表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

3.


 同じ沈黙でも、授業中のそれとはまるで違った。


 教室で先生に当てられた時の静けさなら、まだどこか逃げ道がある。分かりませんと小さく言って、周囲に笑われるか、呆れられるか、それで済む。

 けれど今の食堂に落ちている沈黙は、もっと粘ついていた。答えられなければ自分だけでは終わらない。その後ろに班員の昼食がぶら下がっているせいで、黙ることそのものが誰かへの加害になっていく。


 スクリーンの端で、制限時間の数字だけが白く減っていた。


 最初に立ち上がったのは、神宮寺だった。


 勝ち組・乙班の机から椅子を引き、わざと音を立てずに前へ出る。そういうところが、九条と違う。九条は騒いで場を濁すが、神宮寺は整った顔のまま、自分はまだ格好を保っているつもりで前へ出る。

 彼は演台の前に立つと、一度だけネクタイの結び目を触った。


「別に、人を傷つけるために使ってるわけじゃありません」


 声は落ち着いていた。

 落ち着いていること自体が、彼にとっては武器なのだろう。


「言葉って、受け取る側の問題でもあるじゃないですか。事実を言っただけで傷つく人もいるし、正しいことを言われて不快になる人もいる。僕が全部悪いみたいに言われるのは、違うと思います」


