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修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第4章

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5.


 一ポイント問題は、現代文だった。


 配られた紙の中央に、短い問題文がひとつだけ載っている。


 次の文の傍線部と最も近い意味の語を、下の選択肢から選びなさい。

 「彼は終始、曖昧な態度を崩さなかった。」

 一 率直  二 不明確  三 慎重  四 厳格


 難しくはない。

 難しくはないのに、問題が配られた瞬間の反応だけで、教室の中がすぐに分かれる。


 すぐにペンを走らせる者。

 文を読み返す者。

 最初の一行で止まる者。


 悠人は一度だけ問題を読み、すぐに答えを書いた。

 由良も早い。

 柏木も迷わない。

 神宮寺や白峰のような生徒は、こういう基礎問題で引っかからない。

 逆に、九条や天津のような生徒は、簡単な問題ほど表情に「だるい」が出る。


「これ、一ポイント?」

 九条が小さく言った。

「簡単すぎない?」

「簡単なら黙って書けば」

 神宮寺が横から言う。

 声は静かだが、言っていることはきつい。


 九条は舌打ちして、ようやく鉛筆を動かした。

 実際、簡単なのだ。

 だからこそ嫌なのだろう。

 こういう問題で落ちると、授業を聞いていないことだけがそのまま紙へ出る。


 教室の後方では、黒沢が鉛筆を指で弄んでいた。

 問題が配られてからしばらく、紙へ触る気配がない。

 堂島も、すぐには書かない。

 だが堂島は違う。問題文を見たまま止まっている。読んでいるのだ。読んでいて、すぐに動かないだけだと分かる。

 黒沢の止まり方とは種類が違う。


 雫は、問題文を読み終えてから答えを書くまでに少し時間がかかった。

 分からないのではない。

 焦ると一度、簡単な語でも本当にこれでいいのか疑いたくなるのだろう。

 何度か見直して、それからようやく答えを書く。


 神代は問題用紙を前にして、少しだけ目を細めていた。

 建物や配置のことになると反応が早いのに、こういう教科問題では一拍遅れる。

 けれど捨てはしない。

 最後にはきちんと答えを選ぶ。


 時間は短かった。

 短いからこそ、机の上へそのまま差が出る。


 回収が終わると、採点はその場で行われた。

 伊吹が用紙を前へ運び、新庄が名前を読み上げる。

 正解者だけが呼ばれる方式だった。


「水城、荒木、堂島、白峰、神宮寺、由良……」


 名前が並ぶ。

 呼ばれた者は無表情を装い、呼ばれなかった者はそれ以上に無表情を作ろうとする。

 だが無理だ。

 こういう小さな問題ほど、落とした側の顔に出る。


「……落ちた」

 九条が本当に小さく言った。


 その声を、戸川は聞いていたはずだ。

 だが何も返さない。

 返さないこと自体が冷たい。


 黒沢は呼ばれなかった。

 それでも悔しがる顔は見せない。

 代わりに、椅子へ深く座り直して前を睨んでいる。

 黒沢のような生徒は、点を落とした恥をすぐ怒りへ変える。

 恥をそのまま持っているより、その方が楽なのだろう。


 堂島は名前を呼ばれても、ほとんど顔を動かさなかった。

 ただ鉛筆を机へ置く。

 その何でもなさが、かえって周囲の神経を逆なでする。

 不良で、素行も悪くて、いつも気だるそうにしているくせに、最低限は取る。

 そういう人間が一番、教室の空気を悪くする。


「一ポイント問題、終了です」

 先生が言った。


 そこで誰かが大きく息をついた。

 まだ一問しか終わっていない。

 なのに、教室の中にはすでに“試験を受けさせられている”疲れが広がっている。


 簡単な問題ほど、落とした時の言い訳が利かない。

 分からなかった、ではなく、聞いていなかっただけだと見えてしまうからだ。

 教室の空気が少しだけ悪くなったのは、そのせいだった。


 先生は、誰の顔も長く見ないまま次の紙を持ち上げた。


「続いて、三ポイント問題に入ります」


 新しい問題用紙が配られる。

 今度は、さっきより文字数が多い。

 配布資料も一枚ついていた。学園創立当初の教育方針と、現在の教育理念が抜粋されている。紙質はしっかりしていて、見出しも丁寧だ。こういうところだけは、相変わらずこの学園らしい。


