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修学旅行(仮)  作者: 常居嗣子
第4章

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11/18

1.


 昼食が終わっても、食堂の空気は和やかになるわけなかった。


 皿が下げられ、パンの袋が回収され、机の上がきれいに拭かれても、さっきの騒ぎだけが薄く残っている。誰も声を荒らげてはいないのに、緊張の糸が張っていた。


 美苑はまだ少し顔色が悪い。黒沢に髪を掴まれたあとの乱れを直してはいるが、耳の後ろへ髪をかける手つきがどこかぎこちない。

 雫はスープを飲み切れずにいた。冷めた紙カップを両手で持ったまま、目だけを伏せている。

 九条はコンビニのパンの袋をぐしゃぐしゃに潰し、それを机の端へ寄せた。いつもの軽口はない。

 それぞれの机に、それぞれの昼食が残したものがあった。


 そこへ、先生が戻ってきた。


 さっきまで食堂にいなかったのに、戻ってきた時には何事もなかったみたいな顔をしている。髪も、唇の色も、講堂で見たままだ。

 悠人はその姿を見て、少しだけ喉の奥が硬くなるのを感じた。

 この人は、いまの食堂で何があったのかをたぶん知っている。知っているのに、それを知らない顔で前へ立てるのだ。


 先生は教卓の前へ立ち、静かに言った。


「午後の五ポイント問題へ移ります」


 スクリーンに映る文字は、午前中と同じように簡潔だった。

 無駄な説明がないぶん、言葉だけが骨のように残る。


 五ポイント問題

 班行動

 制限時間三十分

 解答場所へ時間内に戻ってください

 回答制限二分


 食堂のざわめきが少しだけ戻る。

 けれど、それは昼休みらしい賑やかさではない。班ごとに顔を見合わせ、誰と動くか、誰の足が遅いか、誰が役に立つかを測るざわめきだった。


「問題は各班ごとに異なります」

 先生が続ける。

「指定された場所を探し、答えを見つけてください。地図の支給がある班は、適宜活用して構いません」


 勝ち組の机で、由良がすぐに地図へ手を伸ばした。

 堂島はその手元を横目で見ただけで、口を出さない。

 白峰は椅子に浅くもたれたまま、「歩くのお?」とだけ言った。嫌そうというより、靴を気にしている声だった。


 他の机では、反応がもっと露骨だった。


「は? また班?」

 九条が言う。

「つか、これ班ガチャすぎるだろ」

「だからさっきからそうだろ」

 戸川が冷たく返す。


 負け組・甲班では、黒沢がまだ機嫌を直していなかった。

 スープの空になった紙カップを指先で転がしながら、机の向こうの美苑を見もしない。

 宮部も白萩も口を開かない。

 この班はもう、協力する前から空気が悪い。


 愚か者班・甲班では、鷹宮が最初から「だる」と言っていた。

 雫は地図も支給されていない自分たちの机の上を、意味もなく見ている。

 成瀬は班員を頼る気もなさそうだし、柏木は午後の移動が始まる前から少し疲れて見えた。


 先生は一枚ずつ紙を配らせた。

 問題文だった。

 勝ち組・甲班の紙を由良が受け取り、机の中央へ置く。四人の視線がそこへ落ちた。


 五ポイント問題

 旧校舎一階・高等部側エントランスホールにある寄贈銘板を確認し、この校舎が最後に大規模改修された年を答えなさい。


「一階まで戻るの?」

 白峰が眉を寄せる。

「最悪」

「改修年か」

 由良はすぐに問題文を見直した。

「地図、見るしかないな」


 勝ち組だけに配られた地図は、折りたたみの簡素なものだった。


 だが、行動可能範囲だけははっきりと記されている。中等部側校舎、高等部側校舎、三階の連絡通路、研究棟、運動棟、立ち入り不可区域。

 午前中の説明だけでは曖昧だったものが、こうして線になると急に現実味を帯びる。

 自由に動けるわけではない。

 動いていい場所が、最初から枠で囲われている。


「改修年って、銘板見れば終わりじゃない?」

 白峰が言う。

「単純でいいじゃん」

「単純に見える問題ほど嫌だね」

 由良は地図から目を上げない。

「場所が分かってるなら、逆に時間を無駄にさせたいだけかもしれない」


 その言い方に、悠人は少しだけ頷きそうになる。

 午前中からずっと、この学校のやり方はそうだった。問題そのものより、そこへ辿り着くまでの空気や人間関係の方が先に悪化させられる。


 そこで、堂島がようやく口を開いた。


「行くならさっさと行けば」

 低い声だった。

「地図あるんだろ」


 由良が顔を上げる。

「言われなくても」

「なら早くしろ」

 堂島はそれ以上何も言わなかった。

 興味がないわけではない。ただ、自分が班を引っ張っているように見られるのを避けているだけだと、悠人には分かった。


 先生の声が食堂全体へ落ちる。


「それでは開始します」


 同時に、スクリーンの隅へ残り時間が表示された。

 三十分。

 短い。

 短いと分かると、食堂の椅子を引く音が一斉に荒くなる。


 班ごとに立ち上がり、出口へ向かう。

 その列の作り方だけでも、普段の教室の縮図みたいだった。堂島たちの近くを避ける者、押しのけられる前に道を空ける者、逆に先生の近くを歩いて少しでも安全でいたい者。

 誰も口にしないが、みんなもう知っている。

 この午後は、楽しい探索ではない。

 同じ校舎を歩いても、誰と歩くかで気の重さが変わる。


 食堂を出る時、悠人は一瞬だけ後ろを振り返った。

