第3話:春の海風と、沈まぬ船
明治四十五(一九一二)年、四月上旬。
帝都・東京の桜が舞い散り、柔らかな春の陽光が日本列島を包み込む中、一隻の大型客船が台湾の基隆港へと静かに滑り込もうとしていた。
「おい見ろよ、近衛、栗林! あれが俺たちの故郷、基隆港だ!」
甲板の最前列で、潮風に学帽を押さえながら御子柴が快活な声を上げた。その隣では久世が誇らしげに腕を組み、響子が「やっと帰ってきたね」と、故郷の風を胸いっぱいに吸い込んでいる。東京での進学を経て、春休みを利用した三人の帰省。しかし今回の旅には、帝都の学び舎で彼らと深く縁を結んだ二人の客人が同行していた。公家の血を引き、どこか浮世離れした気品を漂わせる近衛文麿と、実直な気風を持つ栗林忠道の姿があった。
「……驚いたな。もっと鄙びた南の島を想像していたが、これは……」
手すりから身を乗り出した近衛は、眼下に広がる光景に息を呑んだ。彼の目に映ったのは、想像していたような開拓地の素朴な港ではない。帝都の横浜港すら凌駕するほどに整備された、巨大で近代的な港湾の威容が広がっていた。整然と区画された石造りの埠頭、絶え間なく物資を積み下ろす無数の蒸気起重機、そして港に直結して敷設された真新しい鉄路。
その中でもひと際、近衛と栗林の目を引いたのは、埠頭の一角を占拠する異様な光景だった。
純度の高い銅線を芯とし、その周囲を漆黒の樹脂で何重にも分厚く覆った巨大な綱――海底電信線。シンガポールでの会談を経てイギリスとオランダから獲得した、深海用の特殊樹脂「ガタパーチャ」を惜しげもなく使用し、基隆工廠が昼夜を問わず製造し続けている最高品質の電信線が、巨大な巻き取り機から専用の敷設船へと、絶え間なく飲み込まれつつあった。
それは単なる物資の輸出入ではなかった。海の底へと沈められようとしているのは、台湾と内地を直結する“情報の大動脈”そのものだった。一介の民間組織が、国家規模の通信網構築という途方もない事業を平然と推し進めている。その並外れた工業力と事業の壮大さに、内地しか知らない二人は、康政が創り上げた「瑞長経済圏」の底知れぬ真の姿を目の当たりにして、静かに戦慄を覚えていた。
船が接岸し、タラップが下ろされると、埠頭には懐かしい顔ぶれが勢揃いしていた。
「お父さん、お母さん! ただいま!」
「康政くん! おじ様も!」
響子や御子柴、久世が、花が咲くような笑顔で駆け寄る。出迎える群衆の最前列には、康政や和也が穏やかな笑みを浮かべて立っており、その周囲には響子たちの家族も、我が子の立派になった姿を一目見ようと集まっていた。
たった数ヶ月の離郷とはいえ、血の繋がった家族との再会は何物にも代えがたい喜びをもたらす。御子柴の父親が息子の肩を力強く叩き、響子の母親が娘の手を優しく握りしめた。
「おかえり、響子さん。御子柴に久世」
康政は威ぶることも高圧的な態度を見せることもなく、昔と変わらぬ穏やかで優しい笑顔で三人を出迎えた。和也もまた、「みんな、よく帰ってきたね」と温かく頷いている。
「長旅、お疲れ様でした。近衛さん、栗林さん」
康政は二人の客人に向かって、丁寧にお辞儀をした。
「遠いところまでよくお越しくださいました。我が家だと思ってゆっくり寛いでいってください」
「招いてくれてありがとう、康政君。何もないどころか、君の故郷の凄まじい活気と事業の規模に、すっかり肝を冷やしているところだよ」
近衛の素直な感嘆に、康政は照れくさそうに微笑んだ。そこには、数千の命と富を天秤にかける特命の指揮官としての顔はなく、家族と友人を心から慈しむ、一人の青年の姿があった。
その日の夜、台北にある新城邸の広い居間は、久々の再会を喜ぶ温かい笑い声に包まれていた。
大きな円卓を彩るのは、豊かな台湾の旬の食材を用いた豪奢な料理の数々だった。肉厚で脂の乗ったハタの清蒸、黄金色に輝くカラスミ、そして瑞々しく極彩色の南国果実が所狭しと並べられている。
「遠慮しないで、どんどん食べてね。東京ではこんなに甘い果物はなかなか食べられないでしょう?」
響子が気を利かせて、近衛と栗林の皿に取り分ける。大財閥の邸宅での食事と聞いて緊張していた二人だったが、新城家の食卓を包む空気は、企業というよりは古くからの大家族の温もりそのものであった。康政や父の和也は、使用人たちに対してすら威圧感など微塵も出さず、誰もが固い信頼関係で結ばれているのが肌で感じられた。
「本当に素晴らしいご家族だ。……ただ、康政君を支えているという方々の姿が、何名か見えないようだが?」
近衛がふと疑問を口にすると、康政は少しだけ目を伏せ、穏やかに答える。
「瑞月姉さんは今、少し遠方へ赴いているんです。大陸の方へ」
「大陸へ?」
「ええ。怪我をした方々を助けるための、大切な仕事です。彼らも二人を歓迎したかったと申してましたよ」
