3
講堂は、思っていたよりずっと大きかった。
五階の奥にあるだけの空間なのに、そこだけ校舎の内側から切り離されているみたいに広い。前方には舞台、左右には緩やかな階段、見上げれば二階席まである。赤みを帯びた座席が段々に並び、その数だけで七百を超えているのだと、内部進学生の誰かが小声で言った。
三十六人しかいない自分たちが前方の数列へ押し込まれると、かえって空席の多さが目につく。
空いている席は静かにそこにある、誰も座っていないだけで人のいる場所を狭く見せた。
副担任に促され、生徒たちは舞台前方の席へ固めて座らされた。
後ろはいくらでも空いているのに、前へ、前へ、と押される。そのこと自体が少しだけ居心地を悪くする。逃げようとしても、逃げる方向が舞台の方角しかないみたいだった。
「……広」
九条が小さく漏らした。
「体育館よりでかくない?」
「全校集会でも使うし」
誰かが答える。
「だからって前すぎだろ」
「顔見せたいんじゃないの」
白峰がさらりと言った。笑ってはいない。ただ退屈しのぎに言ってみただけ、という顔だった。
講堂の空気は冷えていた。空調の冷たさではなく、朝から人の熱が入っていない場所の冷え方だった。舞台の黒い床は光だけを冷たく弾き、奥に垂れた緞帳は重たそうに沈んでいる。
誰かが咳払いをすると、それが少し遅れて壁に触れ、講堂のどこか高いところで小さく消えていく。
笑い声も、囁きも、全部が薄く伸びる。教室より静かで、教室より聞こえやすい。
荷物を足元へ置く音が止みきらないうちに、左右の通路へ副担任たちが散った。
中央通路の右側には榊原雄介。
背が高い。細く見えるのに、肩と腕には無駄のない筋肉がついていて、水泳の授業で見かけるとやけに絵になる教師だった。
いつもは豪快で、何でも前向きに片づける人として生徒人気もある。だが今は笑っていない。その長い身体で通路に立たれるだけで、そこが通路ではなく壁の一部みたいに見えた。
反対側には新庄泉。
体育教師のような体格で、明るく、相談にもよく乗ってくれる人だった。廊下ですれ違えば誰かしらが声をかける。そういう副担任だ。けれど講堂の入り口脇へ立った今の新庄は、朗らかという言葉からきれいに水気を抜いたみたいな顔をしていた。目元ひとつ動かさず、腕も組まず、ただそこにいるだけなのに圧がある。
壁際には伊吹幸大。
この人は元から少し変わっていた。いつもぼんやりしていて、授業中も会話の途中も、何か別のことを考えているような顔をする。
無口なのに時々、妙におかしなことを言うので、天然だとか変人だとか親しまれている。
今も表情はほとんど変わらない。ただ、何を見ているのか分からない目で客席をゆっくり眺めている。その視線だけが、何も興味がない様で気味が悪かった。
舞台の袖から足音がした。
それほど大きな音ではなかった。
けれど、客席のざわめきはその時すでに、薄い膜一枚ぶんだけ緊張していたのだと思う。何人かがほとんど同時に口を閉じた。
舞台へ出てきたのは、担任だった。
いや――姿を見た瞬間、何人かはそう思えなかったかもしれない。
髪が下ろされていた。あのきつくまとめた黒髪が、肩口でゆるく波打っている。眼鏡はなく、唇には行きのバスで見たよりはっきりと色がのっていた。制服でもジャージでもなく、落ち着いた色の服なのに、いつもの地味な輪郭が消えている。
舞台の照明に当たるたび、その顔立ちがやけにくっきり見えた。
今日だけ本気出してる。
そう茶化したくなるくらいには、見慣れた担任と印象が違った。
「……うわ」
九条が、今度は笑いを含ませずに言った。
「なに、地味子」
後ろの方でいくつか短い笑いが起こる。
だがそれは、教室でいつも響くような軽い笑いではなかった。少し遅れ、少し乾いている。笑っておけば平気だと思いたい時の音に近い。
担任――純美子は、舞台の中央で足を止めた。
そのまま客席を見る。
悠人はそれを見て、少しだけ驚いた。
この人は、こんなふうに真正面から生徒を見ることができたのかと思ったからだ。
教室の中の純美子は、ずっと気弱で、暗くて、可哀想な先生だった。叱る声も弱い。
言い返されれば引いてしまう。あだ名で呼ばれても、聞こえないふりをしてやり過ごす。いじめられている、とまで考えたことはなかったが、少なくともこのクラスでは、生徒より下に置かれている人に見えていた。
だから悠人は今、舞台の上に立っている彼女を見ても、まだ怖いとは言い切れなかった。
ただ、見慣れたものと違う――その違和感だけが、喉の奥へ冷たく残った。
「ようこそ」
声が講堂に広がった。
怒鳴っているわけでも、張り上げているわけでもない。それでも二階席の端まで届きそうな声だった。細いのに、妙に通る。
その声だけで、客席のざわめきが自然に薄まっていく。
「改めて、今回の修学旅行についてご案内します」
舞台袖で伊吹がリモコンを押し、スクリーンへ光が落ちた。
バスで配られたパンフレットと同じ意匠のスライド。学園の中庭、講堂の正面階段、食堂の一角。見知った景色の上に、金色の文字が並ぶ。
旧校舎貸切。
朝夕ビュッフェ。
景品交換制。
クイズ大会。
それだけ見れば、やはり楽しそうに見える。
