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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第6章:紅き血の誓約と、血を流さぬ覇道

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第4話:帝都の若獅子たちと、香港の光と影

 明治四十五(一九一二)年、四月中旬。台湾・基隆港の広大な埠頭には、帝都・東京へと向かう大型客船の重厚な汽笛が鳴り響いていた。

 春の暖かな潮風が吹き抜ける岸壁には、台湾での視察を終えて帰郷の途に就く近衛文麿や栗林忠道、そして新学期に向けて帝都での勉学に戻る久世、御子柴、響子たちを見送るため、康政や和也ら財団の人々が顔を揃えていた。


「帝都での学業、体に気を付けて。また次の休みに、皆がここへ帰ってくるのを待っているよ」

 康政は、飾らない穏やかな笑顔で手を振った。

「ああ、康政も体に気を付けて無理をするなよ」

 久世が力強く頷き返し、御子柴と響子も笑顔で言葉を交わす。近衛と栗林は、彼らの温かな絆を眩しそうに見つめながら深く頭を下げ、船のタラップを上っていった。


 やがて別れの銅鑼が鳴り、客船がゆっくりと岸壁から離れ始める。

 甲板の手すりに並んで立つ近衛と栗林は、次第に小さくなっていく台湾の青い山並みと、いつまでも手を振ってくれている康政たちの姿を、目を細めて見つめていた。

 彼らの胸の奥には、この数日で目の当たりにした凄まじい光景が、未だ熱を帯びて焼き付いている。広大な荒野を切り拓く水路、次代の頭脳を育むための壮麗な台北帝国大学の学舎。目先の利を追うのではなく、百年先の国家の基盤そのものを自らの手で創り上げようとする、康政という青年の底知れぬ実務の規模感。


「僕たちは、ずいぶんと狭い鳥籠の中で生きてきたのかもしれないな」

 海風に前髪を揺らしながら、近衛がふと自嘲気味に呟いた。

「帝都に生まれ、名門の血を引き、それなりに優秀であると自負していた。だが、康政や久世たちはどうだ。我々が内地の古いしきたりや、軍部と政界の狭い派閥争いに明け暮れている間に、彼らは世界の在り方そのものを、この南の島から書き換えようとしている。彼らが創り出す未来に、日本という国そのものが置いていかれてしまう」

「同感です。この台湾で見た光景、そして彼らの真摯な眼差しは、私の一生を決定づけるものになりました」

 栗林は手すりを強く握り締め、はるか先の水平線を睨みつけるように鋭い視線を向けた。

「帝都に戻れば、我々には我々の戦いが待っています。いつか、彼らと同じ盤上に立ち、共に次代の日本を背負って立てるよう、この身を粉にする覚悟です」

 南の島で本物の国造りに触れた若き獅子たち。彼らの胸中には、燃え盛るような焦燥と、確かな覚醒の炎が宿っていた。



 イギリス領・香港


 東洋最大の貿易拠点であるヴィクトリア港。大小の帆船や蒸気船がひしめき合い、香辛料と石炭、そして微かな阿片の匂いが混じり合うその群青の海に、他を威圧するような漆黒の船体が錨を下ろしていた。瑞長財団の旗艦『瑞長丸』である。


 表向きの目的は、イギリス当局からの非公式な要請を受けた「人道支援部隊」としての活動だ。

 高柳少佐と橘少佐が率いる機動医療部隊は、港の一角を借り上げ、大規模な仮設救護所を設営していた。大陸における辛亥革命の余波と、軍閥の泥沼の抗争から逃れ、香港へと雪崩れ込んできた数万の難民。その中でも特に重症な者を中心に、日々数百名規模を収容し、懸命の治療に当たっている。

 瑞長丸の巨大な蒸留設備から管を通じて直接供給される純水。化膿した傷口の熱を劇的に下げ、命を繋ぎ止めるペニシリン。そして、刃物を用いず素手で開封でき、飢えを瞬時に満たす新型の缶詰。規律統制された衛生兵たちが展開する的確な医療支援は、瞬く間に香港中の耳目を集め、現地のイギリス当局や民衆から賛辞を浴びていた。


 その華々しい光の傍らで、瑞長財団の冷徹な商いはすでに牙を剥いている。

 泥と血の匂いが漂う救護所に隣接して、外界の喧騒から切り離された白亜の天幕が張られていた。足を踏み入れれば、そこには上質な円卓が置かれ、かつて香港で親交を結んだイギリス総督府の高官や、大陸を股に掛ける有力な西洋商人たちが招かれている。

 その中央で、冷えた洋酒のグラスを手に優雅に微笑むのは、陳瑞月である。南国の重苦しい湿気を一切感じさせない洗練された所作と、相手の懐へ滑り込むような商人の顔を持つ彼女は、海千山千の男たちの警戒心を鮮やかに解きほぐしていく。


「皆様、本日はこのような野戦天幕までご足労いただき、恐悦至極に存じます。どうぞ、こちらの果物をお手に取ってご覧くださいませ。氷でよく冷やした台湾の特産品でございます」

