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修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第1章

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1/18

1.


 修学旅行の朝なのに、空はあまりにも普通だった。


 高等部の正門前には、学園のバスが何台も並んでいた。

 白に近い艶のある車体へ校章だけが控えめに入っていて派手ではないのに、高額な学費と歴史ある名門校らしい顔をしている。


 他クラスの集合は八時。もう彼らは出発していて、広いロータリーにはその気配だけが薄く残っていた。制服の上に羽織ったコートの匂い、整髪料や香水の甘さ、さっきまでそこにいた人間の熱が、朝の空気の中にまだ少し浮いている。


 全寮制の学園だから、保護者がずらりと並ぶような見送りはない。

 中等部ならまだしも、高等部二年にもなれば、親が顔を出す方が珍しい。ましてこの学園は、迎えの車ひとつ取っても、庶民的な生活の輪郭から遠い。子どもを見送るにしても、車の窓越しに短く声をかける程度で済ませる家がほとんどだった。


 その静かな朝に、高等部二年の最下位クラスだけが残されていた。


 集合は九時。

 けれど、それを不自然だと騒ぐ者は少ない。


 このクラスは、学校行事のたびに他と切り離される。体育祭でも、文化祭でも、校外学習でも、いつもそうだった。少し遅く呼ばれ、少し端へ寄せられ、他クラスと交わらないように動かされる。

 最初の頃は文句も出た。

 けれど今では、誰も本気では怒らない。

 どうせ自分たちはそういう扱いなのだと、先に諦めた方が楽だと知ってしまっている。


 だから水城悠人(みずしろ ゆうと)も、驚きはしなかった。


 ただ、胸の奥に薄い引っかかりだけが残った。

 修学旅行くらいは、と思っていたのだ。

 少なくとも今日だけは、自分たちも他のクラスと同じように、飛行機へ乗って、海の向こうへ行くのだと。

 悠人にとって海外は、まだ現実より少し遠い言葉だった。施設で育ち、奨学金を掴み取ってこの学園へ入った彼にとって、パスポートも、空港も、異国の街並みも、どれも自分の手から半歩ぶん先にある光だった。


「水城、ぼーっとしてんなよ」


 声をかけてきたのは九条湊(くじょう みなと)だった。朝から妙に機嫌がいい。

 前髪を掻き上げながら笑う口元は軽いのに、目だけは落ち着きなくあちこちを向いている。


「どうせまた、うちだけ別便だろ」


 そう言って湊は肩をすくめた。

 冗談めかした言い方だったが、言葉の底に小さな棘がある。悠人はそれに何も返さず、曖昧に笑うだけにした。下手に相槌を打つと、湊はそこから話を膨らませる。広げるだけ広げて、自分はいつの間にか別の誰かへ絡みに行く。そういうところが、少し苦手だった。


 最下位クラスの生徒たちは、中庭からロータリーにかけてだらだらと散っていた。

 誰も、同じ方向を向いていない。


 堂島晴(どうじま はる)は校舎の外壁に片方の肩を預けるように立っていた。背が高い。

 制服はきちんと着る気がないくせに、着崩した姿まで様になってしまう。目元は涼しいが、視線だけが冷たい。

 誰かを見るたび、その人間の顔ではなく値踏みでもしているような目だった。


 その隣にいる黒沢櫂(くろさわ かい)は、もっと分かりやすい。肩幅が広く、首が太い。制服の上からでも分かる体格は、格闘家に近かった。腕を組むだけで、人を殴る時もこうやって迷いなく振り下ろすのだろうと思わせる。