 問題文は、中央にひとつだけ大きく印字されていた。


 創立当初の学園方針と現在の教育理念の共通点を、配布資料を参考に三十字以内で答えなさい。


 それを見た瞬間、教室の中のざわめきが少し変わった。


 英語や数学なら、まだ授業を聞いていたかどうかの話で済む。

 けれどこれは違う。

 この学園がどういう学校なのか、自分が何のためにここへ入ったのか、その入口にあった言葉をどれだけ自分の中へ入れていたかが問われている。


 悠人は、資料へ目を落とした。


 創立当初の方針。

 広い視野、たくましい創造力、豊かな感受性。高潔な人格と確乎とした識見を持ち、社会に貢献する人材の育成。


 現在の理念。

 勉強、スポーツ、芸術、課外活動を含む全人教育。多角的な視点。創造性と個性。学びを楽しむ姿勢。自立した思考。リーダーシップと奉仕。自由と規律の共存。


 読みながら、悠人はふと、高一の入学式を思い出した。


 新校舎の講堂。

 外進生として初めて立ったあの日、自分は学園の空気そのものに圧倒されていた。制服の質、椅子の並び、教師たちの身のこなし、保護者席の静けさ。

 壇上で語られたのは、「人を創る学園」だとか、「選ばれた者の責任」だとか、そういう言葉だった。

 その時は半分も分からなかった。

 ただ、ここへ入れたことが嬉しくて、何でもいいからしがみつきたいと思っていた。


 だから、こういう問題になると少し引け目を感じる。

 学園の理念を、家の食卓や親の会話の中で当たり前に聞いて育った内部進学生とは違う。

 九条みたいな生徒も、たぶん似たようなものだろう。


 家柄や育ちが違えば、この学園が子どもへ当然のように求める言葉の重さも違う。


「うわ」

 九条が資料をめくりながら言った。

「知らねえんだけど、こんなの」

「知らないの?」

 神宮寺が横から言う。

 声は静かだが、十分に富裕層の余裕が感じられる。

「じゃあ何を見て入ったの」


 九条は舌打ちした。

 こういう時、神宮寺は本当に容赦がない。九条みたいに笑いへ逃がさない分だけ、言われた方の逃げ場がなくなる。


「外から来たやつは、こんなん別に」

 九条が言いかける。


「外から来たって同じ学校だろ」

 由良がすぐに返した。

 短いが、はっきりした声だった。

「入った以上は」

「は?」

 九条が顔を上げる。

「おまえに言われたくねえし」

「別におまえに言ってない」

「言ってんじゃん」


 教室の空気が少しだけ動く。

 由良はこういう時に引かない、そこが強みでもあり他人から言わせれば厄介だった。だが、堂島や黒沢のいる教室でそれをやると、強さより先に厄介な側面が見える。


 先生はそのやり取りに割り込まなかった。

 ただ教卓の前で、「制限時間三十分です」とだけ告げる。

 その静けさが、かえって場を締めた。


 悠人は資料の余白へ、短く言葉を書き出した。


 広い視野

 創造力

 感受性

 人格

 社会貢献


 それに対応するように、現在の理念からも拾う。


 多角的視点

 創造性

 共感

 奉仕

 リーダーシップ


 共通しているのは何か。

 全人教育という言い方は新しい。けれど、言いたいことの芯は似ている。

 狭い知識だけではなく、広く見て、自分で考えて、他者を含めた社会へ向かう人間を作ること。

 そこまで考えたところで、三十字以内という制限が急に重くなる。


「短すぎない?」

 白峰が言った。

 不満そうではあるが、焦っている感じではない。こういう課題は嫌いではないのだろう。学力だけでなく、言葉の形を整える作業は、育ちのいい生徒ほど案外慣れている。


 堂島は資料へ目を落としたまま動かない。

 だが、その止まり方は黒沢とは違う。

 読んでいないのではなく、読みながら削っている顔だった。


 黒沢は逆に、資料を机へ広げたまま、途中で嫌になったように椅子へ深く座り直す。


「長ぇ」

 低く言う。

「こういうのだるい」


