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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第6章:紅き血の誓約と、血を流さぬ覇道

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第10話:海防の盟約と、鉄と油の理想郷

 大正二(一九一三)年、初夏。

 焼けつくような陽光が降り注ぐ台湾の北の玄関口、基隆キールン港。海風が運ぶむせ返るような潮の香りと、荷役人たちの活気に満ちた喧騒が入り交じる埠頭に、内地からの大型客船が静かに接舷した。

 タラップを下りてくる一行の中心に、海軍の軍服に身を包んだ鋭い眼光の男がいた。海軍大佐、秋山真之である。その背後には、彼が海軍技術廠ぎじゅつしょうから選りすぐってきた、軍の古い体質に馴染めぬ若き技師たちが、長旅の疲れも見せずにギラギラとした瞳で続いている。


「ようこそ、台湾へお越しくださいました。秋山先生、皆様、心より歓迎いたします」

 出迎えた康政は、涼やかな生成りの麻の三つ揃いを着こなし、穏やかな笑みを湛えて一礼した。赤坂の料亭で会った十六歳の頃より背丈は伸び、その佇まいには巨大な財団を率いる者としての、静かだが確かな威厳が備わっている。

「出迎え大儀だ、新城君。いや、瑞長の若君と呼ぶべきか。乃木閣下が総督府で睨みを利かせていなければ、俺のような厄介者がこれほど自由に動くことは叶わなかっただろう」

 秋山が不敵に笑った。死の淵から還り、台湾総督という重い冠を被ったまま「財団の防波堤」として生きる道を選んだ老将の影が、この地で始まる途方もない事業を国内の干渉から完璧に守り抜いているのだ。


「大佐殿、遠路はるばるご苦労様に存じます。まずは、あちらをご覧ください」

 康政の傍らに控えていた真鍋大尉が一歩進み出て、見事な敬礼と共に埠頭の最奥を指し示した。


 そこには、軍艦の概念を根底から覆すような異形の巨艦が、特設の浮きドックの中に鎮座していた。

 中央に巨大な開口部を持つ双胴カタマランの船体。その上部には、海中から何百トンもの重量物を引き上げるための無骨で巨大な起重機クレーンが、夕空を掻くように突き出している。そして、双胴に抱きかかえられるようにして、黒々と鈍い光を放つ鉄の葉巻型の船体――試作潜水艇が浮かんでいた。


「……な、なんだと?」

 秋山は思わず一歩前に出た。平素の不敵な笑みは完全に消え去り、その鋭い双眸が限界まで見開かれている。背後にいた若き海軍技師たちからも、「馬鹿な」「あんな構造の船が……」と、戦慄に似たざわめきが漏れた。

「三年前の一九一〇年春に起工し、現在ようやく習熟訓練の段階に入った我が財団の自慢です」

 康政は、呆然とする秋山へ向けて静かに語った。

「康政様が発案された潜水艇救難艦『安平(あんぴん)』です。大佐殿、まだ世界中のどの海軍も保有していない、海中から命を救い上げるためだけの世界初の専用艦にございます」

 真鍋の誇らしげな声に、秋山は息を呑んだ。

「正気の沙汰ではないぞ。大英帝国だろうが何だろうが、列強の海軍ですら潜水艇は『鉄の棺桶』と見なしている。沈めばそれまで、乗組員の命など使い捨てだ。それを……一介の民間財団が、沈んだ艦を引き上げるためだけに、これほどの資本と技術を投じて巨艦を造り上げただと?」


「はい。海中で事故を起こした潜水艇は、直ちに海面へ強烈な着色剤を射出します。それを上空で捜索中の水上機が視覚的に発見し、同乗する通信士が無線でこの艦へ正確な座標を打電する。それを受けた救難艦が即座に現場へ急行し、引き上げるのです」

