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修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第3章

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2


 普段の教室なら、こんな座り方はしない。


 その当たり前のことが、食堂に呼び集められてから急に生々しくなった。


 堂島と同じ机に、こんな近さで座ることはない。

 黒沢の隣に、自分から椅子を引いて腰を下ろす人間もいない。

 白峰の横は、選ばれる場所であって、うっかり入り込んでいい場所ではない。

 このクラスではずっと、そうだった。


 廊下ですれ違う時も、みんな無意識に道を譲る。

 授業中だって、後ろの方で不良グループが笑えば、前の席の人間は聞こえないふりを覚える。

 机を蹴る音、消しゴムが飛ぶ音、誰かを小突く音、あだ名が飛ぶ声。


そういうものが教室の空気に混じるたび、関わりたくない生徒たちは顔を伏せ、目を逸らし、必要以上に静かになる。

 反抗しないのは、許しているからじゃない。

 ただ、絡まれたくないだけだ。

 次の標的になりたくないだけだ。


 学級委員長の悠人ですら、それは同じだった。


 前へ出ろと言われれば出る。

 プリントを回せと言われれば回す。

 先生の話を聞けと促すこともある。

 けれど堂島たちを真正面から止めたことは、ほとんどない。止めれば、その瞬間から自分も線の向こう側へ引きずられると分かっていたからだ。

 奨学生で、外進生で、後ろ盾もない。

 そういう人間が正しさだけを掲げても、簡単に折られる。

 そのことを、悠人は嫌になるくらい知っていた。


 だから今、勝ち組・甲班の机に堂島と白峰と由良と自分が押し込められていること自体が、もう異常だった。


 同じ班だというだけで、急に近づけるわけがない。

 由良は堂島をあからさまに嫌っているし、白峰は由良のような奨学生を最初から同じ立場に置いていない。堂島は、そんな二人の不和まで含めて面白がっているように見える。

 机一つの上に、普段は交わらない線が無理やり重ねられていた。


 他の班も似たようなものだった。


 負け組・甲班では、黒沢が椅子に深く座り、長い脚を無遠慮に投げ出していた。

 同じ机の美苑は、背筋を伸ばしていても、膝の上で握った手だけが固く縮んでいる。

 白萩は相変わらず静かだったが、その静けさは落ち着きではなく、余計なものへ触れないための殻に閉じこもるように見えた。

 宮部は最初から視線を落としっぱなしで、黒沢と目が合わないようにしている。


 教室なら、その距離で黒沢の正面へ座ることはない。

 もっと遠くの席へ逃げる。

 逃げられないなら、なるべく存在を小さくする。

 最下位クラスの人間は、そうやって身の守り方だけは覚えてきた。


 愚か者班の机では、雫がほとんど背もたれを使えていなかった。

 鷹宮がいるだけで机の幅が狭く見える。体格のせいだけではない。腕を動かすたび、肩を鳴らすたび、こちらが少しずつ退くのを当然だと思っている人間の動き方だからだ。

 柏木は何か言いたげに口を開きかけては閉じ、成瀬は最初から誰の味方もしない顔を作っている。

 雫のような生徒は、普段なら“目立たない”ことで逃げてきた。堂島たちの視界へ入りすぎず、笑いに加わらず、でも反発もしすぎない。

 その生き方そのものが今、問題にされようとしているのだと、悠人にはもう分かりかけていた。


