また別の日。

 教卓の近くで、先生が授業を始めようとしている。

 後ろから黒沢が教科書を黒板へ叩きつけ、湊が笑い、堂島は目だけで教室の空気を見ている。

 先生は一度だけ目を伏せ、それから小さな声で「では、始めます」と言う。

 その時も悠人は、前を向いたままだった。

 聞こえていた。

 聞こえていたのに、何もしていない。


 食堂の机へ戻ると、目の前の鶏肉はまだ温かかった。

 ロールパンも、ムースも、ちゃんと美味しそうだ。

 なのに、もう最初のひと口とは違う。

 味の前に、さっき見た新庄の手つきが喉の奥へ残っている。


 修学旅行の初日の午後だ。


 本来なら、もう少し浮かれていてもいい時間だ。

 写真を撮って、料理を比べて、夜の予定を話して。

 そういうものがあるはずだった。

 けれど食堂には、それがない。

 あるのは、ランクのついた皿と、押さえつける手と、普段の教室から連れてこられたままの怯えだけだった。


 楽しくない。

 その当たり前のことを、誰ももう口にしなかった。

 口に出したところで、この食堂では何も変わらないと、さっきの手首の赤さが教えてしまったからだ。

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