第13話:新春の宴と、一九一四年の暗雲
大正三(一九一四)年、元日。
台北に構えられた新城邸の広間には、外の刺すような冷気を完全に撥ね退けるほどの、柔らかで濃密な熱気が満ちていた。いくつも置かれた火鉢の炭が赤々と燃え、人々の穏やかな笑い声が部屋を包み込んでいる。
上座には、新城家の当主であり、瑞長財団の頂点に立つ父・和也が、妻の和子と共にゆったりと腰を下ろしている。
その前には、身分や役職、軍人と民間人の垣根さえも取り払われた、一つの「大きな家族」としての食卓が広がっていた。
康政と沙絵子の隣では、昨秋に祝言を挙げたばかりのリンと李志誠の夫婦が座っている。生真面目な李は、財団の物流を束ねる阿長から次々と酒を注がれ、顔を真っ赤にしながらも嬉しそうに盃を干していた。
普段は財団の全資金を冷徹に管理する『金庫番』の翠玲も、今日ばかりは柔和な笑みを浮かべて和子と歓談している。その隣では、列強の強欲な商人たちを掌で転がす『交渉人』の瑞月が、リンの甲斐甲斐しい新妻ぶりに目を細めていた。
暗闘の気配を身に纏う燕でさえも、沙絵子の傍らで出された茶を静かに啜りながら、穏やかな瞳で正月飾りを見つめている。
そこには、過酷な時代の波を共に乗り越えてきた者たちだけが共有できる、絶対的な安堵と信頼の空気が流れていた。
「……しかし、いくら身内の宴とはいえ、正月早々この暴力的な匂いを嗅がされることになるとはな」
客人として招かれていた秋山大佐が、苦笑混じりに鼻をひくつかせた。
漆塗りの重箱に詰められた美しい御節料理や雑煮の隣に、場違いなほど巨大な土鍋がドンと置かれていたからだ。蓋を開ければ、立ち昇る湯気と共に、強烈な香辛料の香りが広間いっぱいに広がる。瑞長財団の象徴とも言える、カツカレーである。
「申し訳ありません、秋山大佐。ですが、これが我々の『結束の味』なものですから」
康政は、少し困ったように眉を下げつつ、温和な笑みを浮かべた。
「昨年は、基隆の造船所の建設や我々の自由な物資調達に対して、軍中央からずいぶんと理不尽な横槍が入ったと聞いております。それを大佐が、軍属の立場から防波堤となって撥ね退けてくださった。今年も、どうかよろしくお願いいたします」
「よせ。俺はただ、海軍の古いしがらみよりも、お前たちが造り出す『未来の形』に賭けてみたくなっただけだ。……だが、まあ、悪くない味だ」
秋山はそう言って、山盛りのカツカレーを匙で掬い、豪快に口に運んだ。
その様子を目を細めて見守っていた父・和也が、静かに盃を上げる。
「皆、昨年は本当によく働いてくれた。だが、我々の歩みはまだ止まらない。この一年が、瑞長にとっても、世界にとっても、どれほど大きな意味を持つか……皆の健勝と、来たるべき試練を乗り越える結束を祈って。乾杯」
「乾杯!」
広間に響き渡る声は、迫り来る時代の暗雲をしばし忘れさせるほど、力強く、温かかった。
正月三日が明け、四日。
台北の穏やかな正月気分から一転し、台湾北部の基隆港は、地鳴りのような歓声と熱気に包まれていた。
財団が労働者のために整備した巨大な慰安施設『基隆園』。そこには、造船所の工員、港湾労働者、そして高柳少佐率いる医療大隊の兵士たちなど、数千人規模の人間が一堂に会し、壮大な新年会が催されていた。
広大な野外広場にはいくつもの巨大な炊き出しの釜が並び、ここでも数千人分のカツカレーが湯気を上げている。肌の色も、生まれも違う数千の人間が、同じ釜の飯を食らい、一つの目的のために熱狂している。瑞長財団は、もはや単なる一企業ではない。巨大な波に立ち向かうための、一つの『国家の雛形』として完全に機能し始めていた。
その圧倒的な熱狂から少し離れた貴賓席の天幕で、康政たちは懐かしい顔ぶれと再会を果たしていた。
帝都・東京の学校へ進学した彼らは、それぞれの目標——久世は政治の道、御子柴は軍人(航空)の道、響子はジャーナリストの道——を見据える、聡明で頼もしい十七歳に成長していた。
「それにしても、台湾のこの活気はどうだ。帝都の淀んだ空気とは大違いだ」
久世が、苦笑混じりに杯を置いた。
「東京は今、大正政変の余波で派閥争いばかりだ。上に立つ者たちが己の保身と権力闘争に明け暮れている。……早く俺たちが中に入って、あの中央の連中を叩き直してやらなきゃならん」
「久世君ったら、まだ学生の身分で政治家気取りですか」
