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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第6章:紅き血の誓約と、血を流さぬ覇道

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第7話:大正の幕開けと赤い土

 生と死が真っ向から衝突した、九月十三日の深夜。

 瑞長財団が設立に深く関与した台北帝国大学附属病院。その奥にある処置室には、鋭い消毒液の匂いと、白石医師の抑えきれない怒声が響き渡っていた。


「……正気の沙汰ではありません! 刃を素手で握り込むなど! 一歩間違えれば、両手の(けん)を完全に断ち切り、一生使い物にならなくなっていたのですよ!」

 白石は、血に染まったガーゼを乱暴に医療盆(のうぼん)へ投げ捨てると、康政の深く裂けた両掌の肉を、震える手で縫い合わせ始めた。肉に糸が通る生々しい音が響くが、康政は脂汗を浮かべながらも、決して呻き声を上げなかった。


 その処置台の傍らで、エン幽鬼(ゆうき)のように立ち尽くしていた。

 二十歳へと成長し、今や財団屈指の護衛となった彼女の両手にも、康政から流れ出たおびただしい血がこびりついている。極限の反射神経を持ちながら、あの一瞬、康政を前に出させてしまった。護衛として、これ以上の失態はない。絶望と自責に押し潰されそうになっている燕に、康政は縫合の痛みに耐えながら、静かに声をかけた。


「……燕。君の動きが遅かったわけじゃない。僕が、無理に君を置き去りにしたんだ」

「ですが……私が、もっと早く刃を止めていれば、若君にこのような痛みを……!」

「君が刃を止めていたら、閣下は君ごと刀を押し込んでいただろう。あの方の死への狂気は、それほどまでに深かった」

 康政は、血の気を失った燕の顔を真っ直ぐに見つめた。

「僕の血は、閣下をわずかに怯ませるための『時間稼ぎ』に過ぎない。あの方の死の呪縛を本当に打ち砕いたのは、地べたを這いずり回ってでも生きたいと叫んだ、君の『生への執念』だ。……君がいてくれなければ、僕は両手どころか、命ごと持っていかれていたよ」

 その穏やかで、深い労いに満ちた言葉に、燕の瞳から再び涙が溢れ落ちた。白石は小さくため息をつき、手元の縫合のピッチを少しだけ優しく緩めた。


 処置が終わるや否や、扉が勢いよく開き、和也と和子が血相を変えて飛び込んできた。

「康政!」

 和也は、分厚い包帯の巻かれた息子の両手を見ると、顔を激しく歪ませ、その肩を強く掴んだ。

「お前はこの財団の未来を描く設計理事だろう! 自らの命を、肉体を天秤にかけるような真似を二度とするな!」

 それは組織の代表としての言葉ではなく、ひとりの父親としての、血を吐くような叱責だった。和子は何も言わず、ただ包帯の巻かれた康政の手を自身の頬に押し当てて、声もなく泣き崩れた。

「……申し訳ありません、父さん、母さん。でも、これで……誰も死なせずに済みました」

 康政が小さく微笑むと、和也は息子の頭を自身の胸に強く抱き寄せた。歴史の巨大なうねりに抗い、生き残った家族の温かな体温が、静かに夜を溶かしていった。

 帰り際、和子は涙を拭いながら燕の元へ歩み寄り、その震える手を優しく包み込んだ。

「燕さん。あの子の手の傷が癒えるまで……どうか、貴女が康政の両手になってあげてね」

「……はい。命に代えましても」



 数日後。康政の執務室に、落ち着きを取り戻した乃木希典が訪れた。

 死の気配は消え去っていたが、その表情には、自らの命を若き青年の流血によって繋ぎ止められたことへの、重い十字架が刻まれていた。


「康政殿。私は、帝都へ向けて台湾総督の辞任願いを提出するつもりだ」

 乃木は深く頭を下げた。

「私自身のこの不甲斐なさ。もはや、この島を統治する資格はない。隠居し、残りの命は静かに弔いのために使おうと思う」

 武人としての、不器用なけじめ。しかし、両手に真新しい包帯を巻いた康政は、それを冷徹な言葉で切り捨てた。

「……総督閣下。それは自刃と同じ、綺麗な『逃げ』です」

「な……」

「隠居して、静かに祈るだけで過去の贖罪になるのなら、私はあの日、血など流しませんでした」

 康政は、包帯の巻かれた手を机の上で組んだ。十七歳の青年が放つ支配者の覇気に、日露を生き抜いた老将が思わず息を呑む。

「大正という新しい時代。我々瑞長財団は、この台湾を起点として、世界へ盤面を広げます。その時、国内の干渉を跳ね除ける『乃木希典』という巨大な防波堤が、どうしても必要なのです」

