第6話:生と死の激突
一九一二年(明治四十五年)七月三十日。
亜熱帯の凶暴な日差しが降り注ぐ台湾に、帝都からの暗く重い報せが届いた。
明治天皇、崩御。
ひとつの時代が終わりを告げたその日、島全体が泥のような深い喪の空気に沈み込んだ。総督府には半旗が掲げられ、街からは一切の喧騒が消え失せた。
台北・瑞長財団本部。
分厚いカーテンが引かれ、外界の光と熱を遮断した康政の自室に、父の和也と母の和子だけが密かに呼ばれていた。部屋の空気は、鉛のように重い。
ひどく思い詰めた顔で両親と向き合った康政の口から絞り出された声は、静かであったが、確かな悪寒を伴って響いた。
「……私の知る『本来の歴史』の歩みによれば。四十五日後の九月十三日、帝都にて大喪の礼が執り行われるその夜に、乃木希典大将と静子夫人は自刃して果てます」
和也の眉間が深く寄り、和子が小さく息を呑む音がした。
康政は、己の膝の上で固く拳を握りしめた。
「僕たちの手で保典様の命を繋ぎ、歴史の盤面は確かに変わっています。しかし、閣下の胸底にある『日露の戦野で数多の将兵を死なせた負い目』は、決して消えていない。天皇陛下という最大の精神的支柱を失い、総督の任によりこの台湾に留め置かれている今……あの方が遠く帝都へ向けて遥拝し、本来の歴史と同じように死の結末を選ぶ危険性が、極めて高いのです」
日露の戦を経て、乃木大将がどれほどの十字架を背負って生きてきたか。共に台湾の国造りを進めてきた和也には、痛いほど理解できた。
「僕たちはこれまで、財団の盤面を進めるために閣下の力を借り、多大な恩も受けてきました。一個人の情で歴史の大きな流れに抗うことへの恐れはあります」
康政が、真っ直ぐに父と母を見据える。
「しかし……僕には、あの方たちを見殺しにすることはできません。死を以て忠義とする旧い時代の呪いから、閣下を救いたいのです」
十七歳へと成長した青年の、理を捨てた悲痛な願い。それを受け止めた和也は、静かに目を閉じ、やがて力強く頷いた。
「ああ。もはや財団の損得の話ではないな。友として、総督を死なせるわけにはいかない」
「私も、静子様を一人で逝かせたりはしません」
和子もまた、毅然とした態度で夫と息子に同調した。
その夜から、静かな戦いが始まった。
八月に入ると、和子は台湾婦人会の活動や、深い悲しみに沈む総督邸の慰問という名目で、乃木静子夫人の元へ足繁く通うようになった。
表向きは傷心のケアであったが、真の目的は、夫人の深層心理の確認と、周囲から刃物などの危険物を遠ざけるための監視である。
だが、何度か通ううちに、和子の背筋に冷たい汗が伝うようになった。
静子夫人は、決して取り乱すことはなかった。涙を流すことも、声を荒げることもしない。ただ、美しく整えられた総督邸の庭を眺めながら、穏やかな微笑みを浮かべているのだ。
「……静子様は、生きる悲しみの中にはおりません」
ある夜、屋敷に戻った和子は、和也と康政に沈痛な声で報告した。
「あの眼は、すでにこの世の景色を見てはおられませんでした。ご主人と共に死に赴く、一点の曇りもない、恐ろしいほどの覚悟。……あの方々は、確実に『その日』を待っています」
九月に入り、大喪の礼が近づくにつれ、乃木大将の振る舞いにも変化が表れ始めた。
身辺整理が徹底して行われ、総督府での執務においても、未練を断ち切った者特有の、研ぎ澄まされた氷のような気配を纏うようになったのだ。
「己の死に場所を見定めた武人」の静かな狂気。もはや、言葉による説得などで覆せる領域はとうに超えている。
九月十三日。
空気がひりつくような運命の日の午前、康政は自身の執務室に、一人の人物を呼び出した。
瑞長財団諜報班・燕。
音もなく部屋に現れた燕は、康政の前に静かに控えた。その澄んだ瞳の奥には、主君に対する絶対的な信頼が確かな熱を帯びて宿っている。
「燕さん。今夜、乃木総督ご夫妻が決行に及ぶ可能性が極めて高いです。父さんと保典様を連れて僕も総督邸に向かう。君にも護衛として同行してほしい」
康政の静かな、しかし悲痛な決意を秘めた眼差しを受け止め、燕はそっと己の右肩――ハルビンで銃弾に貫かれた古傷――に触れた。
(私は、生きたい)
あの病室で己の核に据えた強烈な執着が、今も魂の奥底で脈打っている。だからこそ、己の命を「死」によって完結させようとする哀しい覚悟を、燕は決して肯定できなかった。
「承知致しました」
燕は深く頭を下げた。その声は、命令に従う道具の無機質な響きではなく、命の重さを知る一人の人間としての、温かく、そして鋼のように力強い誓いであった。
台湾の空が、重く湿った夕闇に包まれていく。
生と死が真っ向から激突する、長く、凄絶な夜が始まろうとしていた。
九月十三日、夜。