 食堂全体を見渡すと、それぞれの机に、普段の学校生活では絶対に同じ場所へ座らない人間たちが押し込められていた。

 堂島と由良。

 黒沢と美苑。

 鷹宮と雫。

 九条と戸川。

 嫌いな相手、怖い相手、見下している相手、見下されている相手。

 その全部が、班という言葉ひとつで同じ机へ縫いとめられている。


 純美子の声が落ちた。


「各班の対象者に対する質問は、すでに決定しています」


 スクリーンへ新しい文字が映る。

 白い背景。

 黒い文字。

 余計な飾りのない表示だけに、そこへ並ぶ日本語の悪さがむしろ際立った。


 勝ち組・甲班

 対象者:水城悠人

 質問:あなたは、なぜ正しいと思ったことを最後まで貫けないのですか


 悠人は、その一行を見た瞬間、自分の喉が小さく鳴るのを聞いた。


 だがスクリーンは悠人のところで止まらない。


 勝ち組・乙班

 対象者:神宮寺太陽

 質問:あなたは、なぜ自分の話術の良さを人を傷つけるために使うのですか


「ちょっと待って」

 別の机から神宮寺の声が飛ぶ。

「質問っていうか決めつけじゃん」


 さらに文字が切り替わる。


 負け組・甲班

 対象者:黒沢櫂

 質問:あなたは、なぜ怒りや退屈を他人の身体で発散するのですか


 そこで、食堂のあちこちがわずかに引いた。

 黒沢自身より先に、周囲の方がその問いの意味を理解してしまったからだ。


「……は?」

 黒沢が椅子を鳴らして立ち上がる。

「喧嘩売ってんのか」


 美苑の肩がびくりと揺れた。

 宮部は顔を上げない。

 白萩だけが静かに黒沢を見ていた。


 次の問い。


 負け組・乙班

 対象者:九条湊

 質問:あなたは、なぜ人を嘲る時だけよく喋るのですか


「いや、待って待って」

 湊が笑う。

 笑うが、声が細い。

「悪口じゃん。これ質問じゃないでしょ」


 食堂のざわめきが、そこで少し低くなった。

 スクリーンは続く。


 生き残り班・甲班

 対象者:神代健吾

 質問:あなたは、なぜ落ちていく自分を立て直さなかったのですか


 生き残り班・乙班

 対象者:一之瀬朋

 質問:あなたは、なぜ自分で手を汚さずに空気だけで人を傷つけるのですか


 愚か者班・甲班

 対象者:京極雫

 質問:あなたは、なぜ怖いという理由だけでずっと黙っているのですか


 雫がそこで、目に見えて息を止めた。

 鷹宮が隣で「はあ?」と顔をしかめる。

 成瀬は雫ではなく、スクリーンだけを見ていた。

 雫に寄り添う気はない。でも、自分の方へ責任が流れてくるのも嫌だ。そういう薄い保身が、表情にそのまま浮いている。


 愚か者班・乙班

 対象者:宝泉蘭

 質問:あなたは、なぜ誰かの影にいないと安心できないのですか


 余物班

 対象者:牧瀬朔夜

 質問:あなたは、なぜ損得でしか人を見ないのですか


 最後まで映し終わった頃には、食堂の空気は完全に変わっていた。


 最初の反発は、大人たちへの苛立ちだった。

 言い方が悪い。

 人間って何だ。

 班名がふざけている。

 そういう反抗。

 けれど今は違う。

 班の中へ、もっと直接的な敵意が生まれ始めている。


 なぜなら、答えられなければ班ごと食事制限だからだ。


 由良が机へ身を乗り出す。

「ちょっと待って。じゃあ悠人が答えられなかったら、うちらも巻き添えってこと?」

「そのように案内しました」

 純美子が静かに言う。


「うわ、ほんとに最低」

 由良は吐き捨てるが、その直後、もう悠人へ向き直っていた。

「で、どうなの。心当たりある?」