 物理的な制約を冷徹に計算した、あまりにも合理的な救難手段。だが、秋山の目はさらに鋭い一点へ注がれた。

「だが新城君、座標がわかったところで、海中の艇に誰がワイヤーをかける? 潜水士か? 今の技術水準では、海中での作業など命がいくつあっても足りんぞ」

「その通りです。ですから大佐殿、この艦の本当の主役は、あの男たちです」

 康政が指差した先には、救難艦の甲板で、真鍮の重厚なヘルメットと潜水服の着脱訓練を繰り返す、筋骨逞しい潜水士たちの姿があった。


「彼らは財団の医学研究所で、徹底した生理学の訓練を受けています。潜水後に気泡が血を止める『潜水病(減圧症)』の恐怖を克服するため、最新のハルダン式減圧表を導入し、さらに艦内には高圧空気を制御する『再圧タンク(減圧室)』を備えました。鉄を造る前に、まず『潜水士』という高度な専門職を医学で守り、育て上げる……それが瑞長流の環境整備です」

 秋山は絶句した。人命を単なる数としてではなく、守り抜くべき「国家の資産」として医学の粋を集めて支援する。その執念は、旧来の軍隊にはない、恐るべき合理主義と人間賛歌であった。


 艦内を視察し、その無骨な完成度に深く感じ入った秋山は、連れてきた技師たちを振り返った。

「おい、お前たち。お前たちの職場はこの基隆だ。大軍艦の歯車ではなく、ここで新しい海の歴史の第一歩を造れ」

「はっ!」

 技師たちは弾かれたように敬礼し、熱気に包まれた造船区画へと吸い込まれていった。



 その後、康政、秋山、真鍋の三人は特別列車に乗り込み、一路南へと向かった。

 数時間の旅路の果て、彼らが大規模な開発が進む高雄タカオへと到着した時、太陽は西へ傾きかけていた。

 車窓から見えたのは、かつての長閑な風景を完全に塗り替える、巨大な鉄の群像であった。

「……こいつは、度肝を抜かれるな」

 秋山は、眼前に広がる圧倒的な威容に再び息を呑んだ。

 まだ全ての施設が完成したわけではない。しかし、一部稼働を始めたその工場群は、すでに一つの巨大な生命体のように力強い産声を上げている。

 海岸線に沿って広がる『高雄工廠』には、三つの大型ドックと中型ドックの骨組みが整然と並び、幾柱もの巨大な起重機が夕空を掻いている。少し離れた区画には、東洋最大級となる石油精製所の複雑な配管網と、鈍く光る備蓄タンクが林立していた。さらに内陸へと視線を移せば、中規模の製鉄所、そして南洋から運ばれた「赤い土ボーキサイト」を次々と白銀のアルミへと変えている精錬施設が黒煙を上げている。


「これほどの設備を動かす莫大な電力は、山間部に八田與一技師が築いた巨大な堰堤(ダム)と水力発電所から供給されております。造船、重油の精製、鋼鉄、そして先ほどの潜水艇の精密部品や航空機に用いる軽合金ジュラルミン。これらを一つの地帯で完結させることが、私の狙いです」

 康政は、工場の群れを見下ろす高台から静かに語った。

 彼の指差す先、眼下には労働者たちが暮らすための近代的な街並みが広がっている。清潔な上下水道が整備され、学校から鐘の音が響き、公衆浴場の煙突からは湯気が上がっていた。それは単なる無機質な工場地帯ではなく、人を育て、生かすための『瑞長財団という一つの国家の雛形プロトタイプ』であった。


「新城君。大英帝国の庇護は心強いが、わざわざ未完成の街にこれほどの資本を注ぎ込み、自給を目指す理由はなんだ?」

 秋山の問いに、康政は淀みなく答えた。

「現在の欧州の緊張を鑑みるに、次に大国同士が衝突すれば、これまでにない規模の消耗戦となるでしょう。万が一そうなれば、無敵の大英帝国とて自軍の維持で手一杯になり、同盟国への燃料供給は後回しにされる日が来ます。他国の兵站へいたんに依存することは、その国の窮状と心中するに等しい。自立した動力の心臓部を持ってこそ、我々は大英帝国と肩を並べる対等の盟友になれるのです」

