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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第6章:紅き血の誓約と、血を流さぬ覇道

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第2話:仁の進軍と、地下の富

 明治四十五(一九一二)年、二月十二日。

 台北の冬は驚くほどに穏やかだ。瑞長財団執務室には、南国特有の湿り気を帯びた柔らかな風が吹き込んでいる。

 静謐せいひつな室内では、象牙の算盤そろばんの珠が弾かれる小気味よい音だけが規則正しく響いていた。巨大な紫檀の長机の端で、財務統括の翠玲が、山のように積まれた新年度の予算案と格闘しているのだ。


 その静寂を、控えめだが切迫した戸を叩く音が破った。

「若様。失礼いたします」

 入室してきたのは、筆頭侍女のリンであった。普段は感情を表に出さない彼女の顔が、微かに上気している。その手には、海を越えて届いたばかりの、解読済みの暗号電信の紙片が握られていた。


「香港へ渡っている燕の諜報班から、緊急の『特甲』入電です」


 特甲――それは、財団の命運を左右する最重要情報にのみ付けられる符合だった。

 机上で書類に万年筆を走らせていた康政は手を止め、リンから紙片を受け取った。秋の終わり、大陸の動揺が臨界点に達することを見越した康政は、燕たち精鋭部隊を先んじて香港へ送り込み、あらゆる勢力の中枢に情報の「網」を張らせていたのである。


 短い文字列に視線を落とした康政は、ゆっくりと息を吐き出し、静かに口を開いた。


「……ついに、宣統帝(溥儀)が退位しましたか。清朝の、完全なる終焉です」


 康政のひどく透き通った声が、部屋に落ちた。

 その言葉が意味する歴史の重みに、同席して海外口座の書類に目を通していた法務顧問・霧島誠一郎が、銀縁眼鏡の奥で鋭く目を細める。


「二百年続いた大帝国の崩壊、ですか。列強の野心は、一気に大陸の土の下へ向かうでしょうな」

 霧島は分厚い革張りの帳面を閉じ、冷徹な法学者の顔で状況を分析し始めた。

「皇帝という『国家の重石』が外れた以上、かの地には法も秩序も存在しない空白地帯が生まれます。権力を失った旧政府軍、各地で蜂起した革命軍、そして自らの領地を国とうそぶく軍閥たち。……必ずや、血で血を洗う終わりのない抗争が始まります」


 その分析を聞き、翠玲が弾盤の手を止め、艶やかなため息を漏らした。

「大陸はこれから、軍需品の無尽蔵の胃袋になりますわ。弾薬、銃器、食糧、そして……兵士たちの命。どの軍閥も、戦い続けるための糧を求めて際限なく喉を鳴らすはずです。我々の工廠で造っている武器弾薬を流せば、文字通り黄金の山が築けますわね」


 しかし、康政は椅子から静かに立ち上がり、壁一面に掛けられた巨大な東アジアの地図を見上げた。


「我々は、彼らの泥沼に武器を売って日銭を稼ぐような、三流の死の商人になるつもりはありません」

 康政の声は、凪いだ海のように穏やかだったが、その奥には決して揺らぐことのない鋼の意志が秘められていた。

「彼らの争いによって流れる『血』は、我々が止めに行きます。霧島さん。大陸の混乱を利用して、我々の未来の造船や航空機開発に不可欠なものを手に入れます。特殊鋼の精錬や高出力機関エンジンに欠かせない希少金属……タングステン、マンガン、コバルト、亜鉛。これらを金銭ではなく、『命の対価』として取引するのです」


「命の対価……ペニシリンと、消毒薬ですか」

 霧島の問いに、康政は深く頷き、地図上の香港の港町を指先で静かに叩いた。


「大陸の混乱は、各勢力の首魁たちに、我々の薬の『圧倒的な効能』を骨の髄まで理解させる絶好の場でもあります。現在、高柳少佐と橘少佐が基隆で鍛え上げている機動医療部隊を、香港へ送ります」

 康政の眼差しに、冷酷なまでの合理性の光が宿る。

「燕の班が舞台を作り、そこに高柳少佐たちが乗り込み、実際に軍閥の目の前で瀕死の命を救ってみせる。死の淵にある兵士が蘇るという奇跡を突きつけられた権力者たちが、自ら進んで地下の富を差し出すよう、盤面を整えてください」



