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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第6章:紅き血の誓約と、血を流さぬ覇道

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第12話:鋼鉄の箱舟と、静かなる毒

 大正二(一九一三)年、晩秋。

 台湾北部の要衝、基隆キールン港には、冷たい秋雨が絶え間なく降り注いでいた。

 すでに稼働を始めている潜水艇救難艦の特設突堤から少し離れた高台に、瑞長財団の造船部門の中枢を担う「大設計室」がある。窓を打つ雨音に混じり、遠くから重低音の鋲打ちの響きが絶えず轟いていた。それは船を造る音ではない。来るべき量産体制に向け、陸上で巨大な鋼鉄の接合試験を繰り返している、工員たちの血のにじむような試行錯誤の音であった。


 煙草の煙と熱気が充満する設計室の巨大な卓上には、何十枚もの青図が広げられていた。

 卓を囲むのは、康政、そして静かに葉巻を燻らせる父・和也。さらに、秋山大佐が軍から引き抜いてこの地に残していった、海軍技術廠出身の若き技師たち。

 そして彼らの中央で、腕を組み、鋭い鷹のような眼光で青図を睨みつけている筋骨隆々の男がいた。

 造船・火工親方、荒金源三。かつて海軍工廠で凄腕として鳴らし、今や瑞長財団の荒くれ者たちを束ね、鋼鉄の竜骨を打ち鳴らす現場の最高責任者である。


「康政様よ。こいつぁ、冗談で引いた図面じゃねえな」

 荒金は、節くれ立った太い指で、青図に描かれた『新城型貨物船・第一型』の断面図を強く叩いた。

「徹底的に曲面を排除した、直線の船体。意匠の類は皆無。一万トン級の巨船を、まるで金太郎飴のように規格化しちまうってのか」

「ええ、その通りです、荒金親方」

 康政は、温和な笑みを浮かべつつも、その瞳には一切の揺らぎがない冷徹な光を宿して頷いた。

「高雄のドック郡が完成した暁には、この図面を基に、年六から十隻の速さで一万トン級の船を産み落とします。熟練の職人技が必要な箇所は極限まで減らし、未熟な工員でも分担ごとに組み上げられる徹底した『規範設計』。それが新城型の思想です」


 その言葉に、海軍から来た若き技師の一人が、たまらず声を上げた。

「無茶です! 船体を箱型にするだけならまだしも、この機関設計は何ですか! 一万トン級の貨物船に、高雄工廠製の重油専焼ギヤード・タービンを積んで『巡航十五ノット』? 燃費が悪すぎます。安価な石炭で八から十ノットで走るのが貨物船の常識です。これでは採算が合いません!」


「黙ってろ、青二才が」

 荒金の低く地を這うような一喝が、若手技師の抗議を遮った。

 荒金は図面から顔を上げず、食い入るようにその細部を読み解きながら、獣のような笑みを漏らした。

「お前らには、この図面が描く『地獄』が見えねえのか。……康政様、あんた、十二ノットじゃあ『殺される』と言いてえんだな」


「ご慧眼です、親方」

 康政は、四枚の異なる図面を並べた。

「第一型は、同じ船体構造を持ちながら、上部構造と内装を変えることで四つの役割を持ちます。型式Aは汎用貨物船。Bは原油タンカー。Cはコンテナ船。そしてDはばら積み船。……これらすべてを、巡航十五ノットで走らせます。間もなく、海は潜水挺の狩り場になる。彼らの水上速力はせいぜい十四、十五ノット。我々が十五ノットを維持すれば、彼らは浮上して追いつくことは物理的に不可能です。そして、待ち伏せの雷撃に対しても、之字しのじ運動を交えることで照準を狂わせる。護衛の軍艦不要の、生存率を持った輸送を実現するのです」


 若き技師たちは息を呑んだ。

「さらに、重油専焼の最大の理由は省力化だけではありません。石炭船のような巨大な黒煙を上げない『無煙航行』による、徹底した対潜秘匿です。水平線越しの敵の目を奪い、足を振り切る。そして……」

 康政は、もう一枚の青図を広げた。

「十五ノットを維持したまま、航跡を追う形で後方縦列給油を行う給油艦も、一対の兵站網として一括して建造します。速度を落とすという最大の隙を、海上で一切見せないための仕組みです」


