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修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第1章

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2/10

2.



 山へ入ってから、時間の流れ方が少しずつ変わった。


 最初のうちは、まだ車内に修学旅行らしい浮つきが残っていた。

 スマートフォンをいじる音。景品ページを見せ合う声。ビュッフェの写真を指でなぞりながら、これ絶対取る、いや先にゲーム機だろ、と笑い合う声。

 けれど、窓の外が完全に山の色に呑まれてからは、その浮つきも次第に消えていった。


 道が細くなる。

 カーブが増える。

 揺れが少しずつ大きくなる。


 窓の外には、似たような木々ばかりが続いていた。枝葉の濃い影が何度もガラスを横切り、そのたび車内の明るさが一段だけ鈍る。電波はとっくに不安定になっていて、誰かが「圏外なんだけど」と声を上げても、すぐに別の話題へ押し流された。


 乗り物に強くない生徒は、酔い止めを探して鞄を漁っている。

 堂島晴は、そういうざわつきを鼻で笑いながら、窓に肘を預けていた。黒沢櫂は一度だけ電子タバコのスティックを指の間で弄び、それをまたポケットへ戻す。吸えない苛立ちより、退屈の方が勝っている顔だった。


 悠人は、何度かパンフレットを閉じては、また開いた。

 ページを捲るたび、光沢のある紙がかすかな音を立てる。

 景品の写真は、どれも手の届きそうで届かない位置に置かれているように見えた。現実味があるからこそ、余計に目が離れない。

 こんなもの、本当に用意されているのだろうか。

 そう思う。

 けれど背景に写っているのが学園の食堂や講堂である以上、全部が冗談だとも思いきれない。

 悠人だけではなかった。

 同じ外進生や奨学生の何人かが、ページの角を何度も指で押さえては、無言で見つめていた。海外へ行けなかった惜しさより、ここで何かひとつでも掴めるかもしれない、という浅ましい期待の方が、少しずつ大きくなっていくのが分かる。

 その期待を、悠人は嫌うはずもない。


 山道を抜けた頃には、笑い声はかなり減っていた。


 誰が最初だったのかは分からない。

 ただ、前方の窓越しに赤い煉瓦と灰色コンクリートの建物が見えた瞬間、車内の空気がひとつ、小さく固まった。


 旧校舎だった。


 去年まで中等部が使っていた校舎だ。

 知っている者には知っている、知らない者にはただ古いだけの建物。

 けれど、実際に目の前へ現れたそれは、“去年まで使われていた校舎”という言葉の持つ古び方とは少し違って見えた。


 大きい。

 まず、それが先に来る。

 山の中に置かれているくせに、妙に横へ広く、五階建ての輪郭が木々の隙間から不機嫌そうに覗いている。新校舎が磨かれた白い大理石のようだとしたら、旧校舎は湿った石の塊みたいだった。使われなくなってまだ一年しか経っていないはずなのに、もう何年も空気の中で黙っていた建物に見える。


「……でか」

 誰かがぽつりと言った。

「ここ、こんなんだったっけ」

「中学の頃なんて、覚えてねえって」


 覚えている、と答える声は少なかった。

 中等部からの内部進学生でさえ、口ぶりが曖昧だ。新校舎へ移ってからたった一年しか経っていないはずなのに、こうして外から眺めると、自分の記憶の中にあった校舎と少しずれているらしい。


 バスが緩やかに減速し、正面玄関前の広い車寄せへ滑り込む。

 窓の外には、雑草の伸びきっていない手入れの行き届いた植え込みと、きれいに掃き清められた石畳が見えた。廃墟めいた荒れ方ではない。むしろ妙に整っている。そこがかえって嫌だった。