 その切り替えに、悠人は返事が遅れた。

 由良が冷たいわけではない。

 ただ食事がかかっている。

 班がかかっている。

 こうなるように仕組まれている。


 他の机でも同じだった。


 負け組・甲班では、美苑が明らかに黒沢を見られずにいた。

 だが、見ないままではいられない。


 答えられなければ班ごと食事制限。

 その仕組みがある以上、美苑は黒沢から目を逸らしたままでは済まなかった。

 唇が一度だけ乾いたみたいに開いて、それから細い声が落ちる。


「……何か、言った方がいいんじゃない?」


 言った瞬間、自分でも遅すぎたと思ったのだろう。

 美苑の肩がきゅっと縮む。

 けれど、もう遅い。


「は?」


 黒沢が顔を上げた。

 声は大きくない。

 大きくないのに、その一音だけで机の空気が固まる。


「俺に言ってんの?」


「ち、違……違うっていうか、その……」


 美苑が言い終える前に、黒沢の手が伸びた。


 髪だった。


 机越しに身を乗り出し、美苑の横髪を根元から掴んで、強引に自分の方へ引く。椅子の脚が床を擦り、甲高い音が食堂に走った。

 美苑の喉から短い悲鳴が漏れる。


「黒沢!」

 宮部が思わず声を上げる。


 だが黒沢はそちらを見ない。

 髪を掴んだまま、美苑の顔だけを無理やり自分へ向けさせる。


「俺に言ってんのかって訊いてんだけど」


 近い。

 近すぎて、黒沢の吐く息がそのまま美苑の頬へかかる。

 怒鳴ってはいない。けれど、怒鳴らないせいで余計に逃げ場がない。


「や……離して……」

「答えろよ」


 ぐっと、もう一度引く。

 美苑の首が傾き、整えていた髪が一気に崩れた。目尻に涙が浮く。

 教室でも、こういうふうに誰かを黙らせてきたのだろう。そう思わせる手つきだった。力加減を知らないのではなく、知ったうえで嫌がる強さを選んでいる。


 白萩は動かなかった。

 いや、動けなかったのかもしれない。

 宮部も、半分だけ腰を浮かせて、そのまま止まる。

 班ごと罰を受けると言われているのに、黒沢に触れて止める方がもっと怖い。そういう硬直が、机の上にそのまま乗っていた。


 そこへ、榊原の声が落ちる。


「席についてください」


 大きな声ではない。

 だが、黒沢はそこでようやく舌打ちし、美苑の髪を放した。


 美苑は反動で椅子へ背中を打ちつけ、小さく息を呑んだ。

 黒沢は何事もなかったみたいに椅子へ座り直す。


「最初から、そういう言い方しろよ」


 言い方が悪いのは、自分ではなく相手だとでも言いたげだった。

 美苑は答えない。答えられない。髪を押さえたまま、目だけを伏せる。

 その震えが止まらないのを見ても、黒沢は一度もそちらを見なかった。


 負け組・甲班の机の空気は、そこで完全に黒沢のものになった。

 普段の教室でもそうだ。堂島が空気を決め、黒沢が目の前の人間に痛みを与えて黙らせる。

 堂島が自分で手を下す前に、黒沢が先に荒らす。

 その図式が、食堂の机の上へそのまま持ち込まれていた。


 勝ち組・甲班の堂島は、そういう騒ぎを横目で見ても動かなかった。

 止める気も、加勢する気もない。

 ただ、目だけが一度そちらへ向き、すぐに戻る。

 静かだ。

 静かすぎて、逆に分かる。

 あれは温厚なのではなく、自分が苛立つ前に周囲が勝手に癪に振れない態度に変わることを知っている人間の静けさだ。


 教室でも、堂島が本気で声を荒げる場面は少ない。だが一度機嫌を損ねると、机を蹴る。椅子を弾き飛ばす。教室を出る時にドアを足で鳴らす。そういう大きな音だけを残して去る。


