第7話:ロンドンからの電信と、老宰相の決断
大正三(一九一四)年、十一月十五日。
帝都・東京の空は、冬の気配を孕んだ冷たい鉛色に覆われていた。だが、街頭の熱気は季節を忘れさせるほどに沸騰している。
カラン、カランとけたたましく鳴り響く鈴の音とともに、新聞社が放った号外が紙吹雪のように宙を舞う。人々は争うようにそれを掴み取り、インクの匂いも生々しい紙面に食い入るように目を落とした。
青島要塞陥落の報せから数日を置いて、列車で内地へと届けられた『極東公論』の特報が紙面を躍っていた。
そこを占めていたのは、粗い網点写真と熱を帯びた従軍手記だ。泥濘の塹壕で、無数の敵弾を前にしても一歩も引かず、国のために微笑んで散っていった陣内中尉の勇壮なる最期。そして、血泥にまみれた兵士たちを救うため、弾雨の向こうから駆けつけた瑞長財団の白亜の病院船『蓬莱丸』の威容。
街頭で飛ぶように売れているのは、極東公論だけではない。東京日日や報知といった既存の大手各紙も、こぞって極東公論から写真の転載権を買い、一面で陣内中尉の美談と瑞長財団の偉業を書き立てていた。
「愛国心」と「英雄賛美」は、最も安上がりで、最も手堅く部数を伸ばす阿片に他ならない。瑞長を褒め称え、軍の勝利を誇張すれば新聞が売れるという事実が、すべての活字媒体を狂わせていた。結果として、日本中の新聞が示し合わせたかのように同じ論調に染まり、巨大な反響室となって「帝国万歳」「瑞長万歳」の声を何倍にも増幅させていた。
東京にある学生下宿の一室で、他社の新聞記事を並べて読み比べていた橘響子は、ふと背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
「……恐ろしいお方だ」
響子は、紅いルージュを引いた唇から微かな吐息を漏らした。
康政は、自社の新聞だけで世論を作ったのではない。既存の新聞各社が自らの利益のために、進んで瑞長の喧伝に加担する仕組みを構築していたのだ。大衆の無邪気な熱狂を計算し尽くし、日本という国家の感情そのものを手中に収めてみせた若き次期当主の底知れぬ知略に、響子は畏怖の念を抱かずにはいられなかった。
だが、その熱狂の渦から遠く離れた東京の政府中枢――首相官邸の奥深くにある重厚な会議室では、葉巻の紫煙と、息が詰まるほどの重苦しい沈黙が立ち込めている。
世間の熱狂が最高潮に達したこの絶好の、いや、政府にとっては最悪の時機を見計らったかのように、同盟国であるイギリスから一通の極秘公電が届けられたのだ。
『中東欧州戦線、オスマン帝国ヘノ牽制ト、ダーダネルス海峡、ガリポリ方面ヘノ上陸支援ニアタリ、大日本帝国海軍ノ地中海派遣オヨビ艦隊ノ全面支援ヲ強ク要請スル』
「到底、飲める話ではない……」
大隈内閣の閣僚の一人が、絞り出すような声で呻いた。卓を囲む陸海軍の首脳陣も、一様に苦渋の色を浮かべている。
「青島を落としたばかりで、我が国の国庫は底を突きかけておる。その上、トルコ周辺の波は荒い。あのような遠い死地に艦隊を派遣し、作戦を継続させるなど、補給用の石炭も随伴する輸送船もなしには、兵站上、不可能というものだ」
「同盟国とはいえ、遠く離れた欧州の泥沼にこれ以上、帝国の血と金を注ぎ込む道理はない。丁重に辞退の返電を打つほかなかろう」
史実という冷酷な重力に従うならば、この議論の帰結は「拒絶」一択である。
しかし彼らは、分厚い窓ガラスの向こうから微かに聞こえてくる「帝国万歳」「これで一等国の仲間入りだ」という世論の熱気との板挟みになっていた。今ここで要請を無下に断れば、戦勝に沸く国民の熱狂に冷水を浴びせ、ひいては国際社会での孤立を招く。強烈な政治的行き詰まりと焦燥感が、彼らの胃の腑を締め付けていた。
同じ頃、新城家の私室には、しんと静まり返った時間が流れていた。
康政は、父・和也と向かい合い、かすかに湯気を立てる茶器の横で、卓上に広げられた朝刊に静かに目を落としている。
「他紙もこぞって、我々の手記を取り上げているな」
和也が、遠くから聞こえる群衆の歓声を背に受けながら低く呟いた。
「ええ。これでもう、政府や軍に『国民感情が許さない』という逃げ道はありません」
康政は、冷めかけた茶を一口すすり、淡々と答える。
「彼らに残された拒絶の口実は、金と船がないという『兵站の限界』のみ。……乃木大将を通じての手筈はすでに整えてあります。あとは、舞台が回るのを待つだけです」
康政の静かな声に、野心や高揚感は微塵もない。彼の瞳の奥に沈んでいるのは、自らの手で同胞を地中海という未知の戦場へと送り込まねばならないという、果てしなく重い十字架への覚悟だけであった。
横浜、金沢八景。冬の冷たい海風が吹き付ける静かな別邸の一室で、一人の老人が書簡を手に深く息を吐いていた。
伊藤博文の姿がそこにあった。
ハルビンでの暗殺未遂という死の淵から生還し、近く台湾視察を控えるまでに気力を回復させていた彼は、傍らに座る児玉源太郎と共に、康政からの書簡を前に密談を交わしていた。
「……ここでイギリスの要請を蹴れば、日英同盟は遠からず死文と化す」