 使われていない建物のはずなのに、ちゃんと管理されている。

 放置ではなく、保管。

 そんな印象があった。


 扉が開くと、山の空気が流れ込んできた。冷たいというより、湿っている。葉と土の匂いに混じって、コンクリートの乾いた臭いが鼻の奥に残る。


 生徒たちは順番に降りていった。

 石畳へ靴裏が触れるたび、硬い音が短く返ってくる。


「ほんとにここ?」

 九条湊が周囲を見回しながら言う。

「ここで五日? だる」

「でも貸切なんでしょ」

 白峰結花はパンフレットを閉じずに持ったまま、玄関前の広さを見ていた。

「混まないならむしろいいかも」

「景品あるしな」

 櫂が短く笑う。

「ビュッフェも」

 蘭が小さく言うと、結花が満足そうに口元を上げた。


 晴は校舎を見上げていた。

 その横顔はいつも通り涼しいのに、目だけは少し細い。警戒しているというほどではない。ただ、自分の庭ではないと知った獣みたいな、乾いた測り方をしていた。


 先生も“地味子”と揶揄われて副担任が仲裁するまで玄関前に立っていた。

 行きのバスで見た唇の色も、足元の低いパンプスも、屋外の光の下では余計に目立つ。

 けれどそれだけだ。まだ、教室にいる時と別人というほどではない。

 ただ不良グループにとっては、その“ちょっとだけ違う”こと自体がいじる理由になる。


「気合い入ってんね、地味子」

 湊がわざと聞こえるように言う。

「旧校舎デート?」

「誰とだよ」

 櫂が笑う。

「校舎とだろ」

 晴が言って、数人が吹き出した。


 地味子――純美子は何も返さない。

 視線を上げることも、口元を強張らせることもない。

 ただ、全員がバスから降りたのを確認してから、静かに言った。


「荷物は持って。講堂へ行きます」


 講堂。

 その単語だけが、パンフレットの華やかさとは少し噛み合わなかった。


 玄関をくぐった瞬間、空気が変わる。


 外の湿った山の匂いが途切れて、代わりに乾いた冷たさが喉へ貼りつく。掃除はされているらしい。埃っぽくはない。けれど、人の生活の熱だけがきれいに抜け落ちている。人間の気配は消したくせに、建物そのものの歴史だけは残してある――そんな感じだった。


 広いエントランスホール。

 磨かれた床。

 天井の高い吹き抜け。

 掲示板も、案内板も、去年まで普通に使われていた学校そのものだ。なのに、歩くほどに何かがおかしい。


 悠人が最初に気づいたのは、窓だった。


 大きな窓ガラスはどれも曇りなく磨かれている。だが近くまで寄ると、向こう側に淡い色の板が打たれているのが見えた。内側ではない。ガラスの外、ぴたりと押し当てるように並べられていて、光だけをぼんやり通している。

 何のために。

 そう思う。

 でも口に出す前に、前の列が進んでしまう。


 次に目についたのは、廊下の先だった。


 誰かが通路が、途中で途切れていると言った。


 いや、途切れているのではなく、塞がれていた。壁と同じ色に塗られたコンクリートが、まるで最初からそこが行き止まりだったみたいな顔で立っている。

 中等部からの生徒が足を止めた。


「え」

「なに、あれ」

「そこ、通れたよね?」


 ざわつきが起こる。

 それは、今までの不満や茶化しとは少し違うざわめきだった。

 疑問が、ようやく形になり始めた音。


「工事だろ」

 櫂が言った。

「旧校舎だし」

「でもガラスまで?」

 誰かが返す。

「安全対策じゃね」

 晴が面倒そうに肩をすくめた。

「貸切なんだし、余計なとこ入れないようにしてんだろ」


 言われてみれば、そうかもしれない。

 そうかもしれない、と思える程度には、まだパンフレットの光沢が頭の中に残っていた。

 完全には納得できないのに、反論も弱い。そういう曖昧さのまま、生徒たちはまた歩き出す。


 エントランスから中央階段へ向かう途中、悠人は天井近くの隅に、小さな黒い目玉みたいなものを見つけた。監視カメラだった。

 ひとつだけではない。

 少し進んだ先にも、またあった。

 階段の踊り場にも。

 誰かが「多くね」と呟き、別の誰かが「前からじゃない?」と曖昧に返す。

 前から。

 本当にそうだったのだろうか。

 分からない。中等部の頃は別の学校にいたから分からないし、暗いところで見るレンズは気味が悪い。


 階段を上る。

 二階、三階、四階。

 普通教室、職員室、保健室、特別教室。見慣れたはずの名前が並んでいる。

 けれど、人気がないだけで学校という場所はこんなにも音を失うのかと、悠人は少し驚いていた。三十六人もいるのに、自分たちの靴音ばかりが大きい。誰かが小声で笑うと、その笑いだけが壁に触れて反響する。


 五階へ近づくにつれ、通路の幅が少し広くなった。

 そして前方に、重たそうな両開きの扉が見えてくる。


 講堂だった。


 そこまで来て、ようやく悠人は、変なのは窓や壁だけではないのだと思い始めていた。

 校舎そのものが、何かを隠している。

 いや、隠すためになのか綺麗すぎるほどに整えられている。

 そんな感覚が、背骨に細く這い上がってくる。


 けれど同時に、まだ完全には怖がれない自分もいる。

 パンフレットの中の料理は本当に美味しそうで、景品は魅力的で、ここまで連れて来られた理由も特別と言われれば飲み込めてしまう。

 警戒と期待が、胸の中でどちらも半端に残っている。

 そのせいで余計に気持ちが悪い。


 純美子が扉の前で足を止めた。

 やや遅れて、副担任たちも左右へ散る。


「ここから先は、席についてから説明します」


 それだけ告げて、純美子が扉へ手をかける。

 蝶番が重たそうな音を立てて、ゆっくりと口を開く。


 その隙間から、冷えた光が漏れてきた。

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