 その一言で、美苑がびくりと肩を揺らした。

 別に自分へ向けられた言葉でもないのに、黒沢の声が荒くなるだけで身体が先に反応するのだろう。

 教室では、それが普通になっている。


 神代は資料をかなり真面目に読んでいた。

 人のことになると逃げ腰なのに、こういう紙の上の情報は順番に追えるらしい。

 健吾の中では、目の前に並んだ言葉を整理することだけは、まだはっきりしたままだった。


 雫は、傍線も何もない資料をひどく慎重に見ていた。

 こういう時の雫は、間違えないようにするあまり、逆に進みが遅い。

 柏木はもう書き始めている。

 坂井も早い。

 神宮寺は書く前に、答えの形を頭の中で整えている顔だった。


 悠人はようやく一文を書いた。


 広い視野と人格を養い、社会へ貢献する人材の育成


 三十字を少し超える。

 削る。

 言い換える。

 また削る。


 その作業の途中で、ふと堂島の机が小さく鳴った。

 蹴ったのではない。

 足先で、椅子の脚か机の脚を軽く触れただけのような短い音だった。

 それでも教室の何人かが一瞬そちらを見る。

 堂島は大声を出さなくても、こういう音だけで周囲の神経を動かせる。


「できた?」

 白峰が小声で聞く。

「まあ」

 堂島はそれだけ返した。

 短い。ぶっきらぼうだ。

 けれど、分からないから黙っているのではない。分かっていて、それ以上話す気がない声だった。


 由良は早かった。

 書き終えたあとで、悠人の方を見て、声を出さずに「まだ?」と口だけ動かす。

 急かしているのではなく、確認する動きだった。

 こういう時、由良はちゃんと班ではなく“個人の試験”だと分かっている。それでも近くの誰かの進み具合を気にしてしまうのだろう。

 正義感というより、性分に近く時には煽りとも捉えられてしまう。


 時間が半分を過ぎると、焦りが目に見えるようになった。


 九条はまだ書いては消し、消しては資料を見返している。

 神宮寺はすでに書き終わったのか、机の上で指先だけを動かして待っている。

 黒沢はペンを握っているが、答えの形になっていないのが遠目にも分かる。

 雫はやっと最後まで書いたらしく、手を止めたあとで何度も見直していた。

 健吾は、意外にもかなり真面目に削っていた。長い言葉を短くするのが苦手なのかもしれない。


「そこまで」


 先生の声が落ちた。


 用紙が回収される。

 紙が前へ送られていく音だけが、教室に小さく続く。

 誰もまだ、結果の話をしない。

 こういう問題は、一ポイント問題よりも恥の出方が複雑だからだ。単純に授業を聞いていたかどうかではなく、この学校の言葉を自分がどれだけ分かっているかまで出てしまう。


 先生は集まった紙へ目を落とし、伊吹へ渡した。

 採点はまたその場で行われるらしい。


「採点が終わるまで、二分待機してください」


 二分。

 短い。

 短いのに、その二分が妙に長く感じる。


 悠人は、机の上に置いたままの資料を見ていた。

 広い視野。創造力。感受性。人格。社会貢献。

 そういう言葉に惹かれてこの学校へ来たわけではない。けれど、入ってからは何度も聞かされた。

 それなのに、自分はいま、その理念よりも昼食のランクや夕食のポイントの方を先に考えている。

 それはたぶん、この教室にいる多くの生徒も同じだった。


 この学園は、人を創る学校だとずっと言ってきた。

 では、いま旧校舎で行われていることも、その一部なのか。

 そんなはずはない。

 ないと思いたい。

 けれど、紙の上の理念と、いま自分たちに向けられている試し方が、どこかで無理やり繋がっている気もして、悠人はそれが嫌だった。


 前方で新庄が、採点済みの紙を受け取った。

 教室の中の空気が、また少しだけ張る。


 まだ、もう一問残っている。

 それなのに、すでに疲れていた。

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