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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第七章 欧州の火、極東の鉄

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第8話:帰還する白船と、次代の矛

 大正三(一九一四)年、晩秋。

 鉛色の雲が垂れ込める門司港の岸壁は、日の丸の小旗を振る群衆の歓声と、けたたましく鳴り響く軍楽隊の行進曲に包まれていた。

 青島(チンタオ)要塞の陥落を見届けた瑞長財団の病院船『蓬莱丸』が、重い汽笛の音とともに接岸する。傷病兵と捕虜を乗せて内地へと帰還したその威容(いよう)を一目見ようと、近隣から押し寄せた人々で港はごった返していた。

「瑞長さん、万歳! 傷痍軍人(しょういぐんじん)の皆様、よくぞご無事で!」

 初冬の冷たい海風を突いて、熱を帯びた賞賛の声が響き渡る。巨大な白亜の船体は、市井の人々の目には、国家の戦勝と慈愛を体現する象徴として眩しく映っていた。舷梯(タラップ)が降ろされ、包帯を巻いた傷病兵たちが次々と土を踏むたびに、波のような歓声が沸き起こる。


 その数日後。台湾の瑞長財団本部、設計理事の執務室。

 康政は、重厚な机に広げられた分厚い青島戦役の報告書に、ただ静かに目を落としていた。

 紙面から立ち上ってくるのは、彼が机上で計算していた安全な後方医療という前提を冷酷に打ち砕く現実だ。

 負傷者の急増と前線の混乱。そして何より康政の胸を(えぐ)ったのは、人員不足に対応するため、まだ十六歳のアリスら病院船の職員を、赤十字の規定を超えて陸上の塹壕(ざんごう)へ直接的な衛生兵として派遣せざるを得なかったという事実が(つづ)られていたことだった。

「……私は、何を思い上がっていたのでしょうね」

 康政は、インクの染み込んだ紙面を撫でるように指を這わせ、自嘲気味に呟いた。

 兵站(へいたん)の数字を整え、最新の医療設備を用意しさえすれば、戦場を無菌室のように制御できると思い込んでいた。だが、歴史とは机上の数字ではない。その見通しの甘さが、自らの手足となる医療陣を泥濘(ぬかるみ)の底へ突き落としてしまった。

 温和な表情の裏側で、静かな自己嫌悪が彼の胸をじりじりと焼いている。


 執務室の扉が控えめにノックされ、アリスが入室してくる。

 報告のために呼ばれた彼女の顔色は抜けるように白く、かつての溌剌(はつらつ)とした面影は薄れていた。丁寧に結われた金糸の髪もどこか生気を失い、その瞳の奥には、凄惨(せいさん)な戦場を見た者特有の深く暗い影が落ちている。

 康政が労うように紅茶を勧めると、彼女は力なく会釈し、温かい白磁の茶器を両手で包み込んだ。

「……アリス。君はもう、十分に戦ってくれました。間もなく特務艦隊に随伴して向かう地中海派遣には行かず、しばらく台湾に留まって後進の育成に当たってほしいのです」

 康政は、彼女が背負い込んだ心の重荷を気遣い、ひどく穏やかな声で提案した。

 だが、茶器を見つめていたアリスの瞳が静かに上がり、そこには折れることのない強靭な光が宿っていた。

「いいえ。私は、あの船を降りません」

「今の君の心身は、深い疲労に沈んでいるはずです。少し、休んだ方が……」

「青島で切り落とした彼らの腕の重さが、今も両手に残っています。目を閉じれば、消毒用の石炭酸(せきたんさん)と、むせ返るような血の匂いが蘇ります」

 アリスは、器を包む手に静かに力を込めた。取り乱す様子はない。自らに刻み込まれた記憶に真正面から向き合い、それを背負って生きていく覚悟を決めている者の顔だった。

「……でも、だからこそ私は降りないのです。私が逃げれば、次の戦場でまた別の誰かが死ぬ。血に塗れた甲板こそが、私の戦場です。康政君は……どうか、ご自分の戦いをしてください」

 その悲痛なまでの決意に、康政はそっと目を伏せた。

 現場の人間が、己の精神をすり減らしながら惨状に耐え抜こうとしている。ならば上に立つ者が為すべきは、安全圏から同情の言葉をかけることではない。自らの持ち場で、為すべき仕事を果たすことだ。