 そこまで言って、彼は少しだけ口元を上げた。

 勝ったつもりなのだ。

 自分は感情に流されていない、少なくとも九条みたいに見苦しくはないと、そういう勝ち方を選んでいる顔だった。


 純美子はその顔を静かに見た。


「それが答えですか」


「はい」


「では質問を変えます」


 神宮寺の眉が、そこで初めてわずかに動く。


「あなたは、相手が傷つくと分かっていても、“事実だから”と言えば自分は汚れずに済むと思っていませんか」


 食堂の空気が、ほんの少しだけ冷えた。


 神宮寺はすぐには答えなかった。

 答えなかったのに、それでもまだ崩れないつもりでいる顔が、見ていていっそう苦しかった。


「……思ってない、とは言いません」


 その言葉が落ちた瞬間、乙班の空気が小さくほどける。桜庭が安堵した顔で息をつき、西野は神宮寺を見ないように視線を配膳台へ逃がした。

 答えとして十分なのかどうかは分からない。

 けれど、少なくとも班ごと沈むことは、いったん先送りされたらしい。


 その次に前へ出されたのは九条だった。


 さっきまで笑っていたのに、いざ立ち上がると歩き方が少しだけ速い。平静を装う時ほど、人は足に出る。


「なぜ人を嘲る時だけよく喋るのですか」


 スクリーンの問いを、自分の机から見上げていた時と、正面に立って向き合う時とでは、意味の太さが違うのだろう。九条の喉が、誰にも聞こえない程度に動いた。


「別に、嘲ってるとかじゃなくて……その、場を盛り上げようとしてるだけっていうか」


 客席のどこかで、小さな笑いが漏れた。

 九条自身の取り巻きではない。むしろ、いつも軽口の犠牲になってきた側の、乾いた笑いだった。


 戸川が机で腕を組みながら言う。


「盛り上げるねえ」


 九条はそちらを振り返らない。振り返れば、自分の言葉がどれだけ薄いかを認めることになるからだ。


「……黙ってると、損するじゃん」

 ようやく、九条は言った。

「先に笑った方が勝ちだし。そうしないと、逆にこっちがやられるし」


 それは、半分だけ本音だった。

 半分だけ、というのが余計に生々しい。

 自分が誰かを笑ってきたのに、その理由を“先にやられるから”へずらしてしまう浅さ。九条らしいと悠人は思った。


 純美子はそれ以上深く追わず、「解答を受理します」とだけ言った。

 九条は露骨に安堵し、それを隠すために帰り際だけ肩をすくめてみせた。

 その小芝居のような仕草も、今日は前よりずっと軽く見える。


 だが、黒沢のところではそうはいかなかった。


「前へ」


 名指しされた瞬間から、負け組・甲班の空気は張っていた。

 黒沢は立ち上がらない。椅子へ深く座ったまま、演台の方を睨んでいる。

 その沈黙に、美苑の顔がまた白くなる。

 宮部は膝の上で手を握り、白萩は相変わらず静かに黒沢を見ていた。


「対象者は前へ」


 純美子が繰り返す。


 そこでようやく、黒沢は立ち上がった。

 椅子の脚が床を擦り、耳障りな音が食堂に走る。

 前へ出る足取りには、従っているというより、今はまだ殴れないから歩いているだけ、という苛立ちが見えた。


「あなたは、なぜ怒りを他人の身体で発散するのですか」


 黒沢は笑った。

 笑ったが、声は出さない。歯だけが一瞬見えて、それがすぐに消える。


「発散してねえよ」


「では、何ですか」


「そっちがムカつくことしてくるからだろ」


 その答えの速さに、客席がまたざわつく。

 悪びれなさすぎる。

 堂島が静かなままなのに対して、黒沢の方は自分の暴力をほとんど恥じていない。そこが怖い。


「相手がムカつかせたから、殴っていいと?」

 純美子が訊く。


「言ってねえ。手が出ただけ」


 その瞬間、食堂のどこかで短く息を呑む音がした。

 “手が出ただけ”。

 その言い方ひとつで、今までどれだけ簡単に人へ痛みを与えてきたかが分かってしまう。


 白萩が、そこで初めて口を開いた。

 席から動かず、低く。


「出るんだ」


 黒沢が振り返る。


「は?」


「手」

 白萩は、相手の目を見ないまま言った。

「簡単に出るんだね」


 それは責める口調ではなかった。

 ただ事実だけを置いた声だった。

 だから余計に、黒沢の顔が変わる。


「おまえ」

 低く唸るみたいな声が落ちる。


 榊原が、その時初めて一歩だけ前へ出た。

 たった一歩。

 けれど黒沢は、そこで視線を切った。純美子でも白萩でもなく、榊原の方へ一瞬だけ向き、それから舌打ちして顔を正面へ戻す。


 この場で本当に手を出せば、何かが変わる。

 黒沢にもそれくらいは分かるのだろう。


「……じゃあ、そうなんじゃないですか」


 投げるように言う。

 認めたのではない。

 ただ、今はそれ以上を続ける価値がないと切り捨てただけの声だった。


 純美子は「解答を受理します」と言った。

 その一言が、美苑と宮部の肩から目に見えない重みを少しだけ剥がした。

 美苑は息をつき、すぐにそのことを恥じたみたいに口を結ぶ。

 班員の正解に安堵するなんて、普段の教室なら絶対に見せたくない顔だろう。


 問題は、雫のところだった。


 「前へ」と呼ばれても、すぐには立てない。

 立てないというより、立ち方を忘れているみたいだった。

 鷹宮が横で苛立たしげに舌を鳴らす。


「おい」

 低い声。

「行けよ」


 その一言だけで、雫の肩が跳ねる。

 やっと立ち上がるが、椅子を引く音まで遠慮しているみたいに小さい。


 演台の前へ立った雫は、机の前よりさらに輪郭が薄く見えた。

 ただでさえ白い顔が、照明の下では紙みたいだった。


