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修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第3章

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6/10

1.


 三階の食堂は、講堂とも特別教室とも違う意味で広かった。


 昼の光を鈍く通す大きな窓。白い天板の長机がいくつも並び、その奥には、まだ蓋の閉じた配膳台が静かに並んでいる。匂いはある。温かいスープのようなもの、焼いたパンのようなもの、甘い果物のようなもの。けれど、それらはまだ遠い。

 食べ物の気配だけをぶら下げた部屋、という感じだった。

 生徒たちは班ごとに前から座らされる。

 食堂なのに、昼休みの空気がひとかけらもない。


 悠人は勝ち組・甲班の席へ腰を下ろした。

 右隣に由良、左斜め前に白峰、そのさらに向こうに堂島。

 同じ班だというのに、全員が違う方向を向いている。

 由良は机の端へメモ帳を置いたまま、指先だけで表紙を押さえていた。白峰は配膳台の方を見ている。料理の方か、それとも自分たちがどんなふうに座らされているかを確認しているのか、悠人には分からない。堂島は椅子へ浅く座り、片手で顎のあたりを触っていた。退屈そうにも見えるが、あの顔はたいてい、何かを面倒くさく測っている時のものだ。


「食堂で特別問題って、何」

 由良が小さく言う。

「食べながら答えろとか?」

「まだ食べさせる気はないんじゃない」

 悠人も声を抑えた。

「たぶん」


 たぶん。

 そう言った瞬間、口の中が少し乾く。

 昼の食堂へ呼ばれたのに、食事が主役ではない。そこがもう、すでに少しおかしかった。


 前方には簡易の演台が置かれ、その後ろの壁に小さなスクリーンが下りている。講堂ほど大げさではないが、十分に“見せる”ための配置だった。

 榊原は出入口のそばに立っている。

 新庄は配膳台の近く。

 伊吹の姿は見えない。

 それがかえって嫌だった。あの副担任は、見えていない時の方がどこかに潜んでいる気がする。


 やがて純美子が前へ立った。


 五階講堂で見た時ほどではない。けれど、教室の中にいた担任とももう違う。下ろした髪、唇の色、姿勢のまっすぐさ。たったそれだけのことで、人の印象は変わる。

 いや、違う。

 見た目が変わったからではなく、その見た目を支えているものが別物に見えるのだ。

 教室での純美子は、どこかいつも気配が薄かった。ここにいてもいいのか迷っている人の立ち方だった。

 今は違う。

 自分が前へ立つのは当然だと知っている人の立ち方をしている。


「これより、特別問題を行います」


 食堂の空気が、その一言で薄く張った。


 スクリーンへ文字が出る。


 10ポイント問題

 班ごとに対象者を選出します

 制限時間内に解答してください

 失格者が出た場合、班単位で食事制限を行います


「班単位?」

 誰かがはっきり声を上げた。

「は?」

「待って、それおかしいでしょ」

 今度は白峰まで顔をしかめる。

「本人じゃなくて班?」


「はい」

 純美子は答えた。

「班行動ですから」


 それは理屈のようでいて、理屈ではなかった。

 修学旅行だから班行動。班行動だから連帯責任。