 数日後、財団本部の明るい役員会議室。

 康政は、当主である和也をはじめ、居並ぶ役員たちを前に、三つの巨大な事業戦略を立て続けに提案した。

「第一に、これまで外用薬のみに留めていたペニシリンの特許方針を転換し、点滴仕様および経口薬の製造特許を、日本の主要な製薬会社へ有償で広く解放します」

 康政の静かな声が響く。これにより、日本全国の工場が「瑞長規格」の元で一斉にペニシリンの増産を開始する。国家規模の医薬品供給網が構築されると同時に、多額の特許料が財団の金庫へと還流してくるはずだ。

「第二に、その特許益の使い道です。政府は海軍特務艦隊の地中海派遣を決定し、我々はその莫大な兵站を負担します。これを機会に、陸軍と海軍でバラバラになっている武器弾薬の規格を揃えるための、地ならしに使います」

 康政は穏やかな笑みを浮かべたまま、自らの経済戦略の核心を語り始めた。

「我々がお抱えとしているサミュエル・ミラー技師が開発した瑞長式工作機械を、各軍の工廠(こうしょう)や市井の下請け工場へ、利益を度外視した分割払いで納入します。使い勝手の良い瑞長式の機械で生産現場を独占してしまえば、彼らが削り出すネジ一本、弾丸一発の規格に至るまで、おのずと我々の規格に収束していくはずです」

 砲火を交えることもなく、ただ経済と流通の手法を用いて大日本帝国という国家の軍事基盤を塗り替えようとするその発想に、当主の和也でさえ背筋が寒くなるのを覚えた。

「そして第三に。敵味方の犠牲を抑え、無用な殺し合いを早期に終結させるためには、新しい領域への参入が必要です。これより我が財団に、新たに『兵器部門』を新設いたします」

 索敵や防御兵器はもちろんのこと、敵の拠点を正確に狙い撃つ無人誘導兵器の開発。その青写真に対し、康政は一つの事業計画として承認を取り付けた。


 会議の終了後。康政は、技術部門を束ねる牧野博士と小暮助手を呼び止めた。

「誘導兵器の構想ですが、牧野博士たちが開発に成功したあの『小型真空管』を組み込めないかと考えています、まだ机上の空論に過ぎませんが」

「康政様、それは難題ですぞ」

 牧野博士が顎髭を撫でながら、渋い顔をした。

「姿勢制御には計算回路が必要ですが、ガラスの真空管では、大砲のすさまじい衝撃や振動で容易に砕けてしまいます」

「ええ、おっしゃる通りです。ですから、その工夫をお願いしたいのです」

 康政は、技術者たちの懸念を優しく受け止めながら、一つの現実的な素案を提示した。

「いずれ数十年後には、ただの石の結晶が電子を制御する時代が来ます。その基礎研究は、時間をかけて進めてください。ですが、当面の課題として……たとえば、特殊な鉄芯と銅線だけで信号を増幅させる『磁気増幅器』ならば、発射の衝撃にも耐えられるのではありませんか? それでも微小な回路が必要な箇所には、完成した小型真空管を衝撃吸収用の合成樹脂で丸ごと固めてみるなど、いくつか試していただきたいのです」

 口調はどこまでも丁寧で、物腰は柔らかい。しかし、彼が指し示しているのは、今ある技術の力技で数十年先の概念を形にしようという、前例のない開発の道筋だった。


 同じ頃、台北帝国大学の一室では、ある静かな報告が行われていた。

 軍学の講師を務める秋山真之の前に立っているのは、海軍少佐の米内光政と大尉の高野五十六である。秋山の先見の明によって台湾へ呼ばれ、青島戦役の連絡武官(れんらくぶかん)として瑞長の病院船に同行していた二人は、帰還の報告に訪れていた。

「瑞長財団の病院船と医療物資の運用は、見事としか言いようがありませんでした。彼らの築いた救護体制がなければ、死傷者は優に数倍へと膨れ上がっていたはずです」

 米内の報告に、高野も深く頷く。だが、彼らの表情は一様に重かった。

「しかし教官。近代兵器がもたらす負傷者の数は、我々の想定をはるかに超えていました。どれほど優れた後方支援があっても人員が追いつかず、ついには財団の民間職員までが塹壕に駆り出される事態となりました」