 さっきまで昼食の皿が並んでいた机が、もうきれいに片づけられている。ローストビーフの赤も、スープの湯気も、パンの袋もない。

 残っているのは、椅子の位置のずれだけだった。


 廊下へ出ると、旧校舎の冷たい空気がすぐにまとわりついた。

 昼過ぎなのに、窓の外は白くぼやけている。板で塞がれた向こうから光だけが滲んでくるせいで、時間の感覚が少し狂う。

 学校の中にいるのに、学校の昼休みじゃない。

 それがずっと落ち着かなかった。


 勝ち組・甲班は、由良を先頭に階段へ向かった。

 白峰は歩くたび、足元を気にしている。低いヒールの音が廊下へ細く響く。

 堂島は少し遅れてついてくる。前へ出るでもなく、後ろを守るでもなく、ただ班の流れを見ている。

 悠人はその間に挟まれる形になった。


 一階へ降りる途中、別の班とすれ違う。


 負け組・甲班だった。

 黒沢が先頭を歩き、美苑たちはその後ろにいる。いや、着いていかされていると言った方が近い。


 黒沢は歩きながら壁を殴り、そのたびに乾いた音を立てた。わざとだ。苛立ちを音にして散らしている。

 美苑は黒沢から一定の距離を取ろうとしているのに、狭い階段ではそれも難しい。

 その顔を見た瞬間、悠人の頭に、前の席で先生が黒板へ字を書いている時、後ろから黒沢がシャー芯を折って笑っていた教室の光景が重なった。


 先生は一度だけ振り向き、何も言えずに、折れたチョークを拾った。

 その横で堂島は座ったまま、足を組み替えるだけだった。

 誰も動かなかった。

 悠人も、見ていただけだった。


「何見てんの」

 黒沢がすれ違いざまに言う。


 声は低い。

 美苑ではなく、今度は悠人へ向いている。

 それだけで、階段の空気が一瞬で固くなる。


「見てない」

 悠人はすぐに答えた。

「そう」

 黒沢はそれ以上言わず、肩をぶつけるでもなく通り過ぎる。

 だが、わざと何もしないのだと分かる“通り過ぎ方”だった。

 いつでもできる。今日はしない。

 そういう気まぐれな行動。


 階段を下りきった時、由良が小さく舌打ちする。


「ほんと最悪」

「うん」

 悠人もそれだけ返す。


 高等部側のエントランスホールは、来た時より静かに見えた。

 人がいないだけでなく、さっき見たはずの行き止まりや塞がれた窓が、もう“最初からそういう建物”みたいな顔をしている。目が慣れてきたせいかもしれない。

 慣れるのが嫌だった。


 寄贈銘板は、玄関脇の柱に埋め込まれていた。

 金属の表面は磨かれていて、年季のある書体で改修年が刻まれている。


「……これだ」

 由良がすぐに言う。

「高等部校舎、最終大規模改修――」

 悠人も横から覗き込む。


 数字を確認する。

 これで終わる。

 終わるはずだ。

 なのに、由良はすぐ答えを書こうとしない。


「どうしたの」

「簡単すぎる」


 その一言で、悠人も少しだけ嫌な感じがした。

 改修年を見るだけなら、一階まで来る意味があまりない。勝ち組へ地図を渡してまでやらせるほどの問題には見えない。


 先生たちは何をさせたいのか。

 校舎を歩かせたいだけなのか。

 それとも、どこかで必ず足を止めるように作ってあるのか。


 白峰は玄関ガラスの方を見ていた。

 外の景色は板の向こうで白く潰れ、山の輪郭もよく見えない。


「……やっぱ変」

 小さく言う。

「こういうとこ、前からこんなだった?」


 その問いに、誰もすぐには答えなかった。

 中等部からいた堂島ですら、銘板の横の壁を見ているだけだ。


 堂島がようやく口を開く。


「前からじゃない」

 短い声だった。

「少なくとも、あの壁は」


 彼が顎で示した先には、廊下の途中をまっすぐ塞いだコンクリートの壁がある。

 “前からじゃない”と言い切ったのは、この班で堂島が初めてだった。

 由良が一瞬だけ、堂島を見る。

 見たあとで、すぐに視線を戻す。


 敵同士みたいな顔をしながら、それでも同じ問題の前では同じものを見る。

 そのぎこちなさが、班という仕組みの嫌らしさだった。


 答えを書き、時間を確認する。

 まだ余裕はある。

 それでも四人はすぐには動かなかった。


 旧校舎の一階は、外からの光が弱いせいか、昼なのに少し夕方に似ている。

 床はきれいだ。壁の塗装も剥げていない。

 なのに、使われている学校の音だけが抜けている。

 笑い声も、教員の靴音も、遠くのチャイムもない。

 学校なのに、学校の時間が止められている。

 そういう静けさだった。


「戻ろう」

 由良が言う。

「二分しかないんだしさ」


 その時だった。


 どこか遠くで、重いものがぶつかるような音がした。


 四人とも顔を上げる。


 音は一度だけではなかった。

 少し間を置いて、もう一度。

 今度は、ドアを強く蹴ったような音に近い。


「……なに?」

 白峰が声を細くする。


 堂島の目が、その瞬間だけわずかに細くなった。

 あの音の意味が分かる人間の顔だった。

 普段の学校生活でも、ああいう音はあった。机を蹴る音、教室の扉を乱暴に開ける音、誰かの苛立ちが物へぶつかる音。

 でもこれは、それより重い。

 建物の奥で、何かが無理やり閉められたみたいな音だった。


 悠人は、無意識に息を浅くした。

 修学旅行の初日の午後だ。

 本当なら、こんな旧校舎の一階で、音の正体を怖がっている時間ではない。


 なのに、いまの四人には、それが少しも不自然に思えなかった。

 最初から、楽しい午後になどなっていないからだ。

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