6.
二分ほどの待機時間が終わるころには、教室の空気はすっかり鈍くなっていた。
まだ初日の午後だというのに、誰ももう修学旅行のことを考えていない。
机に向かい、配られた紙を見て、点を落とさないことだけを考えている。
そうなっている自分が嫌だったが、嫌だと思うだけで何かが変わるわけでもなかった。
「続いて、三ポイント問題二を行います」
先生の声は変わらない。
冷たくもなく、励ましもなく、ただ次の工程を告げるだけの声だった。
伊吹が新しい問題用紙を配っていく。
無駄のない動きだった。机の端へ紙を置く手つきまで静かで、だからこそ余計に気味が悪い。
悠人は紙を裏返し、表にした。
旧校舎と新校舎の教育環境の違いとして、学園が生徒へ求めているものを二十五字以内で答えなさい。
教室のどこかで、低い舌打ちが聞こえた。
誰のものかは見なくても分かった。黒沢だろう。
「なんだよ、それ」
案の定、黒沢が低く言う。
「意味わかんねえ」
すぐ後ろから、神宮寺の声がした。
「読めば分かるでしょ」
静かな声だった。
「旧校舎と新校舎の違いを通して、学園が何を見てるかって話なんだから」
言い方が悪い。
説明しているようで、助ける気は少しもない。
黒沢が嫌うのは、こういう喋り方だと悠人は思った。真っ向から喧嘩を売るわけでもないのに、相手の頭が足りないみたいに聞こえる言い方。
「おまえ、いちいち」
黒沢の声がさらに低くなる。
教室の後ろの空気が張る。
美苑はすぐに肩を固くした。
宮部は視線を落とし、白萩は横を見ない。
いつもの教室でも、こういう時はそうだ。黒沢が本格的に荒れる前の数秒だけ、周囲の人間の方が先に息を止める。
だが今日は、そこで終わらなかった。
榊原が横の壁際から一歩だけ前へ出たのだ。
「私語はやめてください」
大きな声ではない。
だが、その一言だけで黒沢は口を閉じた。
睨み返しはしたが、立ち上がらない。
昼の食堂で新庄に手首を押さえられたことが、まだ残っているのだろう。
この校舎では、普段の教室みたいに振る舞っても通らない。黒沢にもそれくらいは分かり始めている。
神宮寺はそれ以上何も言わなかった。
勝ったと思っている顔でもない。
ただ、自分の言ったことは間違っていないと信じている人間の顔をしていた。
そこが余計に、感じが悪い。
悠人は問題へ視線を戻した。
旧校舎と新校舎。
教育環境の違い。
学園が生徒に求めているもの。
新校舎は整っている。広い。新しい。設備もいい。
旧校舎は古く、狭く、いまはもっと不自然だ。
けれどこの問題は、建物の快適さを比べる話ではない。
たぶん、環境が違っても、学園が生徒に求める芯は同じだという答えを求めている。
自立。
適応。
学ぶ姿勢。
そういう言葉が頭に浮かぶ。
由良はもう書き始めていた。
考える時に視線がぶれない。言葉をまとめるのも早い。
強いと思う。こういう時、由良は躊躇が少ない。
ただ、それは暴力に強いという意味ではない。言葉にする時だけ、まっすぐになれるのだ。
白峰はペンを持ったまま少し考えている。
すぐには書かないが、慌てもしていない。
白峰のような生徒は、こういう問題で急に弱くならない。学園の理念や方針は、自分が属する世界の言葉として前から知っているからだろう。
同じ教室にいても、そこに馴染んでいる度合いが違う。
堂島はまた、最初の数十秒を動かずに使った。
片肘をつき、紙を見ている。
悠人はあの止まり方が嫌だった。
解けないから止まっているようには見えない。解けるのに、すぐ書かないのだ。余裕なのか、面倒なのか、そのどちらかを周囲に測らせるためみたいな止まり方だった。
堂島は、普段の教室でもそうだ。
黒沢みたいにすぐ怒鳴らない。九条みたいに騒がない。
