第5話:導線の開通と、黄金の交易品
明治四十五年、四月下旬。
台北に置かれた瑞長財団の本部。洋館の一室に、香港の霧島から届いた暗号電信の控えが置かれていた。
『将軍ハ貴賓室ニテ熟考中ナレド、陥落ハ時間ノ問題ナリ。契約成立ヲ見越シ、至急、次ナル兵站ノ手配ヲ乞ウ』
文面に目を通した康政は、執務机に広げられた海図を見下ろす父、和也へ向き直った。
「父さん。香港の瑞長丸には海水蒸留設備がありますが、あれを絶え間なく稼働させ、数万の難民と軍を支えるには膨大な石炭を消費します。今の備蓄では、長くは持たないでしょう」
「ああ、分かっている。すぐに手配を急がせよう」
和也は海図から顔を上げ、低く落ち着いた声で応じた。
「基隆で傭船をかけ、米や新型の缶詰、医療品、そして燃料の石炭を積めるだけ積ませる。荷積みが終わり次第、順次香港へ向かわせる手筈にしよう。物資の絶え間ない連なりこそが、かの地の不安を払拭するからな」
「よろしくお願いします」
康政が深く頷くと同時に、和也は即座に幹部たちへ指示を飛ばした。静かだった総本部は一瞬にして熱を帯び、台湾の玄関口である基隆港では、金に糸目をつけない莫大な傭船と荷役の号令が飛び交い始めることとなる。
しかし、李将軍が最も渇望する『武器』という劇薬の調達だけは、財団の力のみでは動かせなかった。
その日の午後、和也と康政は重厚な赤煉瓦造りの台湾総督府へと足を運んだ。
総督府の執務室。台湾総督・乃木希典大将と向かい合った和也は、背筋を伸ばし、財団の頂点に立つ者としての静かな威厳を纏って切り出した。
「総督閣下。香港における難民支援、並びに大陸の李将軍との交渉、ようやく出口が見えて参りました」
乃木が鋭い眼差しを向ける中、和也は言葉を継ぐ。
「李将軍は自軍の維持のため武器を求めております。我々民間人が直接関わることは控えねばなりませんが、日露の戦を経て余剰となった旧式の銃火器を、総督府の裁量にて払い下げていただくことは叶いませんでしょうか」
「大陸の軍閥に我が国の武器を流すというのか。和也殿、それは容易に頷ける話ではないぞ。議会の監査もある」
乃木の厳しい指摘を受け、和也は隣の康政へ微かに視線を送った。康政はそれを合図に、懐から一枚の算定書を取り出し、白布の掛けられた机の上に静かに置いた。
「閣下。軍には、古くなった銃を『ただの鉄屑』として、二束三文の捨て値で我が財団へ払い下げていただくのです」
和也が、声を潜めて凄みのある提案を口にする。
「当然、公式な国庫に入るのはその端金のみ。ですが、我々はその鉄屑を『現役の武器』として李将軍へ売り、代金として『希少金属の現物』を受け取ります。そして……」
康政が、父の言葉を継いで冷徹な盤面の核心に触れた。
「財団が将軍から得た莫大な差額の利益を、軍への『寄付金』や『機密費の肩代わり』といった名目で、議会の目の届かぬ独立財源として陸軍の懐へお戻しするのです。立て替えた円は、後から財団の帳簿上で将軍の希少金属と相殺する手筈となっております」
乃木の太い眉が僅かに動いた。
表向きはただの鉄屑の処分。しかし裏では、民間財団を隠れ蓑にした資金の名目変換である。財政難に苦しむ陸軍にとって、出所不明の銀貨ではない「綺麗な円」での独立財源がもたらされる。その甘美な響きが持つ意味を、百戦錬磨の将軍が理解できぬはずがなかった。
和也の重みのある沈黙と、康政の静かな眼差し。それを受け止めた乃木の胸中に、かつて日露の戦野で流した夥しい将兵の血が過ぎった。
(我々はひとつの丘を奪うために、どれほどの命を散らしたか。だが目の前の者たちは、一滴の血も流さず、算盤と兵站のみで他国の軍閥を支配し、あまつさえ我が国の軍の資金繰りまで操ろうとしている。武力の時代は終わり、これからは経済が国を喰らう時代が来るというのか……)