伊藤の嗄れた声に、児玉も鋭い眼光を光らせて重々しく頷いた。
「ええ。欧州の列強が血を流している最中に極東で殻に閉じこもれば、戦後、我が国は世界の外交から除外される。二十年、三十年後、孤立した帝国が食い潰される日が来るでしょう」
二人は、日本という国家の行く末を正確に見据えていた。この国が数十年先も生き残るためには、今、欧州へ赴き同盟国の義務を果たすしかない。
「だが、近視眼的な政府や軍は、目先の金と船がないと泣き言を並べて国策を誤るだろう。……だからこそ、瑞長の小僧は自らの懐を切り裂いて、我々に『兵站の道筋はついている』という無類の鉾を手渡してきた」
伊藤は、書簡を握りしめた。
「軍の誇りを青島で買い取り、世論を縛り、我々の退路を断つために外堀を緻密に埋めてみせたのだ。……この老骨を、国策を覆すための道具として使うつもりだな」
この劇薬を飲めば、数え切れないほどの日本の若者が、見知らぬ異国の海で命を懸けることとなる。しかし、飲まねば数十年後に国家そのものが滅びる。
「……どれほどの犠牲を払ってでも、幕を引かねばなるまいな」
伊藤は、老いた体を鳩杖で支えながらも、自らの足で力強く立ち上がった。児玉も無言でそれに続く。二人は、冷たい風の吹く東京行きの馬車へと乗り込んだ。
「――以上が、我が帝国の公式回答である。イギリス政府には、遺憾ながらも辞退の旨を……」
閣議室で、外務大臣が重い口調で拒絶の決定文書を読み上げようとした、まさにその時だった。
部屋の重厚な扉が、無遠慮に押し開かれた。
「待たれよ」
居並ぶ閣僚たちが、一斉に息を呑む。
そこに立っていたのは、すでに政界の第一線から退き、別邸で隠棲しているはずの、帝国最古参の巨魁――伊藤博文と、その斜め後ろに控える児玉源太郎の姿であった。
「い、伊藤公……!? なぜここに」
「ここで同盟国を見捨てて、帝国の二十年後、三十年後があると思っておるのか!」
伊藤の一喝が、重い空気の立ち込める室内に雷鳴のように響いた。
「欧州が血の海となっておる今、極東の島国が殻に閉じこもれば、我が国は早晩、世界から果てなき孤立を招く! 孤立した帝国が、いずれ迫り来るであろう外敵の牙から、どうやって己の身を守るというのだ!」
国家存亡の危機を突いた大局からの叱責に、軍部の人間がたまらず反論の声を上げた。
「そ、それは痛いほど承知しております! しかし、現実問題として不可能なのです! トルコ方面の地中海まで艦隊を派遣し、これを支え続ける大洋航路の補給船など、我が国にはありませぬ! 莫大な戦費も、艦隊を動かす膨大な石炭もない!」
「船がない? 金がない? それが国家の未来を投げ捨てる理由か!」
児玉源太郎が一歩前に出て、冷徹な声で政府の言い逃れを一刀両断した。
「その物理的懸念ならば、すでに解決の道筋がついておる! 民間の瑞長財団が、すでに補給船団を組み、ロンドンの市場に信用状を打って石炭と病院船で帝国の血路を開こうと腹を括っておるのだ!」
伊藤が鳩杖で絨毯を激しく叩きつけた。
「一民間企業が国の未来を背負おうという時に、帝国政府が『金がない』と尻込みしてどうする! 民間が敷いた兵站の上を歩くことを恥じるな! どの様な犠牲を払ってでも、今は欧州へ行かねばならんのだ!」
国家の命運を数十年先まで見据える老兵たちの途方もない気迫。そして、彼らが最後の刃として突きつけた盤石たる兵站の担保。
もはや「物理的に不可能」という唯一の逃げ道すら容赦なく絶たれた政府首脳陣は、押し寄せる重圧の前に、ただ押し黙るほかなかった。
「……これより、回答を修正する。我が帝国はイギリス政府の要請を受諾し、特務艦隊の地中海派遣を決定する」
日本の運命が、音を立てて史実の軌道から外れた瞬間が刻まれた。
政府の方針が「受諾」に転じたという一報が瑞長財団本部に届いたのは、その日の夕刻のことだ。
報告を受けた康政の表情に、喜びや達成感は見当たらない。彼はただ、執務机の前に深く腰を沈め、無言のまま窓の外の暮れゆく空を見つめていた。
地中海という過酷な死地へ向かう艦隊と将兵たちのために、膨大な量の石炭や糧秣を掻き集め、自らが保有する病院船の派遣を静かに決断した。彼らをその遠い海へ送るよう政府を追い詰めたのは、他ならぬ自分自身なのだ。しんと静まり返った室内には、ただ柱時計が時を刻む音だけが虚しく響いていた。
「これで、もう後戻りはできなくなりましたね」
康政は、窓の外から目を離さぬままポツリと呟く。
「ああ。果てしない茨の道だ」
和也が、息子が背負い込んだ業の深さを分かち合うように、低く静かに応えた。
窓の外からは、新たに配られた号外を手にした群衆の、明るく無邪気な歓声が響き渡っている。
「大日本帝国万歳!」
「これで一等国の仲間入りだ!」
外の熱狂が明るければ明るいほど、私室を満たす静寂はひどく重く、そして冷え切っていた。康政はただじっと、これから先の途方もなく長い道のりを見据えるように、静かに目を閉じた。
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