 燃えるような夕陽を背に語る少年の冷徹な推論に、秋山は二度目の激しい戦慄を覚えた。



 数日後、舞台は台北帝国大学へと移った。

 新設された大講義室には、康政のみならず、海軍との共同研究や最新の地政学に興味を持つ多くの学生たちが詰めかけていた。教壇に立つ秋山大佐は、黒板に複雑な海図と戦時国際法の条文を羅列しながら、朗々たる声で講義を進めている。

「いいか。戦端が開かれれば、海は法ではなく『力』と『解釈』が支配する場となる。臨検、拿捕、海上封鎖。それは理想論ではない、国家の生存競争なのだ」

 最前列で筆を走らせる康政の隣には、他の学生たちも熱心に聞き入っている。高雄の現実を見た後だからこそ、秋山の語る「世界の基準」は、康政のうちで単なる知識を超え、自らの経済力と融合した強固な戦略体系へと昇華されていった。


 白熱した講義が終わり、昼時となった。

「さて、頭を使ったら腹が減ったな。新城君、昼飯にしよう」

 秋山の言葉に、康政は微笑んで立ち上がった。

「ええ。ならば学食へご案内いたしましょう」

「学食だと?」

 秋山が目を丸くした。海軍大佐ともなれば、総督府の賓客用食堂か高級料亭で接待されるのが常である。真鍋大尉も少し慌てた顔をしたが、康政は涼しい顔で歩き出した。

「高級料亭では、現場の兵站ロジスティクスの味はわかりませんから」

「……ふっ、違いない。よかろう、大英帝国を相手に立ち回る男が食わせる学生飯、楽しみにさせてもらおうじゃないか」


 秋山は豪快に笑い、三人は学生たちで賑わう大学の食堂の隅に席を取った。

 やがて運ばれてきたのは、鮮烈でスパイシーな香気が立ち上る一皿であった。

「これはまた……暴力的なまでに食欲をそそる匂いだな」

 秋山が鼻を鳴らし、真鍋と共に一斉にスプーンを動かした。とろみのある褐色のソースに、黄金色に揚がった分厚い豚肉――カツを乗せた『カツカレー』である。


「……っ! 旨い! この複雑な風味と脂の甘み、内地で食うものとはまったくの別物だぞ!」

 秋山が目を見開き、真鍋も軍人としての矜持を忘れたかのように、無言で次々とカツと飯を口に運んでいる。周囲の学生たちが驚いて振り向くほどの食べっぷりであった。

「香港から輸入した香辛料を基に、財団の化学研究所に一年間研究させ、独自のカレー粉として完成させたものです。この粉末さえあれば、誰がどこで作っても、水と具材だけで必ずこの味になります」

 康政は、自らも熱々のカツを頬張りながら説明を続けた。

「保存が利き、誰でも調理でき、何より過酷な現場や艦上でも、この強烈な香りが確実に兵の士気を強制的に高める。究極の兵站食です」

「恐れ入った。重油や鉄だけでなく、人間の胃袋から、潜水士の毛細血管の中まで全てを支配するつもりか。海軍でも正式採用にしたいくらいだ」

 秋山は額に汗を滲ませながら笑い、康政もまた、穏やかに微笑みを返した。

「光栄です。実のところ、ただ私がどうしても食べたかっただけなのです」


 和やかな笑い声が、初夏の賑やかな学生食堂に響く。

 強固な鉄と油の基盤、冷徹な軍学の理論、潜水士を守る医学、そして人の心を満たす温かな食。

 瑞長財団という巨大な揺り籠の中で、新たな時代の萌芽が、力強く芽吹こうとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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