康政の口調はひどく穏やかだったが、栗林は直感的に、その旅が単なる慈善事業ではないことを悟った。あの近代的な港湾設備と、計り知れない財力を誇る財団。それを支える人物が、動乱の大陸へ渡っている。この温かい家族の絆の裏で、彼らは世界を相手に、途方もない盤面を動かしているに違いない。
栗林は、目の前で優しく微笑む康政の、静かなる器の大きさに深い敬意を抱いた。
数日後、康政は近衛と栗林たちを連れて、台北の郊外にある施設「電気通信研究所」の厚い扉を開けた。
室内には無数の銅線や硝子管が乱雑に置かれ、壁には難解な数式がびっしりと書き込まれていた。その中央で、髪を振り乱した初老の学者、牧野博士が何やら叫びながら図面を叩いている。
「違う、そこじゃない! 陽極の角度があと一ミリでもズレれば、電子の波が干渉して増幅率が落ちるんだ!」
その傍らで、牧野の怒号を冷静に受け流しながら、驚くべき速さで計算尺を動かし、実験の数値を記録している若者がいた。牧野の優秀な助手、小暮宗太郎である。
「教授、落ち着いてください。そのズレは早川さんの職人技がすでに補正済みです。こちらの数値を確かめてください」
「分かってますよ、先生たち。……息を止めてるんで、少し黙っててください」
二人のやり取りを余所に、若き職人・早川徳次が極細の工具を操り、神業とも呼べる緻密さで、硝子管の中に微細な金属部品を組み上げてゆく。
「紹介します。牧野教授と助手の小暮さん、そして職人の早川さんです」
康政が静かに語りかける。
「海底電信線による有線の通信網構築と並行して、我々は海を越えるための無線の開発も進めています。牧野教授の難解な理論を、小暮さんが冷静に数値へと落とし込み、早川さんの職人技で現実に組み上げる。今ここで、世界最高峰の音声無線受信機が産声を上げようとしているんです」
理論と実証、そして技が一つに溶け合う瞬間。やがて、早川が組み上げた真空管に電気が通されると、ぽうっと淡い橙色の光が灯り、接続された受信機から澄んだ力強い電子音が鳴り響いた。
近衛は感嘆の溜息を漏らす。彼らは単に物を売り買いして富を築いているのではない。科学の粋と職人の技を見事に結びつけ、世界の在り方そのものを変えようとしているのだろう。
四月中旬の深夜、新城邸の奥に設けられた通信室に、けたたましい音が響き渡った。
シンガポールでの契約により接続権を得た大英帝国の国際海底電信網を経由し、ロンドン支社から緊急の特電が飛び込んできた。
『タイタニック号、氷山ニ衝突シ沈没。犠牲者多数』
暗い部屋の中、当直の通信士から報告の紙片を受け取った康政は、驚くこともなく、ただ静かに目を閉じた。
歴史は、寸分の狂いもなくその悲劇をなぞってゆく。大西洋の冷たい海で、今まさに多くの命が失われている。遠く離れた台湾の地からでは、あの巨大な船を救う術は何もない。康政はただ、失われた命に対して深い哀悼の意を捧げるとともに、改めて歴史の不可避な流れを噛み締めていた。
しかし、彼には悲しみに暮れている暇はない。夜明けを待たず、康政は造船部門を統括する荒金親方と、英国人技師のダンカンを緊急に呼び出した。
「康政坊、こんな夜更けに一体どうしたんでさあ」
眠い目を擦る荒金に対し、康政はいつもの穏やかな声音を潜め、財団を率いる者としての、静かで威厳に満ちた声を響かせた。
「大西洋で、不沈船と呼ばれたタイタニック号が沈みました」
「なんだと……!? あの四万トンの化け物が沈んだってのか!」
驚愕する二人を前に、康政は手元の図面を静かに広げた。
「不沈船の過信が、取り返しのつかない悲劇を招きました。これを対岸の火事と思ってはなりません。……荒金親方、ダンカンさん。現在、基隆、高雄で設計を進めているすべての船について、慢心がないか徹底的な再確認を行ってください」
康政の目は、冷徹なまでに未来を見据えていた。
「二重船底の構造、全乗客、乗員分の救命艇の搭載数、防水隔壁の仕様、そして完成したばかりのこの高性能無線機の常時配備。我々の設計に一切の抜かりや『沈むはずがない』という驕りがないか、白紙に戻す覚悟で洗い出してください。世界が変わる前に、新たな安全の基準を我々が打ち立てるのです」
「……合点承知でさあ。我々の造る船で、同じ悲劇は絶対に起こさせねえ」
荒金親方が顔を引き締め、力強く頷いた。
世界がこの未曾有の悲劇に震え、新たな海事安全基準を議論し始めるよりもずっと早く。康政の冷徹で確かな決断により、瑞長財団はすでに次代の安全基準を満たした船を造るべく、力強く舵を切り始めていた。
春の海風は、沈まぬ船を造り上げるための確かな決意を孕み、台湾の夜明けへと吹き抜けてゆく。
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