 報告を黙って聞いていた秋山は、細い煙草の煙をゆっくりと吐き出した。

「機関銃と榴散弾(りゅうさんだん)が支配するこれからの戦争は、これまでの局地戦とは違う。一国の生産力と兵站のすべてをすり潰す、泥沼の総力戦になる」

 秋山は机上の書類を揃え、二人の武官を鋭く見据えた。

「お前たちは内地へ戻り、これから地中海へ向かう特務艦隊の首脳陣へその現実をありのままに報告せい。……だが、その前に行っておくべき場所がある」


 その日の午後。秋山の指示を受けた米内と高野は、瑞長財団の工廠に足を踏み入れていた。

 真新しい旋盤(せんばん)が滑らかな音を立てて金属を削り出す様を、二人は静かな驚きと共に見つめている。

「切削の精度もさることながら、操作の合理化が徹底されている」

 削り出されたばかりの金属部品を指で撫でながら、高野が感嘆の息を漏らす。航空機や艦船の兵站に高い関心を持つ彼は、この機械がもたらす量産効果を瞬時に理解していた。

「これほどの工作機械を、利益度外視の分割払いで海軍の工廠に納入していただけると?」

「ええ、高野大尉。海軍の生産力向上に貢献できればと」

 案内役を務める康政が穏やかに頷くと、傍らで腕を組んでいた米内が、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「康政さん、あなたは相変わらず食えないお人だ。……こんな便利なものを各工廠にばら撒けば、現場の職工たちはあっという間に瑞長の機械なしでは立ち行かなくなる。いずれ海軍の砲弾も部品も、すべて『瑞長規格』に飲み込まれることになりますよ」

「とんでもない。私共はただ、良質な機械を使いやすく提供しているだけです」

 康政が微笑み返すと、米内は小さく肩をすくめ、高野と顔を見合わせた。病院船の上で、これからの総力戦に必要な物量と生産体制の差を見せつけられた二人である。

「まあいいでしょう。陸軍との規格違いで現場が泣かされるよりはずっとマシだ。その甘い毒饅頭(どくまんじゅう)、海軍の方でもありがたく飲み込ませてもらいましょう」

 開明的な彼らは、康政の真意に気づきながらも、それがもたらす国益の大きさを理解し、あえて共犯者となる道を選んだ。規格統一という壮大な地ならしは、静かに、しかし確実に動き始めていた。



 その年の十二月末。

 康政は、台湾にあるサミュエル・ミラーの邸宅を個人的に訪問していた。

 暖炉の火が静かに爆ぜる客間で、康政は米国出身の優秀な生産管理技師に対し、深く頭を下げていた。

「サミュエル。……まだ十六歳のアリスさんを、あのような過酷な前線に立たせてしまったこと、財団の責任者として心よりお詫びします」

 康政の謝罪に対し、サミュエルは静かに首を振った。

「頭を上げてください、康政様。あれは、娘自身が決めたことです」

 精密旋盤(せいみつせんばん)と量産化の専門家として、財団の新たな工作機械戦略の要を担うこの実直な男は、台湾の地で逞しく育った娘の芯の強さを誇るように、穏やかに微笑んだ。

「アリスは、自分の仕事に誇りを持っています。親としては心配ですが……娘の意志を、私は尊重したいのです」

「……ありがとうございます。せめてこの年末年始は、ご家族でゆっくりと、穏やかな時間を過ごしてください」

 康政は、二人の親子の強さに深い敬意を抱きながら、静かに邸宅を後にした。



 年が明け、二月末。

 台湾の港には、内地から回航されてきた帝国海軍の特務艦隊と、それに随伴すべく出港の準備を整えた瑞長財団の船団の姿があった。

 莫大な石炭と糧秣(りょうまつ)を満載した十数隻の輸送船団。だが、疲弊した医療大隊の休養に伴う人員交代を考慮し、今回ダーダネルス海峡へと向かう病院船は、一隻のみである。家族との穏やかな日々を経てもなお、アリスはその一隻に乗り込み、再び硝煙の立ち込める戦場へと向かおうとしていた。


 舷梯(タラップ)の前に立つ彼女の元へ、海風にコートの裾を揺らしながら康政が歩み寄る。

「康政君。お見送りに来てくださったのですね」

「ええ。それに、これを直接渡しておきたくて」

 康政が視線を向けた先では、作業員たちが慌ただしく木箱を病院船の底だけではなく、隣に停泊する何隻もの輸送船へと運び込んでいる。木箱の側面には、真新しい『瑞長規格』の焼印が押されていた。