台湾の空気を支配する、まとわりつくような湿気と熱帯夜。総督邸の奥深く、灯りを落とした一室には、死の匂いにも似た沈香の香りが重く立ち込めていた。
正装した乃木希典と静子夫人が、帝都の方角へ向けて静かに正座している。
研ぎ澄まされた、息の詰まるような沈黙。やがて乃木が静かに懐へ手を差し入れ、白鞘の短刀を取り出した。鯉口を切る冷たい音が、夜の静寂を鋭く引き裂く。静子もまた、己の喉元へ刃を向けようと白く細い手を動かした。
まさにその時である。
「総督!」
襖が乱暴に開け放たれ、康政と和也、そして乃木の次男・保典が部屋へと踏み込んだ。
驚きに目を見開く乃木夫妻の前に和子が素早く進み出ると、静子夫人の手を力強く握りしめ、凶刃を遠ざけた。
「和也殿、康政殿……これは一体、何の真似だ」
乃木が低く、しかし凄まじい威圧感を放って問う。
「貴方を失えば、この台湾の未来はどうなるのですか。総督としての責任を放棄し、死へ逃げるおつもりか」
和也が一歩も引かずに、大人の、そして共に歩んだ友としての言葉をぶつける。
「父上!」
保典が涙ながらに、乃木の膝元へすがりついた。
「勝典兄上に続き、父上と母上まで私を置いて逝かれるのですか! 私だけをこの世に残して……!」
血を分けた息子の悲痛な叫びに、死に魅入られていた乃木の顔が激しく歪む。日露の戦野で長男を失い、すがりつくこの次男もまた、かつて瑞長財団から持ち込まれたペニシリンがなければ確実に失っていたはずの命だ。
しかし、ペニシリンの恩恵を受けられず、凍てつく雪原で命を散らした夥しい数の将兵たちの亡霊が、乃木の両足を死の淵へと力強く引き摺り込もうとしていた。己の血筋だけが、おめおめと生き永らえるわけにはいかない。
「……もはや、私の明治は終わったのだ。すまん、保典」
乃木は一瞬の隙を突き、己の腹へ短刀を突き立てようと腕を振り下ろした。
その刹那。
部屋の影に潜んでいた燕が、弾かれたように地を蹴った。しかし、護衛としての極限の反射神経を持つ彼女よりも「早く」、その凶刃の軌道へ身を投げ出した者がいた。
康政である。
武術の心得などない十七歳の青年が、ただ歴史の悲劇を拒絶する強烈な執念のみで、燕の制止すら置き去りにして前に出たのだ。
「な……っ!」
乃木が驚愕の声を上げる。
康政は、己の腹へ向かうはずだった乃木の白刃を、両の素手で躊躇うことなく固く握りしめていた。
掌の肉が裂け、刃が骨に軋む、ひどく生々しい音が室内に響く。康政の手から熱く赤い鮮血が止めどなく溢れ出し、真新しい青畳の上に無残な血だまりを作っていった。
「康政殿、正気か! 放せ!」
刃を突きたてるはずだった乃木の腕が、止まる。だが、康政は顔を苦痛に歪めながらも、それが骨まで食い込いこむのも厭わず、さらに握りしめた。
「……放しません」
康政の声は、高圧的でも感情的でもなかった。ひどく穏やかで、慈愛に満ちた、強さを持つ響きだった。
「閣下。どうか私のこの血を、明治の最期に流れる最後の血にしてください」
滴り落ちる自らの血を見つめながら、康政は乃木へ一歩近づき、死への渇望を正面から受け止める。
「貴方の命は、日露の亡霊に捧げるものではない。私たちが創る、新しい大正という時代のために残してほしいのです」
「康政様……っ!!」
凄絶な悲鳴のような声が部屋に響き渡った。
康政の流血を目の当たりにした燕である。常に「護衛の影」として感情を殺してきた彼女の仮面が、音を立てて砕け散っていた。
燕は血だまりの畳に膝をつき、康政の血塗られた両腕にすがりついて、子供のように涙を流した。
「ああ……康政様の手が……! お放しください! なぜ貴方が血を流すのですか!」
それは、基隆の泥濘で死を待ち、ハルビンで肉を撃ち抜かれた少女の、魂からの絶叫だった。
「私は、貴方に光を与えられ……地べたを這いずり回ってでも生きたいと願った! 貴方が創る未来を隣で見たいと望んだのに! 貴方が血を流して傷つくのなら、私が生かされた意味などない!」
自らの血肉を捧げて未来を乞う十七歳の青年。
かつて死の淵を歩き、今は剥き出しの「生」を叫びながら主君にすがりつく少女。
そして、己の膝で嗚咽を漏らす次男。
これほどまでに熱く、重く、生々しい「命の奔流」を突きつけられ、乃木希典の狂気に満ちた死への執着は、ついに内側から崩壊した。
「…………ああ」
乃木の手から力が抜け、白刃が血まみれの畳へと転がり落ちる。保典が父の背中にすがりついて泣き崩れ、静子夫人は和子の胸の中で静かに目を閉じた。
康政は、自らの血に染まった燕の肩を、痛む手で労うように強く抱きしめながら、老いた武人へと深く頭を下げた。
台湾の熱を帯びた夜風が、新時代の始まりを告げるように、血の匂いの漂う部屋を静かに吹き抜けていった。
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