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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第6章:紅き血の誓約と、血を流さぬ覇道

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第8話:新時代の胎動と、巨艦の産声

 大正二(一九一三)年、元旦。

 改元を経て初めて迎える新春の台北は、亜熱帯特有の穏やかな陽光に包まれていた。瑞長財団の首脳陣が顔を揃える新城邸の広間には、沈香の仄かな香りと、弾むような笑い声が満ちている。


「若君、どうかご無理をなさいませんよう。お屠蘇(とそ)はこちらで」

 豪奢な朱塗りの盃を差し出そうとした康政の袖を、エンがそっと押し留めた。艶やかな晴れ着に身を包み、二十歳へと美しく成長した彼女の眼差しには、主君への深い慈愛が滲んでいる。

 康政の掌から手首にかけては、今も生々しい赤紫の疵痕が這っていた。数ヶ月前、乃木希典の命を死の淵から引きずり戻した際に、素手で白刃を握り込んだ代償である。


「ありがとう、燕。だけど、これくらいは自分で持てるよ。もう痛みもない」

 十七歳の年相応の照れ隠しを見せながら、康政は少し引きつる指先でゆっくりと盃を受け取った。その不器用な仕草を、上座に座る父の和也と母の和子が、目を細めて見守っている。

「康政。お前がその手に刻んだ疵は、ただ一人の武人を救っただけではないぞ」

 和也が、確かな熱を帯びた声で語りかけた。

「あの夜を境に、総督府と我々との結びつきは盤石のものとなった。乃木閣下は今や、我々が新たな時代を切り拓くための、何よりも分厚い盾として機能してくださっている」

 死に場所を失った老将は今、財団が推し進める型破りな事業に対し、内地の議会や軍部からの干渉を撥ね退ける巨大な防波堤となっていた。血を流して古い時代の呪縛を断ち切った対価は、確実にこの台湾の地に根を張り始めている。

 窓の外では、爆竹の音が遠く弾けていた。

「香港で年を越している高柳さんや橘さんたちも、この空を見上げているでしょうか」

 康政の呟きに、広間の空気がふっと暖かさを増す。

「彼らも間もなく帰還します。戻り次第、まずは数日ほど、たっぷりと羽を伸ばしてもらいましょう。家族の水入らずで、大陸の泥と疲れを洗い流す時間が彼らには必要です」



 松の内が明けた頃。冬の海風が吹きすさぶイギリス領・香港の瑞長専用埠頭。

 灰色の波が打ち寄せる岸壁には、台湾から運ばれてきた木箱が山のように積まれていた。表向きは日本軍から払い下げられた『ただの鉄屑』。だが、その中身は丁寧に油で拭き上げられた旧式の小銃と、莫大な数の実包である。


「品は確かに。……これで、我が軍も息を吹き返すことができる」

 江西省の雄、李烈鈞り れつきん将軍は、木箱の蓋を開け、鈍く光る銃身を撫でながら重い息を吐き出した。その背後では、彼の配下たちが、険しい山岳地帯から運び出したタングステンやマンガンといった希少鉱石を、瑞長丸の巨大な船倉へと次々に運び込んでいる。

 将軍の視線の先には、豪奢な毛皮の外套を羽織り、艶やかに微笑む陳瑞月の姿があった。

「お気に召して何よりでございますわ。我々の医療と糧秣、そしてこの力があれば、もはや大陸で貴方がたを脅かす軍閥はおりますまい」

 鈴を転がすような瑞月の声に、李烈鈞は微かに顔を歪める。

 確かに武力は得た。だが、それは自軍の生命線のすべてを、目の前の女が束ねる瑞長財団に握られたことを意味する。領土を一寸も奪うことなく、ただ生殺与奪の理だけで他国の軍隊を自らのための採掘部隊へと変えてみせた、恐るべき商人の覇道。李烈鈞はもはや、この甘美な鎖から逃れられないことを骨の髄まで悟っていた。


「皆様、大仕事ご苦労様でした」

 荷役が完了するのを見届けた瑞月は、傍らに控える高柳少佐と橘少佐へと振り返った。半年間にわたり、難民避難所で不眠不休の医療支援を指揮してきた彼らの顔には、深い疲労が刻まれている。