 言葉だけを繋げると正しいように聞こえる。だが中身がほとんどない。

 それでも、言い切られると反論の出しどころが難しい。


「そんなの」

 由良が半歩だけ前へ出るように身を乗り出した。

「ただの巻き添えじゃん」


 純美子は由良を見る。

 やはり怒らない。

 怒らないまま、ただ静かに言う。


「巻き添えを避けたいなら、班の中で助け合ってください」


 その答えに、食堂の空気が少しだけ軋んだ。

 助け合え。

 けれど対象者は一人。

 答えられなければ班ごと沈む。

 最初から、班の中で誰か一人を支える形ではなく、誰か一人に答えさせる形になっている。


 それは“協力”ではない。

 責任の押しつけ先を、綺麗な言葉で包み直しただけだ。


 前の列で九条が声を立てて笑った。

「やば。じゃあ班ガチャじゃん」

「笑えねえよ」

 黒沢が低く言う。

「つか、それだったら最初からそう言えよ」


 榊原が少しだけ顔を上げる。

 注意はしない。

 しないくせに、その一動作だけで、食堂の数人が口を閉じた。

 いかにも“人気のある先生”らしい豪快さは、もうどこにも見えない。長い身体でただ立っているだけなのに、言葉を先に止める圧がある。


 スクリーンの文字が切り替わった。


 対象者は指名されます


「は?」

 今度はもっと大きく波立つ。

「自分で決めるんじゃねえの?」

「勝手に?」

「ふざけんなって」


 その反発の中で、純美子は一枚の紙を手元へ引き寄せた。

 名簿だと、すぐに分かった。

 そこに名前がある。

 その事実だけで、食堂の空気は急に生々しくなる。問題ではなく、自分たちの身体へ繋がってしまうからだ。


「では、最初の対象者を指名します」


 その瞬間、さっきまで不満を口にしていた声が、目に見えて減った。


 悠人は、自分の喉が小さく鳴るのを聞いた。

 嫌な静けさだった。

 教室で先生に当てられる時の静けさではない。もっと露骨に、人の胃を冷やす静けさだった。


「勝ち組・甲班」


 その班名が呼ばれた瞬間、由良が小さく舌打ちした。

 白峰は頬杖を解き、堂島はようやく姿勢を少しだけ起こす。

 悠人は、自分の膝の上の手を無意識に握っていた。


「対象者は――」


 ほんの短い間。

 たったそれだけの空白なのに、誰かが名を呼ばれる前の時間は、妙に長かった。


水城悠人(みずしろ ゆうと)


 心臓が、あとから遅れて縮んだ。


 由良がすぐ横で「は?」と声を漏らす。

 白峰は視線だけをこちらへ寄越した。興味と、少しだけ安堵が混じっている。自分じゃなくてよかった、という安堵。堂島は何も言わない。ただ、悠人を見た。人を見る目ではなく、これから舞台へ出される駒を確認するみたいな目だった。


「前へ」


 純美子の声は静かだった。

 静かなのに、断りようがない。


 悠人は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、自分のものだけ妙に大きく聞こえる。

 視線が集まる。

 勝ち組・甲班の視線だけではない。ほかの班の生徒たちまで、こちらを見ている。

 みんな、見ていた。

 自分が呼ばれなくてよかった、という顔で見ている者もいれば、どんな問題が出るのかを面白がる目もある。逆に、こちらが何を問われるのかを想像して青ざめている顔もあった。


