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修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第二章

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5/10

2.


 ざわめきは、すぐには止まらなかった。


 勝ち組。負け組。生き残り班。愚か者班。余物班。

 いったん頭の中へ入ってしまった言葉は、耳の奥に薄く貼りついて剥がれない。舞台の上では純美子が次の説明へ移ろうとしているのに、客席のあちこちではまだ、自分の班名を噛みしめるみたいな小声が残っていた。


「勝ち組には、本日限定の支給品を認めます」


 その一言で、空気がまた少し動く。


 舞台袖から新庄と榊原が浅いワゴンを押してきた。上に並んでいたのは、いかにも学校らしい、けれど今この場に出されると妙に意味深に見えるものばかりだった。折りたたまれた簡易地図。小型のタイマー。黒い表紙のメモ帳。短い鉛筆と消しゴムのセット。色分けされた付箋。薄い透明ケースに入った方位磁針。

 どれも高価なものではない。むしろ安っぽい。

 それなのに、景品写真よりよほど現実味があるせいで、ここから先に必要なのはこういうものなのだと、先に告げられた気がした。


 スクリーンに、無機質な白文字が浮かぶ。


 勝ち組:一班につき二点まで支給

 負け組:一班につき一点まで支給

 生き残り班・愚か者班・余物班:支給なし

 夜間プログラム開始前に回収します


「は?」

 九条が声を上げた。

「露骨すぎでしょ」

「だから勝ち組なんでしょ」

 白峰は肘掛けへ頬杖をついたまま、あっさり言った。

 その横で由良が小さく舌打ちする。


 堂島は背もたれへ深くもたれたまま、舞台のワゴンを見ていた。目だけが動く。面白がる時の顔ではない。損得を測る時の顔だった。


「ずいぶん細かいんだね」

 誰かが言う。

「修学旅行っていうか、まじで勉強合宿じゃん」

「勝ってまで欲しい物でもないし」

 そう漏らしたのは負け組の方角だった。強がりなのは見れば分かる。持てるものと持てないものが最初から決められると、人はたいてい、いらないふりから始める。


 純美子は、その反応を待っていたわけでも、楽しんでいるわけでもなさそうだった。

 ただ、全部最初から決まっていることを一つずつ読み上げる調子で言う。


「勝ち組は、前へ。負け組は、そのあとに。必要だと思うものを選んでください。使用可能区域の簡易地図は人気が高いと思われますが、こちらから推奨はしません」


 推奨はしない。

 そう言われた瞬間、逆に地図の価値が跳ね上がったのが分かった。


「行く」

 由良が立ち上がる。

「水城、地図取るよ」

「うん」

「あと、メモ帳かな。おまえ、字きれいそうだし」

「その決め方なの?」

「他に基準ある?」


 勝ち組・甲班の四人は、客席から立ち上がって舞台前へ降りた。

 白峰は歩き方まで崩れない。階段を降りるだけで、場数のあるモデルみたいな目立ち方をする。堂島はポケットへ片手を入れたまま、だらしないくらい気怠そうに見えるのに、前へ出るとひどく絵になる。こういう人間がカーストの上に立つのだろうと、悠人はいやでも思わされる。

 美しさや金の匂いや、教室で教師を小さくしてしまう図太さは、学力と無関係に人を従わせる。


 由良は、そういう二人を露骨に見ないようにしていた。


 舞台前で支給品を選ぶ時間は短かった。

 堂島は地図ではなくタイマーへ指を伸ばしかけ、それを途中で引っ込めた。結局、地図とメモ帳を由良が選ぶことになる。堂島はそれに口を出さなかった。

 役に立つものが何かは分かっている。けれど、自分から率先して選ぶほど熱心に見られたくはない。そういう微妙な見栄が、その沈黙にはあった。


 負け組には一点だけ。

 黒沢のいる班は地図を取った。九条の班も迷わず地図だった。

 それを見送ることしかできない生き残り班や愚か者班の生徒の顔は、思ったより露骨だった。たかが紙切れ一枚なのに、持てる側と持てない側に分けられると、人は急に貧しく見える。