 康政は静かに立ち上がり、乃木の目の前まで歩み寄った。

「どうか、重く苦しい『台湾総督』という冠を被ったまま、我々と一緒に泥に塗れて生きてください。貴方の命を、我々の創る未来の盾として使い切っていただきたい」


 美しい死を許されず、泥臭い生と実務を要求する財団の若き頭脳。

 乃木はしばらく黙り込み、やがて腹の底から、絞り出すような低い声で笑った。

「……全く。恐ろしい若者だ、お前は」

 乃木は姿勢を正し、康政に向かって、武人としての最敬礼を行った。

「承知した。この老いぼれの命、貴殿が描く大正の未来を見届けるための『剣』として、地の果てまで捧げよう」



 年末の恒例行事をひと月後に控えた、十一月下旬。

 台湾南部の巨大な玄関口、高雄港。どこまでも高く澄み切った青空の下、港はただならぬ熱気と活気に包まれていた。

 岸壁には、何隻もの大型貨客船が横付けされ、巨大な起重機が唸りを上げて無数の土木機材や建築資材を積み込んでいる。甲板には、大量の熟練作業員たちが、これからの南洋での過酷な仕事に向けて活気ある声を飛び交わせていた。


 港湾の視察室から、康政は和也と共にその壮大な光景を見下ろしていた。

「高雄の港湾や精製所の基礎工事が一段落し、ようやく彼らを動かすことができましたね」

 康政の言葉に、和也が力強く頷く。

「ああ。去年の春にシンガポールで会談を行ってから、一年半。もどかしい思いもしたが、これで雇用を途切れさせることなく、彼らの熟練の技術をそのまま南洋の開拓に注ぎ込める」


 船団の向かう先は、オランダ領東インド(インドネシア)。

 あの会談で康政が手に入れたのは、オランダのロイヤル・ダッチ・シェルから安定的に石油を購入する権利と、もう一つ――『何もない、ただ赤い土が広がるだけの密林』の土地権利であった。

 誰も住まず、農作物も育たない不毛のジャングル。列強の目には、瑞長財団が金に任せて無価値な荒れ地を買ったようにしか映っていなかった。


「まずは未開の地に護岸を築き、作業員たちが安全に暮らせる『街』と生活基盤を丸ごと創り上げる。途方もない時間と労力が必要だ」

 和也が息を吐き出すと、康政の背後に控えていた燕が、静かな所作で温かい茶の入った湯呑みを康政の口元へ運んだ。

「失礼いたします、若君」

「あ……ありがとう、燕」

 両手が分厚い包帯で塞がっている康政は、二十歳の美しく成長した護衛に甲斐甲斐しく口元まで湯呑みを運ばれ、十七歳の年相応のむず痒さを隠しきれずに少しだけ頬を赤らめた。その微笑ましい様子を、和也が目を細めて見守っている。


 茶で喉を潤した康政は、再び眼下の船団へと鋭い視線を戻した。

「世間は、我が財団が無価値な赤い土のジャングルを買わされたと笑っているでしょう」

 康政の持つ「未来の知識」において、その赤い土の正体は明白であった。

 ボーキサイト。やがて訪れる航空機時代において、機体の装甲となるジュラルミン(アルミニウム合金)を生み出すための、最も重要な戦略資源である。


「あの赤い土を掘り出し、シェルから買い付けた黒い油と共にこの台湾の精製所へ運び込む。それこそが、これからの百年を支配する世界の血肉となります」

 康政の静かな熱を帯びた言葉に呼応するように、出航を告げる貨客船の長大な汽笛が、高雄の空を震わせた。


 死の呪縛から解き放たれた者たちが、それぞれの意志で動き出す。

 新時代「大正」の海へ向け、瑞長財団の野望を乗せた船団が、力強く白い波を蹴立てて進んでいった。

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