3.
同じ沈黙でも、授業中のそれとはまるで違った。
教室で先生に当てられた時の静けさなら、まだどこか逃げ道がある。分かりませんと小さく言って、周囲に笑われるか、呆れられるか、それで済む。
けれど今の食堂に落ちている沈黙は、もっと粘ついていた。答えられなければ自分だけでは終わらない。その後ろに班員の昼食がぶら下がっているせいで、黙ることそのものが誰かへの加害になっていく。
スクリーンの端で、制限時間の数字だけが白く減っていた。
最初に立ち上がったのは、神宮寺だった。
勝ち組・乙班の机から椅子を引き、わざと音を立てずに前へ出る。そういうところが、九条と違う。九条は騒いで場を濁すが、神宮寺は整った顔のまま、自分はまだ格好を保っているつもりで前へ出る。
彼は演台の前に立つと、一度だけネクタイの結び目を触った。
「別に、人を傷つけるために使ってるわけじゃありません」
声は落ち着いていた。
落ち着いていること自体が、彼にとっては武器なのだろう。
「言葉って、受け取る側の問題でもあるじゃないですか。事実を言っただけで傷つく人もいるし、正しいことを言われて不快になる人もいる。僕が全部悪いみたいに言われるのは、違うと思います」
そこまで言って、彼は少しだけ口元を上げた。
勝ったつもりなのだ。
自分は感情に流されていない、少なくとも九条みたいに見苦しくはないと、そういう勝ち方を選んでいる顔だった。
純美子はその顔を静かに見た。
「それが答えですか」
「はい」
「では質問を変えます」
神宮寺の眉が、そこで初めてわずかに動く。
「あなたは、相手が傷つくと分かっていても、“事実だから”と言えば自分は汚れずに済むと思っていませんか」
食堂の空気が、ほんの少しだけ冷えた。
神宮寺はすぐには答えなかった。
答えなかったのに、それでもまだ崩れないつもりでいる顔が、見ていていっそう苦しかった。
「……思ってない、とは言いません」
その言葉が落ちた瞬間、乙班の空気が小さくほどける。桜庭が安堵した顔で息をつき、西野は神宮寺を見ないように視線を配膳台へ逃がした。
答えとして十分なのかどうかは分からない。
けれど、少なくとも班ごと沈むことは、いったん先送りされたらしい。
その次に前へ出されたのは九条だった。
さっきまで笑っていたのに、いざ立ち上がると歩き方が少しだけ速い。平静を装う時ほど、人は足に出る。
「なぜ人を嘲る時だけよく喋るのですか」
スクリーンの問いを、自分の机から見上げていた時と、正面に立って向き合う時とでは、意味の太さが違うのだろう。九条の喉が、誰にも聞こえない程度に動いた。
「別に、嘲ってるとかじゃなくて……その、場を盛り上げようとしてるだけっていうか」
客席のどこかで、小さな笑いが漏れた。
九条自身の取り巻きではない。むしろ、いつも軽口の犠牲になってきた側の、乾いた笑いだった。
戸川が机で腕を組みながら言う。
「盛り上げるねえ」
九条はそちらを振り返らない。振り返れば、自分の言葉がどれだけ薄いかを認めることになるからだ。
「……黙ってると、損するじゃん」
ようやく、九条は言った。
「先に笑った方が勝ちだし。そうしないと、逆にこっちがやられるし」
それは、半分だけ本音だった。
半分だけ、というのが余計に生々しい。
自分が誰かを笑ってきたのに、その理由を“先にやられるから”へずらしてしまう浅さ。九条らしいと悠人は思った。
純美子はそれ以上深く追わず、「解答を受理します」とだけ言った。
九条は露骨に安堵し、それを隠すために帰り際だけ肩をすくめてみせた。
その小芝居のような仕草も、今日は前よりずっと軽く見える。
だが、黒沢のところではそうはいかなかった。
「前へ」
名指しされた瞬間から、負け組・甲班の空気は張っていた。
黒沢は立ち上がらない。椅子へ深く座ったまま、演台の方を睨んでいる。
その沈黙に、美苑の顔がまた白くなる。
宮部は膝の上で手を握り、白萩は相変わらず静かに黒沢を見ていた。