ただ、少しだけ返事を遅らせたり、舌打ちをしたり、机を靴先で鳴らしたりするだけで、周囲の方が先に顔色を変える。
その静かな威圧の方が、黒沢の大声より厄介だと悠人は思っていた。
神代は問題文をじっと読んでいた。
人のことになると引いてしまうくせに、紙の上の情報は丁寧に拾う。
神代の中では、人間関係より先に、文字や配置の方がまだ整理しやすいのかもしれない。
健吾、ではなく、神代。
悠人は自分の頭の中で名前をはっきり区切った。こういうところまで曖昧だと、余計なものが文章に残る。
雫は、前の問題よりも少し早かった。
手を止める時間が短い。
さっき一問落としたことが、かえって雫の背中を押しているようにも見える。
柏木は安定している。
九条は難しい顔で資料もない紙を睨んでいた。
こういう問題は苦手なのだろう。誰かを笑う言葉はいくらでも出るのに、自分で意味をまとめろと言われると急に遅い。
時間が半分を過ぎた頃、九条がまた小さく毒づいた。
「二十五字って中途半端すぎ」
今度は神宮寺も何も返さない。
返せばまた黒沢が反応する。そこまで計算したのか、それとも単にもう九条へ構う価値を感じていないのか、そのどちらかだった。
悠人はようやく答えを書いた。
環境に応じて自立し、学び続ける姿勢
書いたあとで、少しだけ迷う。
これで足りるのか。
学園が求めているもの、と言われた時の冷たさまで含めるなら、もっと別の言い方もある気がする。
だが考えすぎると、どんどん薄くなる。
そういう問題だった。
堂島はその頃になって、ようやく書き始めた。
黒沢は嫌々ながらもペンを動かしている。
白峰は一度書いたあとで、言葉を削り直していた。
由良はもう見直しに入っている。
雫は最後の一文字で止まり、神代はまだ答えを整えていた。
「そこまで」
先生の声と同時に、教室の中でいくつかの動きが止まる。
紙が回収される。
机から離す時の指先が重い。
三ポイント問題が二つ続いただけで、教室の空気はかなり疲れていた。
採点はまたその場で行われた。
新庄が答案を受け取り、教卓の前へ戻る。
誰も喋らない。
喋れない、の方が近いかもしれない。
点が入るか入らないかで、初日の夕食が変わる。そう思うと、ちょっとした私語すら無駄に感じる。
先生は前を向いたまま、静かに告げた。
「正解者を読み上げます」
悠人は無意識に背筋を伸ばしていた。
「水城、荒木、堂島、白峰、神宮寺、柏木、神代」
その列に神代の名字が入ったのが、少しだけ意外だった。
神代は顔を上げない。ただ、さっきまで紙の端へ置いていた指先を静かに引いた。
小さな仕草だったが、ほっとしたのだと分かる。
雫は呼ばれなかった。
九条も、黒沢も呼ばれない。
九条は今度こそ机へ片手をつき、目を逸らした。黒沢は何も言わず、ただ顎を上げる。
悔しいのか、腹が立つのか、その両方か。
だが、ここで怒鳴っても点は変わらない。
それがまた、いつもの教室よりつらいのかもしれない。
「午後筆記問題、終了です」
その言葉を聞いた時、教室の中には安堵より疲労の方が強く落ちた。
まだ夕方ですらない。
なのに、初日の一日がもう何日分も長く感じる。
先生は答案を整えながら、最後に言った。
「これより講堂へ移動します。夕食ランクを発表します」
その一言で、さっきまで重かった空気が、別の意味で動いた。
疲れていても、そこには反応する。
夕食。
点数。
ランク。
パンフレットに載っていた写真の匂いが、そこでまた頭の奥へ戻ってくる。
修学旅行の初日の午後。
本当なら、少しくらい浮かれていてもいい時間のはずだった。
だが教室にいる誰も、もうそんな顔をしていない。
ただ、自分がどのランクへ振り分けられるかだけを考えていた。




