ずるい温度
※燕視点のスピンオフ話です。
指先が、ひどく冷え切っている。
呼吸を止めると、耳の奥で、脈を打つ音がうるさい。
ずるい。
康政様は、ずるい。
あんなに、穏やかな顔をして。
護衛の私を置き去りにした。
自分だけ、あんな痛い場所へ、一人で行ってしまった。
深夜。石炭酸の、鋭い匂い。
盆の上に置かれたピンセットが、カチリ、と鳴った。
あの、冷たい音。
康政様の前に、跪く。
膝の上には、血に汚れた古い包帯。
それを、一枚ずつ、ゆっくりと解いていく。
最後の一枚。
……ピリ。
張り付いた血が、乾いた音を立てて剥がれた。
雪の、白。
耳を劈く、乾いた発砲音。
身体が、動かない。
視界が、急激に傾く。
「燕!」
叫び声。
駆け寄る、足音。
雪の上に散った、赤い、赤い血。
「……燕」
名前を呼ばれて、止まっていた指が跳ねる。
目の前には、深く裂けた、両掌。
白石先生が縫い合わせた、生々しい糸の跡。
ハルビンの雪。
乃木邸の畳。
どちらも、私が、遅れた。
康政様に私の命を背負わせた。
傷つかせてしまった。
ずるい。
守るべきなのは、私なのに。
どうして貴方は、当然のように、私に代わって血を流すのか。
新しい布を、掌に当てる。
一巻きごとに、指先がひどく震える。
ちっとも、思うように進まない。
感覚が、おかしい。
自分の指先が、他人のもののようだ。
康政様の脈が、私の指を伝って、心臓まで流れ込んでくる。
そんな、妙な心地。
まだ、ぬるい。
結んだ布が、ずっと、私の体温を吸い続けている。
重い。
和子様に託された、その言葉。
私なんかが、康政様の「両掌」を務めるなんて。
あまりに、重すぎる。
でも。
膝を打つ、自責の震えが、少しだけ止まった。
この指先が、再びペンを握る日まで。
貴方が、自分の手で未来を掴み取れるようになるまで。
この冷え切った指先を、熱く燃やし尽くす。
たとえ、それが身の程知らずな願いだとしても。
私が、康政様の「掌」になる。
……少しだけ、深く息が吸えるようになった。
外では、大正の新しい風が、鳴っている。
私は、康政様の傷ついた掌を、静かに、見つめ返した。
読んで頂きありがとうございます。