「対象者は前へ」
純美子が繰り返す。
そこでようやく、黒沢は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、耳障りな音が食堂に走る。
前へ出る足取りには、従っているというより、今はまだ殴れないから歩いているだけ、という苛立ちが見えた。
「あなたは、なぜ怒りを他人の身体で発散するのですか」
黒沢は笑った。
笑ったが、声は出さない。歯だけが一瞬見えて、それがすぐに消える。
「発散してねえよ」
「では、何ですか」
「そっちがムカつくことしてくるからだろ」
その答えの速さに、客席がまたざわつく。
悪びれなさすぎる。
堂島が静かなままなのに対して、黒沢の方は自分の暴力をほとんど恥じていない。そこが怖い。
「相手がムカつかせたから、殴っていいと?」
純美子が訊く。
「言ってねえ。手が出ただけ」
その瞬間、食堂のどこかで短く息を呑む音がした。
“手が出ただけ”。
その言い方ひとつで、今までどれだけ簡単に人へ痛みを与えてきたかが分かってしまう。
白萩が、そこで初めて口を開いた。
席から動かず、低く。
「出るんだ」
黒沢が振り返る。
「は?」
「手」
白萩は、相手の目を見ないまま言った。
「簡単に出るんだね」
それは責める口調ではなかった。
ただ事実だけを置いた声だった。
だから余計に、黒沢の顔が変わる。
「おまえ」
低く唸るみたいな声が落ちる。
榊原が、その時初めて一歩だけ前へ出た。
たった一歩。
けれど黒沢は、そこで視線を切った。純美子でも白萩でもなく、榊原の方へ一瞬だけ向き、それから舌打ちして顔を正面へ戻す。
この場で本当に手を出せば、何かが変わる。
黒沢にもそれくらいは分かるのだろう。
「……じゃあ、そうなんじゃないですか」
投げるように言う。
認めたのではない。
ただ、今はそれ以上を続ける価値がないと切り捨てただけの声だった。
純美子は「解答を受理します」と言った。
その一言が、美苑と宮部の肩から目に見えない重みを少しだけ剥がした。
美苑は息をつき、すぐにそのことを恥じたみたいに口を結ぶ。
班員の正解に安堵するなんて、普段の教室なら絶対に見せたくない顔だろう。
問題は、雫のところだった。
「前へ」と呼ばれても、すぐには立てない。
立てないというより、立ち方を忘れているみたいだった。
鷹宮が横で苛立たしげに舌を鳴らす。
「おい」
低い声。
「行けよ」
その一言だけで、雫の肩が跳ねる。
やっと立ち上がるが、椅子を引く音まで遠慮しているみたいに小さい。
演台の前へ立った雫は、机の前よりさらに輪郭が薄く見えた。
ただでさえ白い顔が、照明の下では紙みたいだった。
「あなたは、なぜ怖いという理由だけでずっと黙っているのですか」
問いの内容が、今まででいちばん露骨だった。
人格を掴んで、そのまま机へ押しつけるみたいな言い方だ。
雫は何も言わない。
喉が一度だけ動く。
それでも、声が出ない。
「制限時間内であれば、班員の助言は認めます」
純美子が言う。
「ただし、解答は本人の言葉で」
「じゃあ早くしろよ」
鷹宮が机から言った。
「黙ってたらこっちまで飯抜きなんだけど」
その言い方に、柏木が顔を上げる。
何か言いたそうだが、言えない。
雫にとっても酷だし、自分も食事制限は避けたい。その二つが胸の中でぶつかって、言葉の形にならない。
成瀬はもっと露骨だった。
「怖いからっていうなら、そう言えばいいじゃん」
薄い声で言う。
「それで終わるなら」
終わる。
そんな保証はどこにもないのに、班員はとにかく答えさせたい。
そこに“助ける”という響きはほとんど残っていなかった。
雫はようやく口を開いた。
「……怖い、からです」
声は細く、割れそうだった。
それでも確かに、食堂へ落ちた。
「何が怖いのですか」
純美子が訊く。
雫は目を伏せたまま、次の言葉を探す。
時間が減る。
配膳台の向こうからは、クロワッサンの甘い匂いがまだ流れてくる。