「あなたは、なぜ怖いという理由だけでずっと黙っているのですか」


 問いの内容が、今まででいちばん露骨だった。

 人格を掴んで、そのまま机へ押しつけるみたいな言い方だ。


 雫は何も言わない。

 喉が一度だけ動く。

 それでも、声が出ない。


「制限時間内であれば、班員の助言は認めます」

 純美子が言う。

「ただし、解答は本人の言葉で」


「じゃあ早くしろよ」

 鷹宮が机から言った。

「黙ってたらこっちまで飯抜きなんだけど」


 その言い方に、柏木が顔を上げる。

 何か言いたそうだが、言えない。

 雫にとっても酷だし、自分も食事制限は避けたい。その二つが胸の中でぶつかって、言葉の形にならない。


 成瀬はもっと露骨だった。

「怖いからっていうなら、そう言えばいいじゃん」

 薄い声で言う。

「それで終わるなら」


 終わる。

 そんな保証はどこにもないのに、班員はとにかく答えさせたい。

 そこに“助ける”という響きはほとんど残っていなかった。


 雫はようやく口を開いた。


「……怖い、からです」


 声は細く、割れそうだった。

 それでも確かに、食堂へ落ちた。


「何が怖いのですか」

 純美子が訊く。


 雫は目を伏せたまま、次の言葉を探す。

 時間が減る。

 配膳台の向こうからは、クロワッサンの甘い匂いがまだ流れてくる。

 鷹宮の苛立ちが机越しにも伝わる。


「目をつけられるのが」

 ようやく、雫は言った。

「怖いです」


「誰に?」


 食堂の空気が、そこでわずかに動いた。

 班員の何人かが視線を上げる。

 誰に、という問いが、ただの性格診断では済まなくなるからだ。


 雫の唇が震える。

 答えれば何かが変わる。

 答えなければ食事が遠ざかる。

 その板挟みが、そのまま細い肩へ乗っているみたいだった。


「……皆に」


 それは正解でも不正解でもない、濁した答えだった。

 だが純美子はしばらく雫を見てから、「解答を受理します」と言った。


 鷹宮があからさまに息を吐く。

 柏木は安心より先に、どっと疲れた顔をした。

 成瀬は「最初からそう言えば」と小さく呟く。

 教室でなら、絶対にこんな言葉は雫へ向けないはずだ。向ければ自分が冷たい人間に見えるからだ。

 でも今は違う。制度が冷たさに理由を与えてくれる。


 悠人の番は、そのあとだった。


 前へ出る時、堂島が一度だけ机の脚を軽く蹴った。

 苛立っているのか、退屈なのか、どちらともつかない短い音だった。

 黒沢みたいに手は出さない。

 けれど、教室の空気が一段だけ悪くなるのは、たいていこういう静かな音の方だ。

 堂島自身が本気で不機嫌になる前に、周囲が先にそれを察して勝手に萎縮する。

 その中心にずっといた人間の静けさだった。


 演台の前へ立つと、食堂の机がすべてこちらを向いている。

 問いの内容はもう分かっているのに、改めて正面で訊かれると、言葉の角が別物みたいに鋭かった。


「あなたは、なぜ正しいと思ったことを最後まで貫けないのですか」


 悠人は息を吸った。

 由良のメモ帳へ並んでいた単語が頭をよぎる。

 怖い。

 保身。

 委員長の顔だけ。

 どれも違う気がして、どれも違わない気がした。


「……たぶん」


 声が少し掠れた。

 食堂が静まる。


「正しい側にいたいんだと思います」


 自分で言っていて、気持ちのいい言葉ではない。

 正義感ではない。

 正しい側。

 その言い方の薄さを、言った本人が一番分かる。


「でも」

 悠人は続けた。

「自分まで巻き込まれるのは嫌で……嫌というか、怖くて。だから、最後まで行けないんだと思います」


 それで十分かどうかは分からない。

 言い終わった瞬間に、もっとましな言葉があったような気がする。

 だが、それ以上は出なかった。


 由良は机で腕を組み、何も言わなかった。

 白峰は退屈そうな顔を少しやめている。

 堂島は、面白がるでもなく、ただ静かにこちらを見ていた。


 純美子は少しだけ間を置き、それから「解答を受理します」と言った。


 その瞬間、食堂の空気が一斉に動く。

 完全な安堵ではない。

 ただ、“昼食がまだ遠ざかっていない”というだけの安堵。


 それでも人は、その程度で少し救われてしまう。


 最後に、純美子は食堂全体を見渡した。


「初回の特別問題は、以上です」


 スクリーンが切り替わる。

 班名の横へ、小さな表示が追加される。


 昼食内容を決定します


 配膳台の蓋が一斉に開いた。


 湯気が立つ。

 ローストビーフの断面が濃い赤を覗かせる。

 コンソメの表面に油が薄く光る。

 クロワッサンの層が、指を立てるように薄く裂ける。

 果物は冷えた水滴をまとい、グラスのジュースは昼の光を透かしていた。


 きれいだった。

 きれいすぎて、少し残酷だった。


 食堂の中に、空腹の匂いと安堵の匂いが同時に立ちのぼる。

 正解したから食べられる。

 答えられなければ、これが遠ざかる。

 その事実だけで、どの机もさっきまでとは違う色に見えた。


 普段の学校生活なら、昼食はただの昼食だ。

 学食の列に並び、パンを買い、友達と机を囲むだけの時間。

 堂島たちは自分たちの輪で笑い、雫のような生徒は目立たない席で静かに食べる。

 そこにあるのは、小さな序列と、それを見て見ぬふりする日常だけだ。


 けれど今は違う。

 食事そのものが、班の出来と人間の価値へ繋がっている。

 パンの香りまで、点数で区切られた階級の匂いになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