少なくとも、修学旅行という言葉から完全に外れてはいない。だからこそ厄介だった。
「この五日間は、特別修学旅行プログラムとして進行します。午前と午後にクイズ大会を行い、難易度ごとにポイントが設定されます。獲得したポイントは、食事内容、景品交換、夜間プログラムでの利用に反映されます」
ざわつきが起きる。
食事内容。
その単語だけが、楽しげな紙面から少しはみ出して聞こえた。
「なお、昼食については獲得ポイントと失格の有無で内容が変わります。朝食、夕食も同様です」
「は?」
黒沢が、今度は隠しもせずに声を出した。
「食事まで点数で決めんの?」
純美子はその方を見た。怒りは見せない。
ただ、視線だけを置く。
「はい」
あっさり答える。
「効率がいいので」
その返事に、客席の空気が少しだけ動いた。
効率。
修学旅行の説明で聞きたくない種類の言葉だった。
「なんだよ、それ」
九条が笑った。
「修学旅行っていうか、ほぼ合宿じゃん」
今度の笑いは、さっきより少しだけ戻っていた。
まだみんな、本気では不穏が分かっていない。クイズに答えてポイントを稼げばいいだけ、ビュッフェも景品もある、少し変わった修学旅行か、せいぜい感じの悪い勉強合宿くらいにしか思っていない。
実際、悠人自身もそうだった。
食事まで点数で振り分けるのは嫌だ。いかにもこの学園がやりそうな嫌味っぽさもある。
けれど、クイズに正解すればいいだけなら、まだ理屈は通る。
楽しさと面倒くささが、ちょうど半分ずつ混ざったまま、どちらにも傾ききらない。
純美子は客席をゆっくり見渡した。
その視線の動きが静かすぎて、逆に目立つ。
伊吹がまたスクリーンを切り替える。
班分けについて
失格者への対応
夜間プログラム:カジノ形式の自由参加ゲーム
客席がざわついた。
「カジノ?」
「は、マジ?」
「自由参加って、何賭けんの」
結花はそこでようやく、面白がるように笑った。目元が先にゆるみ、少し遅れて口角が上がる。
「それはさすがに退屈しなそう」
その一言で、空気がまた少しだけ明るくなる。
景品、高級ビュッフェ、夜のゲーム。
そういう言葉はやっぱり強い。
窓が塞がれていようが、廊下が途中で終わっていようが、楽しそうな単語が並ぶだけで、人は簡単にそちらへ目を向けてしまう。
純美子はその反応を見ても、特に満足そうにはしなかった。ただ、予定通りに説明を進める人の顔で次の頁へ移るだけだった。
「なお、プログラム期間中、校舎外への移動は認めません。使用可能区域も指定されています。案内に従ってください」
今度のざわめきは、はっきり不満の色を持っていた。
「いや待って」
「外出らんないの?」
「貸切ってそういう意味?」
「それ、修学旅行か?」
飛び交う声を、純美子はすぐには受けなかった。
少しだけ間が空く。
そのせいで、散った質問の音が自分で萎んでいく。
「安全確保のためです」
淡々とした答え。
それ以上でも以下でもない。
納得できるほど丁寧ではないのに、そこから先を聞き返しづらい返し方だった。
悠人はそこでようやく、出入り口脇に立つ副担任たちを見た。
榊原雄介は、通路へ長い影を落としたまま微動だにしていない。水泳の授業中に見た時は、太陽の下がよく似合う人だった。豪快で、前向きで、多少のことなら笑って流す。そういう印象が強い。
なのに今は、その長身と薄い筋肉が、やけに無機質に見える。人が立っているというより、そこに立つ役割だけが置かれているようだった。
新庄泉も同じだった。相談すれば聞いてくれる、何かあればすぐ動いてくれる、そういう親しみやすい副担任だったはずなのに、今の彼は妙に静かだ。声をかけても返してくれそうにない静けさだった。
朗らかさが消えるだけで、こんなにも威圧感になるのかと悠人は妙なところで感心してしまう。
壁際の伊吹幸大だけは、最初からあまり変わって見えなかった。ぼんやりしているようで、何かだけは見落としていない目をしている。講堂の光の届きにくいところに立たれると、その薄い存在感がかえって目についた。
広いはずの講堂が、急に狭く見えた。
理由は分からない。
ただ、出入り口の近くに立つ三人の身体が、扉の前に打ち込まれた杭みたいに見えた。
「では、これより班分けを行います」
純美子がそう言って、舞台袖に視線をやった。
榊原が一歩前へ出る。新庄も通路へ入る。伊吹は相変わらず壁際のまま、少しだけ口元を動かした。笑ったようにも見えたが、確信は持てなかった。
悠人はその時、自分の背中に薄く汗がにじんでいるのを知った。講堂は冷えているのに、シャツが少しだけ張りつく。
前の列で、京極雫がまた袖口を触っていた。
白峰は頬杖をつき、興味を失ってはいないが退屈もし始めたような顔で舞台を見ている。
晴は深く背もたれへもたれていた。脚は投げ出さず、片肘だけを肘掛けに置いている。姿勢は崩れているのに、目だけが静かだった。ああいう時の晴は、何かを面白がる前より、何かを測っている時に近い。
悠人は、舞台の上の純美子から目を逸らせなかった。
怖い、と言い切るにはまだ早い。
けれど、あの人はただ可哀想な先生ではないのかもしれない、と初めて思った。
その考えが胸の奥に落ちた瞬間、講堂の冷たさが少しだけ深くなった気がした。