 演台の前へ立つ。

 そこから見る食堂は、さっき座っていた時よりずっと広く見えた。広いくせに、逃げ場はない。椅子と机と人の顔が、正面から一気に押し寄せてくる。


 純美子は名簿を伏せた。

 そして悠人を見た。

 可哀想な先生だと思っていた人の目では、もうなかった。


「質問します」


 その声は、食堂という場所に似合わないほど冷たかった。


「あなたは、なぜ正しいと思ったことを最後まで貫けないのですか」


 息が、一瞬だけ止まった。


 問いの意味が、すぐには入ってこない。

 正しいと思ったこと。

 最後まで貫けない。

 責められているのだと分かるまでに、ほんのわずかな遅れがあった。

 その遅れが恥ずかしかった。


「制限時間は一時間です」

 純美子が言う。

「その間、班員は助言して構いません。ただし、解答は対象者本人の言葉で行ってください」


「いや、ちょっと待って」

 由良が立ち上がる。

「意味分かんない。そんなの答えなんてあるわけ――」

「あります」

 純美子は遮った。

「本人の中に」


 由良が黙る。

 怒りでではなく、ぴしゃりと落ちてきた何かに一瞬だけ押し返されたみたいに。

 そのやり取りを見て、食堂の空気がまた一段、薄くなった。


「それでは開始してください」


 開始。

 クイズなのに、その言葉だけで急に尋問みたいになる。


 悠人は席へ戻された。

 戻されて、由良と白峰と堂島と、同じ机へ着く。

 同じ班。

 同じ問い。

 なのに、同じ方向を向ける気がしない。


「なにそれ」

 由良が低く言った。

「意味不明なんだけど」

「意味は分かるでしょ」

 白峰が淡々と言う。口調は軽いが、助ける気はない。

「要するに“偽善者っぽいこと言うくせに最後までやれないよね”ってことでしょ」

「言い方」

 由良が睨む。


 堂島は黙ったままだった。

 ただ、頬杖をつくでもなく、机に手を置いてこちらを見ている。

 班員として心配している顔ではない。

 その問いにどう答える人間なのかを測る目だった。


「……心当たり、ある?」

 由良が訊いた。


 ある。

 と悠人は思った。

 思った瞬間、言葉にしたくなくなった。


 たとえば、教室で誰かが笑われていても、完全には止めきれなかったこと。

 自分が正しいと思う側に立ちたいくせに、最後の一歩だけは出せなかったこと。

 委員長だから、奨学生だから、真面目な側だから。そういう顔はしてきたのに、結局自分の無事まで捨てて立てたことはほとんどない。


 その曖昧な自己認識を、こんなふうに真正面から名前のない言葉で突かれると、逃げ道だけが先に消えていく。


「……分かんない」

 悠人はようやく言った。

「分かんない、っていうか……」

「それ、今ここで言ったら終わりじゃない?」

 白峰が言う。

「答えになってないし」


「うるさい」

 由良がすぐに返す。

「じゃああんたが代わりに答えんの?」

「対象者本人って言ったじゃん」


 班の中に、もう小さな割れ目が入っていた。

 助け合えと言われたのに、実際に始まるのは責任の押し合いだ。誰もがその構造に気づいているのに、気づいているからこそ逃げられない。


 ほかの班でも、同じようなざわめきが起きていた。

 誰が対象なのかはまだ他には聞こえない。だが、あちこちで声の調子だけが変わっていく。

 静かだった食堂が、じわじわと悪くなっていく。


 配膳台の向こうからは、まだ食べ物の匂いがした。

 スープの湯気も、焼いた肉の匂いも、甘い果物の匂いも、ちゃんとある。

 あるのに、それは昼食の気配ではなく、正解すれば与えられるもの、失格すれば遠ざかるものの匂いに変わっていた。


 悠人は、机の端を指先で押さえた。

 冷たい。

 答えなければ、この班の食事が変わる。

 自分のせいで。

 そう思った瞬間、問いの重さが一段変わる。


 由良が、メモ帳を開いた。

 さっきまでの問題番号や式の代わりに、今度は短い言葉を書き始める。


 正しいと思ったこと

 最後まで貫けない

 怖い?

 面倒?

 自分が可愛い?


「どれ」

 由良が言う。

「どこが一番近い」


 悠人はその文字を見下ろした。

 全部、近い気がした。

 全部、少しずつ違う気もした。

 そしてその曖昧さこそが、自分の一番嫌なところなのだと気づきかける。


 堂島が、そこで初めて口を開いた。


「別に」

 低い声だった。

「正しいことなんて、最後までやる価値がないってだけじゃね?」


 由良が顔を上げる。

「は?」

「そういう奴いるじゃん」

 堂島は肩をすくめる。

「途中までは正論言うけど、結局そこまでして守りたいわけじゃねぇし。だったら最初から、その程度なんだろ」


 その言葉に、悠人の胸のどこかがざらりと削れた。


 たぶん、堂島は助けるつもりで言っていない。

 ただ、目の前の問いを面白がって、より羞恥心を煽るように言い換えただけだ。

 それが分かるから余計に腹が立つ。

 腹が立つのに、完全には否定しきれない。


 純美子は教卓の前で、その様子を見ていた。

 見守る、というより、観察しているように。

 悠人はそこで初めて、この特別問題は“答え”そのものより、答えるまでの崩れ方を見られているのではないかと思った。


 制限時間の数字だけが、スクリーンの隅で静かに減っていく。

 昼食の匂いはまだある。

 なのに誰一人、腹のことなど考えていない。


 食堂はいつのまにか、食べる場所ではなくなっていた。

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