「陸上に建設した浄水施設の稼働も順調ですわね。後続の第二陣への引き継ぎも終わりました。康政が、台湾でお待ちです。共に故郷へ帰りましょう」


 彼らがこの半年で香港の地に残したのは、ただの善意の足跡ではない。

 辛亥革命の難民流入により、香港の細々とした井戸や水路は汚物で溢れ、生水を飲めば赤痢やコレラで命を落とす地獄と化していた。そこで高柳たちは、瑞長丸の蒸留設備で急場を凌ぐ傍ら、台湾から持ち込んだ機材で陸上に『海水蒸留・浄水施設』を組み上げたのだ。

 船が台湾へ帰還したのちも、この施設が稼働し続ける限り、香港の特権階級は瑞長財団が作り出す飲料水に依存し続けることになる。それは、他国の領土に自前の生活基盤を深く根付かせ、半永久的に富を吸い上げるという、冷徹な支配の完成であった。



 その数日後、台湾・基隆港。

 どんよりとした冬の雲を突くように、漆黒の猛煙を吐き出す巨大な影が二つ、港湾の入り口に姿を現した。

 内地の造船所で船体と機関部の建造を終え、自力航海で回航されてきた二万トン級の貨客船。まだ窓枠すら嵌まっていない、赤茶けた鉄の地肌を剥き出しにした『船殻せんかく』であったが、港湾を埋め尽くさんばかりのその巨体は、出迎えた人々を深い沈黙で呑み込んだ。


「……こいつは、とんでもねえ化け物だ」

 瑞長専用の深水埠頭でそれを見上げていた荒金親方が、唸るように言葉を漏らした。隣に立つ早川徳次も、手にした巻尺を握りしめたまま、微かに肩を震わせている。

「ご苦労様です、お二人とも。立派な『箱』と『足』が届きましたね」

 海風に外套の裾を翻しながら、康政が静かに歩み寄った。

「ここから先は、我々基隆の仕事です。この空身の巨船に、世界で最も精緻な知能と心臓を組み込んでいただきたい」

 康政の言葉に、早川の瞳に狂気じみた職人の光が宿る。

「ああ。内地の連中が造ったのはただの鉄のドンガラだ。こいつの管に俺の引いた銅線を這わせ、五感を司る電気と無線を命懸けで組み込んでやるさ」


 まさにその時、沖合から鋭い汽笛が響いた。二隻の巨艦の脇を縫うようにして、見慣れた漆黒の船体が滑り込んでくる。香港から凱旋した『瑞長丸』であった。

 タラップが下ろされ、瑞月や高柳たちが次々と台湾の土を踏む。半年ぶりに嗅ぐ故郷の潮風に、屈強な軍医たちが思わず目頭を熱くしていた。

「お帰りなさい。皆さんの帰還を、心からお待ちしていました」

 康政は、彼らを柔らかな笑みで出迎えた。

「まずは各々の家へ帰り、ご家族の顔を見てあげてください。仕事の話は、その後に。温かい湯に浸かり、大陸の泥を綺麗に洗い流してきていただきたい」

 その細やかな気遣いに、高柳と橘は深く頭を下げ、足早に家族の待つ街へと散っていった。



 そして数日後の午後。台北の瑞長財団総本部、最高幹部会議室。

 休養を経て精悍な顔つきを取り戻した高柳と橘、そして瑞月と霧島を交えた、新年初の戦略会議が始まった。


「李将軍との取引は、予定通り完了いたしました。持ち帰った希少鉱石は、順次精製へと回しております」

 霧島の報告に和也が頷く。続いて、瑞月が一冊の分厚い革張りの帳簿を卓の中央へ滑らせた。

「そしてこちらが、李将軍以外……香港のイギリス政庁、並びに西洋の豪商たちとの商いの決済目録でございますわ」


 帳簿を開いた和也の動きが、ぴたりと止まった。

「瑞月。これは、桁が間違っているのではないか?」

「間違いではございませんわ、和也様。彼らは皆、狂ったように我々の『琥珀色の薬ペニシリン』と『純水』を求めましたの」

 瑞月は、艶やかな唇の端を吊り上げた。

「疫病が蔓延する死の街において、我々が陸上に組み上げた浄水施設の水は、彼らの一族を守る『命の保険』となりました。彼らは金塊と同じ目方で我々の薬と水を買い漁ったのです。……結果として、二万トン級の巨艦二隻の艤装にかかる莫大な費用を全額現金で賄い、さらには帝国海軍が最新鋭の戦艦を一隻まるごと建造できるほどの富が、我が財団の金庫に転がり込んでおります」


