第11話:秋風と、それぞれの矜持
大正二(一九一三)年、秋。
台湾を覆っていたうだるような暑さも影を潜め、台北にある瑞長財団の本邸には、肌に心地よい涼やかな秋風が吹き抜けていた。
本邸の奥、家族が集まる居間には、穏やかな茶の香りが漂っていた。
上座の長椅子で新聞に目を通す父・和也と、その向かいで茶を啜る康政。そして母・和子が、長年この邸宅に仕えてきた侍女のリンを前に、一枚の釣書と写真を卓の上に並べていた。
「リン。あなたに、とても良いお話があるのよ」
和子は我が子を見るような慈しみのこもった声で、リンに語りかけた。
「相手は、うちの財団の経理部門で働いている、李志誠さんという青年よ。口数は少ないけれど、決して誤魔化しをしない実直な人だと、翠玲さんから強い推薦があったの。お父様とも相談して、あなたにふさわしいご縁だと思っているのだけれど」
釣書の写真に写る李志誠の、どこか不器用そうでいて生真面目な眼差しを見て、リンの頬がさっと朱に染まった。
当時の女性にとって、主家から直々に縁談を世話されることは、これ以上ない名誉であり、その忠勤を認められた証である。しかし、リンの瞳には喜びと同時に、隠しきれない葛藤の色が浮かんでいた。
「奥様……大旦那様。身に余るお言葉、本当に、本当にありがとうございます。ですが……」
リンは深く頭を下げ、震える声で紡いだ。
「私は、まだこのお家にお仕えしたいのです。奥様や康政様のお側で、お世話をさせていただきたい。お嫁に行けば、この邸を離れ、向こうの家に入らなければなりません。それは……あまりにも寂しゅうございます」
結婚すれば、仕事を辞めて家庭に入る。それがこの時代の、誰も疑わない常識であった。リンは自らの幸せよりも、瑞長家への忠義と愛情を優先しようとしていたのだ。
和子が少し困ったように和也を見やった時、康政が静かに湯呑みを置き、温和な笑みを浮かべて口を開いた。
「リン。結婚すると、うちの侍女を辞めなければならない……なんて決まりは、瑞長のどこにもありませんよ」
「え……? ですが、康政様。世間ではそれが普通でございますし、住み込みで働きながらお嫁に行くなど……」
「……普通は、そうでしょう。でも」
康政は、リンを安心させるように、ゆっくりと言葉を継いだ。
「志誠さんも財団の人間です。ならば、邸のすぐ近くに職員用の夫婦向け社宅を用意しましょう。リンはそこから、今まで通りこの邸に『通い』で働きに来てくれればいい。仕事が終われば、自分の家に帰って夕食を作る。どうですか? これなら、どちらも諦めなくていいでしょう」
住み込みを解き、結婚後も通いで筆頭侍女として働き続ける。それは、大正の世においては破天荒とも言える、時代を先取りした働き方の提案であった。
「そんな、よろしいのですか……?」
信じられないというように目を瞬かせるリンに、和也が新聞を畳み、鷹揚に頷いた。
「康政の言う通りだ。時代は変わる。うちの財団は、働く者の生活ごと豊かにしていく組織でありたい。リン、これからも和子や康政を助けてやってくれないか」
「父さんの言う通りです。頼りにしていますよ、リン」
二人の温かな言葉に、リンの涙が畳にこぼれ落ちた。彼女は何度も何度も、深く頭を下げ、その慈悲深い配慮を胸に刻んだ。
リンの祝言が近づくにつれ、本邸は華やかな空気に包まれていた。
応接室では、瑞月がリンのために見立てた美しい伝統衣装の反物を広げ、優雅に扇子を弄っていた。
「本当に、あのリンがねぇ。翠玲、あなたが見つけた李志誠さん、写真を見たけれど、きっと退屈なくらい真面目な男ね」
瑞月がからかうように言うと、向かいで分厚い帳簿と格闘していた金庫番の翠玲が、顔を上げずに答えた。
「退屈で結構です。貸借対照表のように、一分の狂いもなく誠実な男ですから。……瑞月、あなたはどうなのですか? 台湾の有力者から、山のように縁談が来ているでしょうに」
「お断りよ。強欲な男たちを掌の上で転がしている方が、私の性に合っているわ。誰か一人の妻に収まるには……私たちは少しばかり、世界の広さを知りすぎてしまったものね」
瑞月はふふっと艶やかに笑う。
「私も同じです。私の伴侶は、この金庫に眠る莫大な数字たちですから」
淡々と答える翠玲。当時の強烈な社会的圧力を跳ね除け、自らの意志で財団の『華』と『盾』になることを選んだ彼女たちの間には、その道に生きる者としての気高い矜持が流れていた。
同じ頃、康政は回廊で、山のような積荷の目録を抱えた阿長とすれ違った。
「阿長さんも、そろそろいかがですか? リンの次は、あなたの番だと父さんも気にかけていましたよ」
康政が穏やかに水を向けると、阿長は照れ隠しのように頭を掻いた。
「もったいないお言葉です。ですが康政様、私の背中には、財団が動かす膨大な鉄と金の流れがのしかかっております。それに……康政様が描く途方もない未来の図面が、これからどれだけの規模で世界を動かすかと思うと、今はまだ、この仕事の行く末を見届けるのが面白くて仕方がないのです。身を固めるのは、それからでも遅くはございませんよ」
阿長もまた、この瑞長財団という巨大な船の航跡を見届けることに、自らの人生のすべてを賭けていた。
晩秋の吉日。
台北本邸の広間にて、リンと李志誠のささやかな祝言が執り行われた。
瑞月が見立てた美しい衣装に身を包んだリンは、幸福そうに頬を染め、志誠の隣で慎ましく微笑んでいた。志誠は緊張で顔を強張らせながらも、和也や和子、そして康政に向けて、決して裏切ることのない誠実な誓いの礼を述べた。
広間の隅で、その温かな光景を静かに見守る康政の胸には、一つの確かな感情が芽生えていた。
冷徹な技術開発と、莫大な資金が飛び交う経済の戦い。迫り来る世界大戦という嵐。その過酷な現実の中で、瑞長財団という組織は決して無機質な歯車ではない。
己の人生を財団に捧げることを選んだ翠玲や瑞月、阿長のような幹部たちがいて、彼らに守られ、新しい働き方を手にしたリンと志誠のような若い世代がいる。
秋の穏やかな日差しの中、康政は祝いの杯を手に、自分が築き上げつつある「もう一つの大きな家族」の姿を、頼もしく見つめていた。
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