 瑞月が扇子で示す先には、色鮮やかな果実が硝子の器に美しく盛り付けられている。

「ご覧の通り、この特別な缶詰は、前線の兵士が手だけで容易に開封できるよう設計されております。さらに、皆様が今お召し上がりになっている純水。これもすべて、我が財団の船に搭載された浄水設備で、港の海水を濾過したものです。……ご所望とあらば、皆様の商館や植民地軍へも、融通させていただくご用意がございます」

 瑞月の淀みない言葉に、イギリス軍の高官たちが感嘆の息を漏らした。

「素晴らしい。熱帯の戦線において、兵士の命を最も奪うのは銃弾ではなく、不衛生な水による赤痢やコレラだ。この水と糧秣があれば、我が軍の継戦能力は跳ね上がるだろう」

「ええ。動乱の世において、兵の健康と胃袋を握ることこそが、勝利への最も確実な投資かと存じます」

 瑞月は艶やかに微笑みながら、目の前で繰り広げられている救護活動という実績を背に、列強の軍と商人の首根っこを瑞長財団の補給線に縛り付ける商談を、静かに、そして確実に進めていた。


 その日の夜。

 海に浮かぶ瑞長丸の船内。外界の喧騒が届かない静かな重役室に、瑞月、法務顧問の霧島誠一郎、そして軍装を解いた高柳少佐の三人が集結していた。

 ノックの音が鳴り、静かに扉が開く。大陸の情報を探る諜報班・エンが姿を現した。現地の商人に扮した目立たない身なりだが、その隙のない所作には、工作員としての精悍さが漂っている。


「江西都督、李烈鈞り れつきんの動向を掴みました」

 燕の淡々とした報告が、部屋の空気を一段と引き締めた。

「若くして一省の軍政を担う男ですが、北京の袁世凱から危険分子として睨まれ、周囲を敵対軍閥に囲まれています。軍の武器弾薬は底を突き、孤立無援の窮地に立たされております」

 その言葉に、霧島が銀縁眼鏡の奥で鋭く目を細める。

「李将軍か。日本の陸軍士官学校で学んだ経験もあり、気骨と先見の明を持つ男だと聞いている。我々の事業の真価を理解できる、数少ない逸材だろう。だが、我々の真の目的は彼の首や領土ではない」


 霧島は卓の上に、一枚の広大な大陸南部の地図を広げた。指し示されたのは、江西省南部の険しい山岳地帯である。

「狙いは、彼が実効支配している土地の地下に眠る資源そのものだ。タングステン、マンガン、コバルト、そして亜鉛。来るべき鋼鉄の時代において、兵器や産業の骨組みとなるこれらの希少な資源……そのすべての『優先購入権』を、我々が握らねばならない。軍閥と戦い血を流し領土を奪う必要などない。泥にまみれて掘り出すのは彼らの仕事だ。我々はただ、その恩恵を独占できる仕組みさえ作ればよい」

「将軍は、その資源を担保にして、香港の仲介人を通じて武器を買い付けようと潜伏したようです」

 燕が地図の一点を指差しながら言葉を継ぐ。

「今夜十時。九龍の入り組んだ路地にある高級料亭で、極秘の会合を行う手筈となっております。しかし……その仲介人は、すでに北京の袁世凱に買収されております。会合の場は、将軍を消すための罠です」


「なるほど」

 霧島は手元の資料に目を落とし、静かに口角を上げた。

「孤立無援の将軍に、これ以上ない恩を売る好機だ。燕、将軍が九龍へ向かう前に接触しろ。暗殺の事実を伝え、安全なこの瑞長丸へ丁重にお招きするのだ」



 九龍半島へ向かう薄暗い道中。李烈鈞は数名の護衛と共に、身を潜めるようにして歩を進めていた。軍の生命線となる武器を手に入れるため、頼みの綱である仲介人との会合へ向かう彼の表情には、隠しきれない焦燥が浮かんでいる。


「李将軍。その先へ行けば、死にますよ」


 唐突に闇の中から響いた静かな声に、護衛たちが一斉に銃を構える。しかし、李烈鈞は手でそれを制し、声の主を鋭く睨みつけた。そこには、商人のような外套を羽織った燕が、武器も持たずに一人で佇んでいる。


「何者だ」

「あなたの頼ろうとしている仲介人は、すでに北京の袁世凱に寝返っています。料亭の周囲は、あなたを殺すための刺客で完全に包囲されている」

 燕の言葉に、李烈鈞は息を呑んだ。確かに、道中の見張りの配置や街の空気に、微かな違和感を覚えていたのは事実だ。

「なぜ、私にそれを教える」

「あなたを犬死にさせないためです。港を見下ろしてください」

 燕が指差す先、ヴィクトリア港の一角には、不夜城のように煌々と輝く明かりがあった。瑞長財団の設営した巨大な難民キャンプである。


「我々は今、この香港で数万の命を救うための支援を行っています。袁世凱の端金で動くような小悪党ではありません。あなたを騙して端金の利益を得ることに、何の価値もない」

