3章 第1話
ミハイルは腹式呼吸を繰り返していた。
四秒吸う。
止める。
八秒吐く。
鼓動を制御する。
感情を切り離す。
床には割れたウォッカの瓶。
透明な液体が広がり、細かな破片が掌を濡らしている。
微細な痛みが、逆に現実感を与えていた。
落ち着きを取り戻すと、彼は床の紙を拾い上げた。
裏返す。
そこには数字が並んでいる。
199912312359
一続きの十二桁。
「……何の数字だ?」
声がかすれる。
日付か。
座標か。
暗号鍵か。
ミハイルは紙を透明なOPP袋に入れ、作業机の壁へ画鋲で固定した。
証拠として扱う。感情から切り離す。
割れた瓶を片付け、床を拭き取り、PCを起動する。
ブラウザを開き、検索欄に打ち込んだ。
モスクワ連続爆発事件
最上位の記事が表示される。
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国際同時多発爆発か
日本・アメリカ・ロシアでほぼ同時刻に発生
モスクワ発
本日未明、モスクワ市内で二件の爆発が発生した。
現地当局は人的被害を確認しており、詳細な原因は現在調査中としている。
ほぼ同時刻、日本ではテレビ局スタジオ内で爆発が発生。
番組は生放送中で、局は一時的に人質状態に置かれたとの情報がある。
さらにアメリカ南部でも爆発事案が報告されており、三国間での連動性が疑われている。
各国政府はテロの可能性を視野に連携を開始。
国際的な協調捜査体制の構築が急がれている。
現時点で犯行声明は確認されていないが、
「同一犯による世界規模の示威行為」と見る専門家も多い。
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読み終えた瞬間、ミハイルの口から短い声が漏れた。
「……は?」
椅子に深くもたれかかる。
そして、違和感に気づく。
「三国とも、犯行手口が全く違う」
日本は生放送をジャックした。
ロシアは都市部の物理的爆発。
アメリカは詳細不明だが、報道から推測する限り戦術が異なる。
通常、同一犯なら“署名”がある。
爆薬の傾向、思想声明、標的選択。
だが、共通点が見当たらない。
にもかかわらず。
発生時刻だけが異様に一致している。
三国ほぼ同時。
偶然の確率は限りなく低い。
ミハイルは乾いた喉を押さえた。
世界中の大半は、これを同一犯だと信じるだろう。
メディアも、政治も、その方が理解しやすい。
だが――
もし、別々の犯人だとしたら?
思想も動機も違う者たちが、
同じ時刻に、同時に、爆発を起こす。
それは偶然ではない。
同期されている。
その瞬間、壁の数字が視界に入る。
199912312359
1999年12月31日 23時59分。
ミレニアムの一分前。
世界が終わると騒がれた瞬間。
カウントダウン。
“終わりの一分前”。
背筋に冷たいものが走る。
そして、もう一つの疑問が浮かぶ。
なぜ。
なぜ、ただの大学教授である自分に接触してきた?
爆弾の専門家でもない。
政府顧問でもない。
だが。
ミハイルは自分の研究分野を思い出す。
集団行動理論。
群衆心理モデル。
情報伝播と暴動発生確率の数式化。
世界規模の同時爆発。
観測者の増幅。
恐怖の伝播。
これは、物理的破壊ではなく
社会構造の実験。
犯人は、自分の研究を読んでいる。
いや。
利用している。
ミハイルはゆっくりと立ち上がった。
これはテロではない。
これは設計された現象だ。
そして自分は、その設計図の一部に組み込まれている。
夜の静寂が、急に重くなった。