 その前段階を、たいてい黒沢が引き受けている。

 だからみんな、堂島本人より先に、黒沢の腕と視線を警戒する。


 負け組・乙班では、別の種類の嫌さが広がっていた。


 九条はまだ笑おうとしている。

 笑って、軽口にして、場をやり過ごそうとする。

 それが九条のやり方だ。教室でも、誰かを馬鹿にする時はまず自分が笑う。大きな声で、軽く、みんなが乗りやすい形にして拡げる。深く考えず、反射で人を嘲る役。

 それに対して神宮寺は違う。

 あちらは声を張らない。笑いもしない。もっと理屈っぽい。安全圏に立ったまま、正しい言葉の形を借りて相手を切る。九条が火をつける役なら、神宮寺は燃え方を眺めながら「最初からそうなると思っていた」と言う側の人間だった。


 だから神宮寺への問いと、九条への問いは似ていても少し違う。


 九条は軽薄さを刺されている。

 神宮寺は悪意に知性の仮面をかぶせる癖を刺されている。


 その違いは、本人たちの顔にも出ていた。


 九条は「悪口じゃん」と騒ぐ。

 騒げるうちはまだ、軽さの中へ逃げ込める。

 だが神宮寺は違った。笑わない。ただ口元だけがわずかに引きつる。自分の“口の良さ”が、能力ではなく加害の道具として名指しされたことが、たぶん思った以上に効いている。


「で?」

 戸川が九条へ言う。

「何か言い返さないの」

「いや、別に……嘲ってるつもりとか……」

「ないわけないでしょ」


 戸川の言い方は冷たい。

 庇わないし、追い詰めることにも躊躇がない。

 だが戸川には黒沢みたいな暴力はない。その代わり、相手が逃げられない角度から、言葉だけを差し込んでくる。


 愚か者班・甲班では、もっと露骨だった。


「なんでこいつなんだよ」

 鷹宮が雫を見もせず吐き捨てる。

「終わってんじゃん」

「……私だって知らない」

 成瀬がすぐに言う。

「本人に訊いて」

 柏木は雫を見て、すぐに目を逸らした。


 普段の教室なら、雫はこういう時、ただそこにいないみたいにしてやり過ごしてきた。

 視界へ入らない。声を出さない。自分の輪郭を薄くして、堂島たちの笑いの中へ巻き込まれないようにする。

 だが今は、その生き方そのものが問いにされている。

 黙ってやり過ごしてきたこと。怖いから動かなかったこと。

 雫はもう、目立たないだけでは逃げられない。


 食堂全体が、じわじわと悪くなっていく。


 反抗の矛先は、もう大人へは向いていない。

 班の中へ落ち始めている。


 純美子は教卓の前で、その全部を見ていた。

 見守るのではなく、確かめるように。

 誰が一番先に班員を責めるのか。

 誰が沈黙するのか。

 誰が恐怖で縮み、誰が怒りで前へ出るのか。

 答えそのものより、その過程の方に興味があるようにしか見えない。


 そこで配膳台の蓋がひとつ開いた。


 澄んだスープの湯気が立つ。

 ローストビーフの肉汁が照る。

 焼きたてのクロワッサンの表面が薄く裂けて、バターの甘い香りが広がる。

 果物はどれも冷えていて、グラスの水滴が光っていた。


 修学旅行のパンフレットに載っていた写真より、ずっと鮮やかだった。

 鮮やかだからこそ意地が悪い。

 手を伸ばせば届きそうなのに、いまの自分たちにはまだ遠い。

 食欲は、人を黙らせる時より、むしろ本音を吐かせる時の方が効くのかもしれないと悠人は思った。


 由良が低く吐き捨てる。


「ほんと、趣味悪い」


 その言葉に、今度は悠人も頷けなかった。

 頷く前に、腹の奥の空腹が一段だけはっきりしたからだ。

 匂いは甘くて、温かくて、優しい。

 その優しさが、そのまま脅しになっている。


 スクリーンの端で、制限時間だけが静かに減っていく。

 班の空気は悪くなる。

 食べ物の匂いは濃くなる。


 食堂はもう、食べるための場所ではなかった。

 人がどこで仲間を見捨て、どこで自分を守るのかを、匂いと空腹で暴き出す場所に変わっていた。

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