「だが康政様」と、別の技師が震える声で問う。

「いくら沈まないとはいえ、これほど高価な船を一括で揃える費用、一体誰が払うのですか」


「イギリスですよ」

 康政は、窓の外の荒れる海を見つめて答えた。

「イギリスには、この輸送艦と給油艦をひと揃いの『生存の体系』として、彼ら自身に売り渡すのです」


 答えたのは、父・和也だった。

「安価な石炭船が次々と海のもくずとなる中、費用が数十倍に跳ね上がろうと、確実に食糧と物資を届ける『絶対の生命線』を自ら持ちたいと、彼らは切望するようになる。我々の造るこの兵站の仕組みを、イギリス海軍自身に運用させるのだ。彼らが我々の技術体系に依存し、その恩恵を骨の髄まで味わえば、もはや生殺与奪は我々が握ることになる。領土など要求しなくとも、彼らは二度と我々を、そして日英同盟を手放せなくなるだろう」


 技師たちの頭にあった「美しい船を造る」あるいは「採算を取る」という常識が、康政の冷酷なまでに壮大な国家規模の生存・兵站思想によって粉々に打ち砕かれた瞬間だった。


「だが、俺が一番震えたのはそこじゃねえ」

 荒金が、図面の一角――船員の『居住区』の図面を指差した。

「電動送風機による強制換気。主機の廃熱を利用した温水淋浴(シャワー)。氷と簡易冷却機を備えた冷蔵設備。乗員定数の救命艇……おいおい、どこの豪華客船だ。一万トンの無骨な鉄の箱舟に、海軍の将官すら羨むような設備を標準で組み込んでやがる」

「はい。過酷な南方の海、あるいは戦時下の不衛生な寄港地において、船員を病や疲労から守るためです」

 康政の言葉に、父・和也が静かに口を開いた。

「船は鉄の箱でいい。だが、それを動かす人間は消耗品ではない、ということだ。船員を生かして、必ず家族の元へ帰す。その確かな安全と衛生の保証こそが、極限状態での士気を維持し、結果として最も効率の良い運航を実現する。……そうだろう、康政」

「父さんの仰る通りです。私は、人間をすり潰すための道具ではなく、人を守り抜くための『救済の機関』を造りたいのです」


 荒金は、深く息を吐き出し、天井を仰いだ。

「参りましたよ。のっぺらぼうの鉄の箱だと思ったが、こいつぁ、船乗りへの慈しみに溢れた、世界一温かい船だ。海軍の常識なんざ、もうどうでもいい」

 荒金は拳を強く握り込み、康政に向かって獰猛に笑ってみせた。

「やってやろうじゃねえか。物理法則と時間を相手取った大喧嘩だ。高雄のドックが完成するまでに、基隆の連中を徹底的に鍛え上げ、部材の規格化を仕上げてやる。若君の想い描く『通商の大路』、この荒金源三が、必ず形にしてみせますぜ」

「頼みにしています、親方」

 熱気渦巻く基隆の大設計室。彼らはまだ見ぬ世界大戦という巨大な嵐に向かって、強固な盾を築き始めていた。



 同じ頃、基隆から遠く離れた台北郊外。

 瑞長財団の化学研究所が隣接する、広大な竹林の奥深く。港の鉄と重油の匂いとは対極にある、むせ返るような青々としたとした竹の香りと、それを焦がす香ばしい煙が周囲に立ち込めていた。

 白衣に身を包んだ白石医師は、特設された耐火煉瓦の巨大な釜の前に立ち、燃え盛る炎の温度計を険しい表情で見つめていた。


「温度、摂氏八百度! 水蒸気、送ります!」

 助手の研究員がバルブを回すと、釜の中に高圧の蒸気が勢いよく吹き込まれ、けたたましい咆哮が上がった。

 彼らが行っているのは、単なる炭焼きではない。台湾に自生する孟宗竹や麻竹を千度近い高温で炭化させ、さらに高温のガスや水蒸気と反応させる『賦活ふかつ』と呼ばれる最先端の化学処理であった。

 この工程を経ることで、炭の内部には目に見えない微細な孔が無数に形成される。一グラムあたり、実に庭球場(テニスコート)数面分にも及ぶ圧倒的な表面積を生み出し、空気中のあらゆる不純物や化学物質を強力に吸着する『活性炭』が誕生するのだ。


 やがて釜が冷まされ、引き出された真っ黒な竹炭の破片を、白石はピンセットで慎重につまみ上げ、顕微鏡のレンズの下に置いた。

「見事だ。完璧な多孔質構造が形成されている。吸着能力は、これまでのヤシ殻炭の比ではない」

 白石の呟きに、研究員たちは歓声を上げた。しかし、白石の顔に喜びの色はない。むしろ、その背中には得体の知れない恐怖による悪寒が走っていた。


「順調のようですね、白石先生」

 背後から穏やかな声が響いた。雨を避けて外套を羽織った康政が、竹林を抜けて視察に訪れたのだ。

「康政様……ええ。ご指示通り、台湾の竹を用いた最高純度の活性炭の製造に目処が立ちました。ですが、これはまだ試験段階に過ぎません。これを詰め込む濾過缶や、顔面に密着させるゴム製の防護面を量産するには、さらなる月日と工夫が必要です」