古き軍人としての微かな寂寥と、若き怪物たちへの静かな感嘆を交えながら、乃木はゆっくりと頷いた。
「……相分かった。内地の児玉大将と伊藤公へは、私から秘密裏に伝を付けよう。この理であれば、軍の中枢も首を縦に振るはずだ」
それから数日後の香港。
瑞長丸の貴賓室に留め置かれていた李烈鈞は、窓の外に広がるヴィクトリア港の光景を前に、腰の軍刀の柄をギリッと握りしめていた。
台湾から順次送り込まれた傭船が連日のように入港し、山のような石炭と食糧が次々と陸揚げされ始めていたのだ。途切れることのない物資の列は、瑞長財団という組織の底知れぬ力を何よりも雄弁に物語っている。
自分たちは泥に塗れ、血を流して領地を死守してきた。だが、いかに屈強な兵を育て、銃を構えようとも、結局は安全な海の上から米と石炭を流し込む「商人」の前にひれ伏すしかない。銃ではなく、米と石炭が戦を支配している――その現実が、誇りを静かに踏み砕いた。
「……この支援が、途絶えることはないのだな」
血の滲むような李烈鈞の問いに、背後に控える瑞月が、絹の扇子を畳んで静かに微笑んだ。
「ええ。そして、日本の陸軍も将軍への支援を了承いたしました。すべては、この署名一つにございます」
恩義、途切れることのない物資の奔流、そして日本の軍部という後ろ盾。武人としての誇りを砕かれ、それ以上に財団への完全な依存を選ばざるを得なかった李烈鈞は、自らの名を契約書に深く刻み込んだ。
数日後。香港での任を終えた傭船の一隻は、出航の準備に追われていた。
潮風が吹き抜ける桟橋には、台湾へ帰還する瑞月と霧島、そして燕が立っている。彼らを見送るために歩み寄ってきたのは、白衣姿の高柳少佐と、実務を取り仕切る橘少佐であった。
「見事な手際でしたな。我々の医療支援を後ろ盾にして、一国の軍閥に首輪をはめるとは」
高柳が、疲労を感じさせない精悍な顔つきで笑いかけた。
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
瑞月が艶やかに微笑み返す。
「ですが、ここからが本番です。我々が敷いた『希少金属と兵站の交換』という動線が切れないよう、李将軍の喉元を掴み続けるのは、現地に残る貴方たちのお仕事ですのよ」
「承知している。我々がここで医療と物資を提供し続ける限り、将軍は財団に逆らうことなどできん」
高柳の力強い言葉に、霧島が眼鏡を押し上げながら頷いた。
「軍閥の周囲で不穏な動きがあれば、燕が香港に置いていく手の者からすぐに知らせが入る手筈となっている。……橘少佐、高柳少佐と共に現地の帳簿を頼みます」
「はい。香港の留守は、我々にお任せを」
橘が深く頭を下げる。
光の当たる場所で命を救う者たちと、影で冷徹に理を動かす者たち。互いの役目を深く理解し合う彼らの間には、言葉以上の強固な信頼が結ばれていた。
高柳たちに見送られ、離岸していく傭船。
その船倉には、康政が事前に電信で指示していた品が、瑞月の手によってぎっしりと運び込まれていた。南洋の胡椒、丁子、桂皮、そして色鮮やかな鬱金といった多種多様な香辛料の山である。これらは内地の大阪や帝都へ流せば、多大な利益を生む立派な交易品となる。
初夏の風が吹き抜ける台湾・基隆港。
凱旋した船を、和也と康政が出迎えた。荷揚げされる麻袋からは異国の芳醇な香りが漂い、港の空気を塗り替えていく。
瑞長財団が大陸の地下資源へと繋がる巨大な動線を切り拓き、重厚な交渉の幕を下ろしたこの日。運び込まれた莫大な香辛料は、すぐさま内地での販売に向けた仕分け作業へと移された。
そして康政の指示により、その中のごく一部だけが、彼自身の試験運用へと回された。
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