「じゃあ、こっから差つける気満々なんだ」

 坂井が低く言う。

「初日から」

 誰へ向けた言葉でもない。

 けれど、伊吹だけがその呟きを聞いたみたいに、一度だけ顔を上げた。


「では、移動します」


 榊原の声はよく通った。いつもの授業なら、それだけで頼もしさになる声だ。

 今は違う。

 人を急がせる声だった。


 班ごとに分けられ、生徒たちは講堂を出る。五階の冷えた空気から廊下へ出ると、わずかに人の体温が混じっただけで、校舎の内側が息苦しく感じられた。

 先頭を新庄が歩き、後ろに榊原がつく。真ん中に班。伊吹はどこにもいないと思ったら、いつの間にか列の脇の壁際に立っていて、生徒の流れを淡々と見ていた。

 あの人だけは、いるのかいないのか分からない。分からないくせに、視界から消えると少し嫌だった。


 最初の会場は四階の理科室だった。


 窓はやはり白く塞がれ、光だけが鈍く滲んで入ってくる。実験台の黒い天板は冷たく、並んだ椅子は足音ひとつで硬く鳴る。学校らしい部屋のはずなのに、学校の温度がない。

 黒板の前にはスクリーン。教卓の代わりに、問題用紙の束。

 修学旅行のイベントにしては、あまりにも授業だった。


「一ポイント問題を開始します」


 純美子の声が、今度は教室サイズの空間に落ちる。講堂より近い。近いせいで、逃げ場がない。


 一問目は英語の基礎問題だった。

 教科書をちゃんと読んでいれば分かる。二問目は数学。これも難しくない。

 真面目に授業を受けてきた生徒なら、ほとんど迷わないはずの問題だった。


 その“ほとんど迷わない”が、教室の中をあっさり二つに分けた。


 すぐに鉛筆を走らせる手。

 何も書けず、視線だけが泳ぐ顔。

 たった数分で、誰が授業を聞いていて、誰が聞いていなかったのかが、机の上にそのまま浮いてくる。


 悠人は問題を解きながら、妙な息苦しさを感じていた。

 解ける。

 解けるのに、安心できない。

 答えればいいだけのはずなのに、答えを書いている自分の手元まで誰かに見られている気がする。実際、見られているのだろう。前にも後ろにも、壁際にも大人が立っている。


 由良は早かった。

 堂島は、解けているのかいないのか分からない顔で最後までペンを動かさず、終了の一分前になってから急に書き始めた。

 白峰は一問目を早々に終えて二問目の紙を伏せ、その空いた時間で指先のささくれを気にしていた。勉強への緊張ではなく、退屈への苛立ちだと分かる。


 採点はその場で行われた。

 正答者の名前が班ごとに読み上げられる。

 不正解者の名前は読み上げられない。けれど、読まれなかったという事実だけで十分だった。


「最下位クラスなのに、意外と取れるんだ」

 天津が後ろで笑う。

「一ポイントだし」

「逆に落とす方がやばいだろ」


 その軽口に、教室のどこかで空気が尖る。

 問題児の集まりであっても、全員が同じ種類の愚かさをしているわけではない。授業だけは真面目に受けている者、勉強では踏みとどまっていた者、奨学金を維持するために必死に食らいついてきた者。

 一ポイント問題は、その最後の薄い皮だけを剥いだ。


 続く三ポイント問題は、露骨に時間が長かった。

 考えれば分かる。けれど、授業を受け流してきた人間には急に足場がなくなる程度の難しさ。

 問題文を読んだ瞬間、教室の空気がまた変わる。

 さっきまで鼻で笑っていた生徒が黙り、答えの見当がつかない者から順に、椅子へ座る姿勢が浅くなる。


 班で相談してもいい。

 ただし解答は各自。

 そのルールもいやだった。

 助け合っていいようで、最後は一人に戻される。


「地図、役立つ?」

 由良が小声で言う。

「まだ分かんない。今回はただの授業問題だし」

「だよね」

 そう言いながら由良はメモ帳へ何かを書きつけた。問題番号、式、教室名。そういう細かいものだ。

 きっと、こういう人間が生き残るのだろうと思う。目立つ強さではなく、後で役立つ形で蓄えていく人間。


 問題の途中で、九条が露骨に舌打ちした。

 黒沢は鉛筆を机へ投げるように置き、腕を組んで天井を見ている。

 堂島は無表情のまま、最後の最後でだけ答えを書く。

 ああいう書き方が癖なのか、余裕を見せたいだけなのか、悠人にはまだ分からなかった。


 解答時間が終わると、用紙はすぐ回収された。

 その早さも嫌だった。考え直す時間を与えない早さだ。

 新庄が束を受け取り、榊原が次の教室への移動を告げる。

 理科室の次は外国語教室、その次は美術室。

 どこへ行ってもやることは似ているのに、移動させられるたび、生徒たちの気分は細かく削られていく。


 外国語教室では、窓の白さがもっと近かった。

 外が見えない。

 見えないくせに昼の明るさだけは分かる。

 それが落ち着かなかった。


 美術室では石膏像の白い顔が並んでいて、何人かの生徒は問題よりそちらの方を気にした。教室の端で半端な角度に置かれた首像が、みんな同じ方向を見ているみたいだった。

 たぶん気のせいだ。

 気のせいだと思う。

 けれど、そう思ったこと自体が少し嫌だった。


 一ポイント、三ポイント。

 問題はどれも“ちゃんとしていれば分かる”範囲から出ない。

 だから救いでもあるし、残酷でもあった。

 分からない人間は、能力より先に、これまでちゃんとしてこなかった自分を突きつけられる。


 昼前が近づく頃には、講堂でじゃんけんをした時とは別の種類の疲れが、教室の中に沈んでいた。まだ誰も本格的に追い詰められてはいない。それなのに、空気だけがじわじわ悪くなっていく。

 最下位クラスという括りの中で、さらに“取れる者”と“取れない者”がはっきりし始めたからだ。


 そこへ、純美子が静かな声で告げた。


「これより、特別問題へ移ります」


 特別問題。

 その言い方だけで、何人かの顔が上がる。


「会場は食堂です。移動してください。班ごとに前から」


 班ごと。

 その一言で、また胸の奥に冷たいものが落ちた。


 由良がメモ帳を閉じる。

 白峰は初めて少しだけ、退屈そうな顔をやめた。

 堂島は椅子から腰を上げるのが遅い。遅いくせに、立ち上がる時だけ妙に静かだった。


 教室を出る列の中で、悠人はようやく気づく。

 この午前中のクイズは、たぶんただの準備だった。

 解けるか、解けないか。

 聞いていたか、聞いていなかったか。

 そういう表面を、先に一度だけ整然と並べただけだ。


 その先に何が来るのかまでは分からない。

 分からないのに、食堂へ向かう足だけが少しずつ重くなっていく。


 階段を降りる途中、誰かが小さく言った。


「……なんか、やだな」


 その声に、誰も返事をしなかった。

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