 白石は、卓上に置かれた、豚の鼻のように突き出した吸収缶を持つ異形の防護面の試作品を見つめた。

「ですが、康政様。私は医師として、どうしてもお伺いしたい。ペストや結核菌の防護にしては、あまりにも過剰な装備です。あなたは一体、何から我々を守ろうとしているのですか」


 竹林を縫う冷たい秋風が、二人の間を吹き抜けた。

 康政は、手の中の真っ黒な活性炭を見つめながら、ひどく悲痛な声で静かに語り始めた。

「白石先生。文明が極まり、科学が発展した果ての戦争は、騎士道など存在しない、ただの処理になります。……間もなく、海を越えた欧州の地で、人類はかつて経験したことのない地獄の釜の蓋を開ける。爆薬で殺しきれなくなった時、彼らは『空気』を武器にするのです」

「空気を……?」

「皮膚を爛れさせる糜爛びらん性の毒霧や、肺を焼く塩素のガス。……それが、私の見据える未来の戦場です」


 白石は絶句した。ハーグ陸戦条約で毒物の使用は禁じられている。文明国同士の誇り高き戦争で、自らも風向き一つで全滅するような非人道的な兵器が使われるなど、当時の常識では到底信じられない狂気だった。しかし、目の前に立つ青年の予知が、これまで一度たりとも外れたことがない事実が、白石の理性を恐怖で凍りつかせた。

「だからこそ、備えなければならないのです。我々の医療大隊が、患者を救う前に毒の霧に飲まれてはならない。船を動かす船員たちが、致死の空気に触れてはならない。……この黒い炭だけが、彼らの呼吸を、命を繋ぐ唯一の盾になるのです。先生、まずは初期量産の十数個を急がせましょう。大隊の幹部から順に、この異形の装備に慣れさせねばなりません」



 後日。台北郊外に設けられた医療大隊の訓練施設。

 周囲を分厚いコンクリートで囲まれた密室の中に、高柳少佐率いる医療大隊の幹部十数名が整列していた。彼らの顔には、白石たちが心血を注いで組み上げた、初期試作型の防護面が深く被せられている。

 大きなガラス製の双眼レンズ、黒く突き出した濾過缶。それはまるで、人間性を剥奪された異形の怪物のような不気味な姿であった。


「総員、面の気密を確認しろ! 少しでも隙間があれば、お前たちの肺は焼け焦げると思え!」

 面越しにこもった高柳少佐の号令が響く。

 彼らはまだ、自分たちが何を防ごうとしているのか、真の恐怖を知らない。ただ、康政が命じた目に見えない敵を想定し、息苦しさと視界の狭さに耐えながら、沈黙の中で互いの装備を点検していた。


「発煙、開始」

 観察室から白石が合図を送ると、密室の四隅から、擬似的な刺激性ガスが猛烈な勢いで噴出し始めた。

 あっという間に視界は白く染まり、一寸先も見えなくなる。もしフィルターが機能していなければ、激しい咳と涙で立っていることすらできない濃度の煙だ。

 しかし、密室の中の兵士たちは、誰一人として倒れなかった。竹の活性炭が、致命的な微粒子を完璧に吸着し、彼らの肺へ清浄な空気を送り届けていたのだ。

 白煙の中で、異形の面を被った兵士たちが、模擬の負傷者を担ぎ上げ、整然と搬送の訓練を続ける。その光景は、来るべき狂気の世界大戦を正確に想定した、身の毛のよだつような静烈な地獄絵図であった。


 観察室のガラス越しに、その様子をじっと見つめている康政の姿があった。

 基隆で設計されている、世界を繋ぎ、命を運ぶための巨大な鋼鉄の船。

 そして台北の竹林から生まれた、毒の霧から呼吸を守るための真っ黒な炭。

 光と影、希望と絶望。その両極端の備えを、瑞長財団という一つの巨大な組織が、執念で同時並行で進めている。


(間に合わせる。必ず)

 窓の外では、台湾の木々を揺らす冬の風が、いよいよ強さを増していた。

 一九一三年、冬。

 世界が最後の一息を、平和という名の空気の中で吸い込んでいる。

 すべてを破壊する一九一四年の破滅の足音は、もうすぐそこまで迫っていた。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

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