 指先では細いスティック状の電子タバコを弄んでいた。さすがにこの場で吸いはしないが、隠して持ち歩かない行為自体が校則を笑っているみたいだった。


「遅ぇな」

 晴が低く言った。

「どうせ今日も別行動だろ」

 櫂が鼻で笑う。

「今さらじゃん」


 その一言で、周囲の空気がざらついたまま落ち着く。

 そうだ、今さらだ。誰もが同じことを思っている。


 少し離れたところでは、白峰結花(しらみね ゆいか)がスマートフォンの黒い画面を鏡代わりにして、髪の流れを確かめていた。

 宝泉蘭(ほうせん らん)がすぐ脇に立ち、小さな手鏡を差し出す。結花はそれを当然みたいに受け取り、角度を変えながら自分の顔を眺めた。

 彼女はこのクラスの中で明らかに浮いていた。肌の白さも、髪の艶も、立っているだけで人の視線が集まるところも教室より撮影の灯りの下に置かれた方が似合いそうだった。

 雑誌だか広告だかで見たことがあると噂する声もあったし、本人もそれを否定しない。まつ毛の長さも、首筋の細さも、制服の着こなしまで、すでに“見られる側”のそれだった。

 勉強ができなくても、授業に出なくても、堂島たちと並んで立てる理由が彼女にはある。家柄と、顔の強さと、他人を見下しても平気でいられる性格。その三つが揃っている人間は、この学年では成績より先に上の立場へ行く。


「巻き、取れてない?」

 結花が鏡越しに訊く。

「大丈夫。むしろ今日の方がいい」

 蘭がすぐに答えた。

「ならいい」


 そのやり取りだけで、二人の上下ははっきりしていた。


 京極雫(きょうごく しずく)は少し離れた場所で、袖口を親指で撫でていた。緊張するとそうする癖があるらしい。

 篠宮和平(しのみや わへい)は腕時計ばかり見ている。

 神代健吾(かみしろ けんご)は欠伸を噛み殺しながら、ロータリーの植え込みの縁をぼんやり眺めていた。

 最下位クラスは一つの集団に見えて、実際にはばらばらだった。欲しいものも、怖いものも、守りたいものも、たぶん同じではない。


 やがてロータリーへ滑り込んできたのは、学園バスだった。


 他クラスが使うものより一回り小さい。けれど車体の塗装は新しく、窓ガラスはきれいに磨かれている。中も見えるぶん、余計に分かる。座席は柔らかそうで、色も落ち着いていて、安っぽさはない。快適さはちゃんと用意されている。けれど、人数に対しては少しだけ窮屈そうだった。

 このクラスに割り当てられる乗り物は、いつもそうだ。

 悪くはない。

 ただ、余裕がない。


 運転席には副担任の榊原(さかきばら)が座り、その隣には新庄(しんじょう)がいる。教師にしては身体が大きく、ハンドルを握る姿が妙に板についていた。

 ざわつきが起きる。


「先生が運転すんのかよ」

「学園バスなのはいつも通りだけど、今日のちょっときれいじゃね」

「無駄に快適そうで腹立つな」


 そこで、担任が姿を見せた。


 いつもの地味なスーツに、いつもの黒縁眼鏡。髪もひとつにまとめたままだった。

 ただ、今日は唇にだけ、少し色があった。赤すぎないのに、それがあるだけで見慣れた顔の輪郭が妙に浮く。足元も、いつもの革靴ではなく低いパンプスだった。

 それだけの違いなのに、すぐに気づく者がいる。


「うわ、地味子、今日だけ本気出してる」

 湊が吹き出す。

「修学旅行デビュー?」

 櫂が口元を歪める。

「化粧しても地味は地味だろ」


 周囲でくすくすと笑いが起きる。

 担任は何も言わない。

 それもまた、いつも通りだった。


 このクラスの生徒にとって彼女は、教師である前に“いじっても平気な相手”だった。授業中に無視され、後ろからあだ名で呼ばれ、備品を壊されても強く叱れない。声を荒らげることもできず、黒板の前で小さく固まってしまうことすらあった。