「国内の製薬会社に特許を解放して増産させた、新しい点滴仕様と経口薬のペニシリンです。初回生産分が、ようやく君たちの出港に間に合いました」

 アリスは少し目を瞠り、次いで、張り詰めていた肩の力を抜くように柔らかく微笑んだ。

「ありがとうございます。これがあれば、あの時よりずっと多くの命を救えます」

 康政は、次々と積み込まれていく木箱を静かに見つめながら、穏やかな声で応えた。

「今の私には、この薬を持たせて見送ることしかできません。……どうか、無事で」

「はい。いってまいります」


 長く響く汽笛とともに、白亜の病院船と瑞長の船団がゆっくりと岸壁を離れていく。

 康政は、その光景を静かに見送っていた。

 新兵器は、今の彼の手にはない。それでも、経済と生産の力で捻り出した確かな成果が、今あの船に乗って現場の命を支えようとしている。

 やがて、水平線の彼方に船団の姿が溶けて見えなくなるのを見届けると、康政はふっと静かに息を吐き、きびすを返した。

「さあ、我々も仕事に戻りましょう」

 傍らに控える側近に短くそれだけを告げ、若き設計理事は、自らの持ち場である執務室へと淡々と歩き出した。


 四月。


 台湾・台北に建つ新城邸は、朝からどこか浮き足立ったような、暖かな喧騒に包まれていた。

 吹き抜けの玄関に、艶やかな黒革の背嚢(ランドセル)を背負った小さな足音が響く。


「お兄様、どうかしら」


 真新しい紺飛白(こんがすり)の着物に、海老茶色の(はかま)を合わせた沙絵子が、少しはにかみながらくるりとその場で回ってみせた。満六歳を迎え、今日から台北の尋常小学校へと通う晴れ姿である。


 その小さな姿を前に、康政は片膝をつき、まるで壊れ物を扱うかのような手つきで妹の袴の(ひだ)を真っ直ぐに直した。

「よく似合っているよ、沙絵子。世界中の誰よりも愛らしい」

「ふふ、ありがとう」

「だが、襟元の合わせがまだ少し緩い。それから、道中で転んだ時のために、やはり膝当てを縫い付けておくべきだったか……いや、そもそも僕が毎日、学校の教室まで送り迎えをすれば……」

「お兄様、学校には一人で歩いていくのよ?」

「む……」


 ぶつぶつと真剣な顔で呟く兄の言葉に、沙絵子が小首を傾げる。目に見えない塵を払うように妹の肩を撫で続ける康政の様子に、奥の階段を下りてきた母の和子が、困ったように、しかしひどく優しげな笑みをこぼした。


「康政。あまり構いすぎると、着崩れてしまいますよ。それに、沙絵子はお友達をたくさん作るのを楽しみにしているのですから、お兄様が睨みを効かせていては皆が逃げてしまいます」

「母上。私はただ、この無垢な宝物を脅かす万が一の危険を排除しようと算盤(そろばん)を弾いているだけでして」

「それを世間では『過保護(かほご)』と呼ぶのだ、康政」


 玄関の奥、書斎の扉から低い声が響いた。

 仕立ての良い三つ揃え(スリーピース)の背広に身を包んだ和也が、懐中時計の蓋をパチンと閉じて歩み寄ってくる。普段は財界の化け物たちや軍部を相手に冷徹な交渉を繰り広げている男の顔には、今はただ、年相応の父親としての柔らかな皺が刻まれていた。


「お父様!」

 沙絵子が弾んだ声で駆け寄ると、和也はその小さな体をひょいと抱き上げた。

「重くなったな、沙絵子。その革鞄は、お前にとって初めての自分の荷物だ。しっかりと背負って歩きなさい」

「はい!」


 太陽のような笑顔を向ける妹と、笑顔の父。

 その光景を見つめながら、康政は静かに立ち上がり、自分の背広の襟を正した。


 康政の頭の中には、すでに欧州で火蓋を切った大戦の行方と、数年後に訪れるであろう巨大な経済のうねりが、緻密な数字の羅列となって渦巻いている。海の外では、連日何万人もの命が紙屑のように散っていた。

 この小さな妹が、大人になる頃の帝国はどうなっているか。列強という巨大な波に飲まれ、過酷な辛酸(しんさん)を嘗めるような時代が来るかもしれない。


(……だからこそ、私が防ぐ)


 康政は、沙絵子の背中にある小さなランドセルを見つめながら、己の奥底で静かに、そして冷酷に決意の炎を燃やした。

 どれほど手を汚し、どれほど世界の富を強引に吸い上げようとも。この愛らしい妹が、ただ友人と笑い合い、春の陽だまりの中を安全に歩ける国を作る。そのための盤面を築くためならば、自分は喜んで悪魔の算盤を弾こう。


「さあ、行くぞ。遅刻しては大変だからな」

 和也が沙絵子を床に下ろし、和子がその小さな手を優しく引く。


 南国の柔らかな春風が、玄関の扉から吹き込んだ。

 和也の背後を歩きながら、康政はいつもの温和な笑みを浮かべ、妹の小さな歩幅に合わせてゆっくりと、家族と共に式典へと続く道を歩み出した。

読んで頂きありがとうございます。

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