響子がクスリと笑いつつも、その瞳には未来のジャーナリストとしての鋭い光が宿っていた。
「でも、彼の言う通りですわ。東京の新聞は今、西洋の新しい文化や低俗なゴシップばかりを書き立てて、海の向こうの危機に目を向けようとしない。……康政君、あなたは相変わらず、ずっと先の『世界』を見据えているのね」
響子の視線の先には、数千人の胃袋を満たす炊き出しと、巨大なドックの威容があった。
「驚いたよ、康政。お前たちがあんな途方もない規格の船を造り始めているなんて」
御子柴が、眼鏡の奥で感嘆の息を漏らした。
「東京の士官学校や軍令部では、まだ日露戦争の幻影を追って古い戦術の議論ばかりしているというのに。お前の頭の中にある戦場は、一体どれほど巨大なんだ?」
学友たちの言葉に、康政は温和な、しかし少しだけ寂しさを帯びた笑みを浮かべた。
彼らだけは、康政を「不気味な予言者」や「巨大財団の主」としてではなく、昔と変わらぬ「少し先を急ぎすぎる親友」として見てくれている。それが何よりの救いだった。
「焦る必要はないさ、三人とも。君たちには君たちの戦うべき場所(帝都)がある」
康政は、三人の顔を順番に見つめ、力強く頷いた。
「内地で存分に学び、それぞれの道を切り拓いてくれ。……君たちがいつか、どんな嵐に巻き込まれて台湾へ帰ってきても、必ず受け止められるだけの『巨大な土台』を、僕がここに造り上げておくから」
「言うようになったな、康政」
久世が快活に笑い、四人の杯が再び、澄んだ音を立てて合わさった。
翌日。
和也と康政は、重厚な赤レンガ造りの台湾総督府を訪れていた。
新年の拝賀である。広大な執務室に入ると、そこには軍服姿の乃木希典総督が、まるで巌のように静かに、そして圧倒的な威厳を放ちながら立っていた。
「謹んで新春の御慶びを申し上げます。総督閣下におかれましては、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます」
和也が財団を代表し、新年の辞を述べる。乃木は鷹揚に頷き、その労をねぎらった。
形式的な挨拶が終わり、傍らの侍従が下がると、室内の空気が一変した。
乃木は、和也の背後に控える康政へと、その深く澄んだ視線を向けた。総督の静かな眼差しには、目の前の若き傑物に対する、ある種の畏敬すら含まれていた。
「康政。……今年の情勢を、どう見ている」
その短く重い問いに、康政は背筋を正し、少しの淀みもなく答えた。
「限界に達しつつあります。……欧州における建艦競争と軍拡は、すでに各国の国家予算を蝕む水準を超えました。加えて、バルカン半島における民族的な緊張状態。欧州列強は今、互いを牽制するための複雑な同盟と協商の網でがんじがらめになっています」
康政の言葉は温和であったが、そこに含まれた分析は、あまりにも冷徹で恐るべき精度を持っていた。
「経済指標、資源の動き、そして軍の配置。これらを計算すれば、火薬庫はすでに満杯です。些細な火種一つで、同盟の網が連鎖的に引火し、年内、遅くとも夏頃には、欧州全土を巻き込む未曾有の大戦に発展する可能性が極めて高い。……我々は、その最悪の事態を前提に動いています」
乃木は動揺することなく、ただ深く目を閉じた。
魔術や予言などではない。世界中の事実と数字をかき集め、そこから導き出された、氷のように冷たく、逃れようのない戦略的帰結。日露の地獄を戦い抜いた老将の直感もまた、この十七歳の若者が語る「破滅の計算式」が、完璧な正解であることを告げていた。
ゆっくりと目を開いた乃木の眼光には、凄絶なまでの覇気が宿っていた。
「背筋の凍るような分析だ。……だが、腑に落ちる」
乃木の一歩踏み出した足音が、執務室に重く響いた。
「康政。お前たち瑞長財団が、常軌を逸した速度で船を造り、防毒の備えを急いでいる理由はよくわかった。来るべき巨大な嵐から、救える命を一つでも多く救うためだな」
「はい」
「ならば、安心せい」
乃木は、康政と和也を力強く見据え、腹の底から響く声で断言した。
「この台湾の地と、瑞長財団のすべての行いは、わしが台湾総督の権限にかけて、いかなる横槍からも必ず守り抜く。お前たちはただ前だけを見て、己の信じる備えを全うせよ」
世界の破滅に向かって時計の針が動き出す、一九一四年の春。
友たちの信じる平和な明日を背に、瑞長財団は強固な老将の盾と共に、運命の年へと歩み出していく。
読んで頂きありがとうございます。