鷹宮の苛立ちが机越しにも伝わる。
「目をつけられるのが」
ようやく、雫は言った。
「怖いです」
「誰に?」
食堂の空気が、そこでわずかに動いた。
班員の何人かが視線を上げる。
誰に、という問いが、ただの性格診断では済まなくなるからだ。
雫の唇が震える。
答えれば何かが変わる。
答えなければ食事が遠ざかる。
その板挟みが、そのまま細い肩へ乗っているみたいだった。
「……皆に」
それは正解でも不正解でもない、濁した答えだった。
だが純美子はしばらく雫を見てから、「解答を受理します」と言った。
鷹宮があからさまに息を吐く。
柏木は安心より先に、どっと疲れた顔をした。
成瀬は「最初からそう言えば」と小さく呟く。
教室でなら、絶対にこんな言葉は雫へ向けないはずだ。向ければ自分が冷たい人間に見えるからだ。
でも今は違う。制度が冷たさに理由を与えてくれる。
悠人の番は、そのあとだった。
前へ出る時、堂島が一度だけ机の脚を軽く蹴った。
苛立っているのか、退屈なのか、どちらともつかない短い音だった。
黒沢みたいに手は出さない。
けれど、教室の空気が一段だけ悪くなるのは、たいていこういう静かな音の方だ。
堂島自身が本気で不機嫌になる前に、周囲が先にそれを察して勝手に萎縮する。
その中心にずっといた人間の静けさだった。
演台の前へ立つと、食堂の机がすべてこちらを向いている。
問いの内容はもう分かっているのに、改めて正面で訊かれると、言葉の角が別物みたいに鋭かった。
「あなたは、なぜ正しいと思ったことを最後まで貫けないのですか」
悠人は息を吸った。
由良のメモ帳へ並んでいた単語が頭をよぎる。
怖い。
保身。
委員長の顔だけ。
どれも違う気がして、どれも違わない気がした。
「……たぶん」
声が少し掠れた。
食堂が静まる。
「正しい側にいたいんだと思います」
自分で言っていて、気持ちのいい言葉ではない。
正義感ではない。
正しい側。
その言い方の薄さを、言った本人が一番分かる。
「でも」
悠人は続けた。
「自分まで巻き込まれるのは嫌で……嫌というか、怖くて。だから、最後まで行けないんだと思います」
それで十分かどうかは分からない。
言い終わった瞬間に、もっとましな言葉があったような気がする。
だが、それ以上は出なかった。
由良は机で腕を組み、何も言わなかった。
白峰は退屈そうな顔を少しやめている。
堂島は、面白がるでもなく、ただ静かにこちらを見ていた。
純美子は少しだけ間を置き、それから「解答を受理します」と言った。
その瞬間、食堂の空気が一斉に動く。
完全な安堵ではない。
ただ、“昼食がまだ遠ざかっていない”というだけの安堵。
それでも人は、その程度で少し救われてしまう。
最後に、純美子は食堂全体を見渡した。
「初回の特別問題は、以上です」
スクリーンが切り替わる。
班名の横へ、小さな表示が追加される。
昼食内容を決定します
配膳台の蓋が一斉に開いた。
湯気が立つ。
ローストビーフの断面が濃い赤を覗かせる。
コンソメの表面に油が薄く光る。
クロワッサンの層が、指を立てるように薄く裂ける。
果物は冷えた水滴をまとい、グラスのジュースは昼の光を透かしていた。
きれいだった。
きれいすぎて、少し残酷だった。
食堂の中に、空腹の匂いと安堵の匂いが同時に立ちのぼる。
正解したから食べられる。
答えられなければ、これが遠ざかる。
その事実だけで、どの机もさっきまでとは違う色に見えた。
普段の学校生活なら、昼食はただの昼食だ。
学食の列に並び、パンを買い、友達と机を囲むだけの時間。
堂島たちは自分たちの輪で笑い、雫のような生徒は目立たない席で静かに食べる。
そこにあるのは、小さな序列と、それを見て見ぬふりする日常だけだ。
けれど今は違う。
食事そのものが、班の出来と人間の価値へ繋がっている。
パンの香りまで、点数で区切られた階級の匂いになっていた。