 だからみんな、怖がらない。

 怖がらないから、踏みにじる。

 その繰り返しで“地味子”という呼び名は、いつの間にか教室の空気の一部になっていた。


 担任は封筒の束を抱えて、バスの前に立った。


「順番に乗ってください。席は前から詰めて。移動中に、今日のしおりを配ります」


 声は大きくない。けれど、朝のロータリーにはよく通った。

 それだけで一瞬、笑いが止まる。


 生徒たちはだらだらと乗り込んでいった。

 悠人は窓側の席へ腰を下ろし、膝にリュックを抱えた。隣には白萩琥珀(しらはぎ こはく)が座る。短く会釈を交わしたあと、琥珀はすぐ前を向いた。

 シートは柔らかい。肘掛けもちゃんとしている。けれど隣との距離は近く、足元にも余裕はない。高級感はあるのに、少しだけ気が抜けない。その中途半端さが、このクラスの扱いに似ている気がした。


 発車してしばらくしてから、担任が通路を回り始めた。

 一人ひとりの膝の上に、光沢のあるパンフレットが置かれていく。


 表紙には、学園の中庭、講堂の正面階段、食堂の一角。

 生徒なら誰でも知っている場所ばかりが背景に使われていた。だから余計に、嘘には見えない。

 金色の文字が並んでいる。


 旧校舎貸切・特別修学旅行プログラム

 朝夕ビュッフェつき

 豪華景品交換制・クイズ大会開催


「……は?」

 湊が一番先に声を上げた。

「マジ?」

 結花がページをめくる音が、やけに早い。

「これ、やば」

 蘭まで身を乗り出す。


 悠人も、思わず見入ってしまった。

 中には景品の写真がずらりと並んでいた。高級ブランドの財布、香水、コスメ、人気のゲーム機、ワイヤレスイヤホン、商品券、限定スイーツ。背景が全部、学園の見知った場所で撮られている。

 食堂のテーブル、講堂のステージ前、中庭の石畳。

 ありえない内容なのに、知っている景色の中に置かれているだけで、本当にそこにある気がしてしまう。


 次のページには、朝夕のビュッフェ写真まで載っていた。銀の蓋を持ち上げた料理、照りのある肉、焼きたてみたいなパン、つややかな果物。

 悠人は喉の奥がひどく渇くのを感じた。

 海外も、こういう“いかにもこの学園らしい贅沢”も、彼にはまだ遠いものだった。奨学生としてここへ入ってから、豪奢な設備や行事に目を奪われることは何度もあった。けれどそれはいつも、自分のものではない光だった。

 いま膝の上にあるパンフレットは、その光を少しだけこちらへ近づけて見せる。


 同じ外進生や奨学生の何人かも、似た顔をしていた。

 逆に、内部進学生の中には景品より先にクイズの説明欄を読んで、眉をひそめる者もいる。家が裕福でも成績が悪い生徒にとっては、こういう派手なご褒美より、結局また勉強か、という顔になるのだろう。


「へえ」

 晴がページを片手で捲りながら薄く笑った。

「海外じゃなくても、悪くないじゃん」

「ビュッフェあるなら勝ちだろ」

 櫂が言う。

「景品も最高」

 結花はもう、自分がどれを取るか決めているみたいな顔で写真を眺めていた。


 誰もまだ、本気では疑っていない。

 少なくとも悠人は、そうだった。

 国内に変更された違和感はある。けれど、あまりにもパンフレットがきれいで、あまりにも内容が分かりやすく甘かった。

 警戒心の上へ、薄く砂糖をまぶされたみたいだった。


 その時、通路の前方で担任が振り返った。

 唇の色だけが、妙に目に残る。


「楽しみになってきましたか?」


 誰かが「まあ、ちょっと」と答えて、車内に軽い笑いがこぼれる。

 バスはゆるく揺れながら、裏山へ続く道へ入っていった。窓の外には見慣れた新校舎の白い壁が消え、濃い木々ばかりが流れていく。枝の影が窓へ細かく走り、そのたび車内の明るさが一瞬だけ鈍る。


 楽しみになってきましたか。

 その言葉だけが、胸の奥へ沈んだまま浮いてこなかった。

 パンフレットの紙はつやつやしているのに、指先だけが少し冷たかった。

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