 広間に、重い息を呑む音が響いた。人命を救う『仁』の医療が、極限の地ではいかなる商売よりも高価な取引となることを、彼女の数字が冷酷に証明していた。


「資金だけではございません」

 瑞月は、さらに声を潜めて康政を見つめた。

「大英帝国の香港総督府は、この支援を『大日本帝国からの無上の恩義』として受け取っております。……康政様。この特大の貸し、いつ、どのような特権へと換金いたしましょうか」


 誰もが康政の次なる一手に耳を澄ませる中、十七歳の頭脳は、底知れぬ静けさを湛えた瞳でゆっくりと首を振った。

「いいえ。イギリスには、今は何も求めません」

「何も、ですか?」

「ええ。小賢しい関税の引き下げや端金に換えるには、この特大の恩義はあまりに惜しい」

 康政は卓の上に組んだ己の掌を見つめながら、温厚な、しかし一切の隙のない声で語り継ぐ。

「今回の表向きの手柄と外交的果実は、すべて日本政府――伊藤公や陸軍に譲り渡します。大英帝国に恩を売り、日英同盟の要石としての地位を確立させることで、彼らを我々の計画にとって二度と外すことのできない『完璧な盾』へと仕立て上げるのです」

「では、我々が得る真の果実とは……?」

 霧島が、眼鏡の奥で目を細めて問う。

「『大英帝国に貸しがある』という事実そのものです」

 康政は静かに微笑み、窓の外の基隆港を見つめた。

「いずれ、必ずこの切り札を切る日が来ます。我々が本当に欲しいものを、彼らが喜んで差し出すような……そんな日が。それまでは、ただ最強の切り札として、我々の手元にそっと置いておきましょう」

 温和な口調でありながら、世界の覇権すら手玉に取るようなその言葉に、歴戦の幹部たちは静かに息を呑んだ。



 最高峰の謀略が交わされた会議から数日後。

 基隆港の岸壁に設えられた艤装事務所では、怒声と図面が飛び交う、もう一つの凄絶な戦いが幕を開けていた。


「馬鹿を言え! この通路の幅では、担架を持った衛生兵がすれ違えん! 内地の造船技師は、優雅な船旅でも思い描きながらこの線を引いたのか!」

 高柳少佐が、机の上に広げられた巨大な青写真ブループリントを太い指で叩き、声を荒げた。

「ここは戦場から血まみれの兵士を運び込む場所だ。数秒の遅れが命を散らす。壁をぶち抜け!」

「少佐殿、それは船体の強度に関わります!」

 頭を抱える造船技師の悲鳴を、隣に立つ橘少佐が冷徹に切り捨てる。

「強度なら鋼材を足して補強しろ。それから手術室の消毒液の配置だ。ポンプに頼るな、被弾して動力が落ちれば終わりだぞ。天井裏に巨大な水槽を据え付け、重力だけで給水できる仕組みに書き直せ」

「手術灯の角度も駄目だ。船が揺れるたびに影ができてはメスが握れん。早川さん、あんたのところで一番明るい電球を、この三方向から当てられるように細工してくれ」


 香港の劣悪な環境で、幾千もの生と死を文字通りその手で選別してきた者たちの言葉には、いかなる反論も許さない重みがあった。

 現場を知らぬ者が引いた机上の空論を、血の匂いを知る者たちの執念が次々と塗り潰していく。

「……へっ、面白え。やってやろうじゃねえか。その無茶苦茶な注文、一つ残らず俺の電気で叶えてやらあ!」

 早川徳次が、インクに塗れた顔で獰猛に笑い、新たな図面に猛然と線を書き込み始めた。


 冷徹な計算に基づく大局の戦略と、泥水に塗れて培われた現場の極限の執念。

 二つの異なる熱が基隆の地で激しく交わり、ただの鉄の塊であった二万トンの船殻は今、世界を救済し、同時に世界を支配するための『巨艦』へと、その内臓を力強く脈打たせ始めていた。

読んで頂きありがとうございます。



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