 燕は一歩だけ前に出た。

「我が財団の総帥は、将軍との『未来の取引』を望んでおられます。胡散臭い裏社会の繋がりではなく、本物の力と取引をしませんか」


 日本での留学経験があり、大局を見極める眼力を持つ李烈鈞は、港で堂々と輝く光と、目の前の女の理路整然とした態度に、己が陥っていた危うさを悟った。小さな仲介人に騙されかけていた自身を恥じつつ、彼は深く頷き、歩みを港へと向けた。



 瑞長丸の奥深くに設えられた、豪奢な貴賓室。

 波斯(ペルシャ)の絨毯を踏みしめ、重厚な革張りの長椅子に腰を下ろした李烈鈞の前には、霧島誠一郎と陳瑞月が静かに座している。


「ようこそ、瑞長丸へ。無事にお迎えできたこと、喜ばしく思います」

 霧島が静かに切り出した。李烈鈞は警戒を解かぬまま、低く唸るように口を開く。

「暗殺の罠から救ってくれたことには感謝する。だが、貴方たちがただの慈善事業で私を招いたわけではないことは分かっている。何を望む」


「ご明察の通りです」

 瑞月が、冷えた茶を李烈鈞の前にそっと置きながら、商人の底知れぬ笑みを浮かべた。

「単刀直入に申し上げます。将軍が実効支配しておられる江西省南部の山岳地帯。そこに眠るタングステン、マンガン、コバルト、そして亜鉛。それら希少金属のすべてを、いかなる列強よりも優先して我が財団が買い受ける『独占購入の権利』をいただきたい」


「独占購入権、だと……?」

 李烈鈞は怪訝な顔で眉をひそめた。

「貴方たちは、鉱山の採掘権や土地そのものを要求するのではないのか。西洋の商人ならば、まずそこを狙うはずだが」

「いえ。我々は商人であって、他国の土を足蹴にする野蛮な侵略者ではございませんもの」

 瑞月が絹の扇子で口元を隠し、優雅に微笑んだ。

「領土を切り取り、力で民を支配するなど、血に飢えた列強のやること。将軍の気高き領地は、将軍ご自身の誇りで護り抜いてくださいませ。我々はただ、貴方様がその地から掘り出した資源を、誰よりも確実な対価でお引き受けする……それだけの、慎ましいお願いでございますわ」


 李烈鈞は息を呑んだ。

 女は美しい笑みを浮かべて「領土は侵さない」と言った。聞こえはいい。だが、それはつまり、自軍を瑞長財団のための「資源採掘の防衛部隊」として完全に組み込むという宣言に他ならない。流血のリスクも、防衛のコストもすべて李烈鈞に押し付け、この財団は最も美味しい果実だけを合法的に、かつ独占的に吸い上げる気なのだ。


 霧島は卓の上に、分厚い契約書の束を滑らせた。

「我々は買い取りの対価として、財団が確立した最高水準の野戦医療を仕組みとしてご提供します。無論、我が人員を危険な大陸の戦場へ派遣するような越権行為はいたしません。将軍の軍医たちを極秘裏にこの安全な香港の瑞長丸へ受け入れ、最新の救護技術を指南します。その上で、我が船が生産する純水、奇跡の薬、そして高滋養の新型食糧を、他軍閥に優先して継続的に供給いたしましょう。……さらに、我々が日本政府の重鎮である伊藤公や児玉大将を通じて、将軍が最も渇望しておられる確実な武器調達の道をも開拓いたします」

 それは、孤立無援の将軍にとって、喉から手が出るほど欲しい「本物の力」であった。


「……私に、貴方たちの補給線に完全に依存せよと言うのだな」

「共に未来の利益を築くための、強固な協力関係と呼んでいただきたいものです」

 瑞月が静かに微笑む。

 恩義、圧倒的な物資、そして喉から手が出るほど欲しい武力。すべてを机の上に並べられた李烈鈞は、己が直面している決断の重さに押し潰されそうになっていた。


「……即答はできん」

 長い沈黙の後、李烈鈞は絞り出すように言った。

「これは私一人の命ではない。江西省の軍と民、数万の命運を左右する取引だ。貴方たちの物資の質、そして日本の要人を動かせるという言葉の真贋(しんがん)。それらを見極める時間が要る」


「当然のことです。我々としても、将軍には心からのご納得の上で署名していただきたい」

 霧島は微かに口角を上げ、深く頷いた。

「数日、この瑞長丸の貴賓室をご自由にお使いください。我が財団の支援物資の質も、外の救護所で存分にご自身の目でお確かめいただいて構いません」

「ただし、将軍」

 瑞月が、鈴を転がすような、しかし一切の逃げ場を許さない冷ややかな声で付け加えた。

「貴方がここで熟考されている間にも、外の情勢は刻一刻と動いております。袁世凱の包囲網が完成する前に、どうか賢明なご決断をなされますよう」


 血まみれの路地裏ではなく、優雅で静まり返った貴賓室の中で。

 未来の鋼鉄の時代を支配するための莫大な資源と、一国の将軍の首輪を懸けた、瑞長財団の冷徹で静かな「包囲戦」が、ここに幕を開けたのである。

ここまでお読みいただきありがとうございます。



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