 数日後。台北の中心に鎮座する台湾総督府。

 その最も奥に位置する総督執務室は、外の穏やかな陽気とは裏腹に、張り詰めた空気に支配されていた。


 巨大な執務机の向こう側には、台湾総督・乃木希典大将が背筋を伸ばして座っていた。微動だにせず康政を見据えるその眼光は、数多の血生臭い戦場を潜り抜けてきた老獅子の如き鋭さを一切失っていない。


「康政。お主は、一介の財団が帝国の軍人を私兵のように動かし、火の海になりつつある大陸の動乱に首を突っ込むと申すか」


 乃木の声は低く、腹の底から響くように重かった。軍の部隊を国外へ、しかも崩壊した清朝という極めて政治的に敏感な地へ派遣するなど、通常であれば一蹴される暴挙である。

 しかし康政は、その威圧感を静かに受け止めながら、決して視線を外さずに口を開いた。


「いいえ、乃木総督。これは武力による介入や、利権を漁る火事場泥棒ではありません。医学という名の『仁』による、未来の布石です」

「仁、だと?」

「はい。清朝が完全に崩壊し、大陸はこれから救いようのない混沌へと墜ちます。その地獄の門の前で、我々はただ、彼らの血を止めに行くのです。高柳少佐と橘少佐が率いる三百の精鋭を、特別視察武官という形で大陸へ派遣する許可を頂きたい」


 康政は、持参した一冊の分厚い資料を机の上に静かに置いた。

 それは、財団が極秘に開発を進めてきた野戦医療運用と、将来の病院船二隻分の運用を見据えた、桁外れな規模の『兵站へいたん想定演習案』であった。


「我々が持ち込むのは武器弾薬ではなく、ペニシリンと、兵士の胃袋を満たす新型の糧秣です。……乃木総督。銃を突きつけて従わせた恨みは百年残りますが、死の淵から命を救い、飢えを満たしてやった『恩』は、血肉となって彼らの魂に刻まれます。そしてこれは、将来、日本が直面するであろう列強との大規模な総力戦において、いかにして兵士の命を護り、絶え間なく補給線を維持するかという実地試験でもあります」


 康政は、言葉に一際強い力を込めた。


「乃木総督。二〇三高地で命を散らした多くの兵士たちに報いるためにも、我々は『死なせない軍隊』の在り方を、一日も早く確立しなければならないのです」


 その言葉が執務室に響いた瞬間、乃木の眉間に深く刻まれた皺が、わずかに震えた。

 机の上に置かれた、分厚く無骨な乃木の手が、白くなるほど強く握り込まれる。


 旅順の苛烈な記憶――。十分な弾薬も、命を救う薬もなく、ただ精神論と肉体だけで鉄条網と機関銃の陣地へ突撃し、泥に沈んでいった無数の部下たち。

 そして、長男の勝典を失い、次男の保典までもが死の淵を彷徨ったあの地獄。

 しかし、銃弾に倒れ、誰もが諦めかけた次男・保典の命を、文字通り死の淵から引きずり戻してくれたのは、他でもない、高柳の執念の医術と、康政がもたらした『琥珀色の水』であった。

 あの時、彼らがいなければ、乃木は二人の息子を同時に失っていた。その圧倒的な事実と深い恩義が、乃木の魂の奥底に熱く刻み込まれている。


 長い、途方もなく長い沈黙が流れた。

 乃木はゆっくりと目を閉じ、そして、重い溜息とともに目を見開いた。その眼差しからは、先ほどまでの刺すような敵意は消え、代わりに、深い信頼と覚悟の光が宿っていた。


「……他でもない、高柳が行くというのなら、私が止める道理はない」

 乃木は静かに、しかし断固たる口調で告げた。

「高柳と橘、そして三百の兵。彼らを期間限定の人道的医療支援部隊として、私の権限において大陸への派遣を承認する。軍閥どもに、高柳たちの『仁』とやらを見せつけてこい」


「ありがとうございます。乃木総督」

 深く頭を下げた康政に対し、乃木は身を乗り出し、真っ直ぐに射抜くような視線を向けた。


「だが、康政。一つだけ約束せよ。彼らを、決して使い潰すな。一人残らず、必ず生きてこの島へ連れ帰れ」


「お約束いたします。……そして、乃木総督や帝国陸軍に政治的な累が及ばぬための『盾』も、これから手配するつもりです」


  深く頭を下げた康政の言葉に、乃木は眉をひそめた。

「盾、だと?」

「はい。いかに人道支援とはいえ、正規軍の部隊を動かしたとなれば、列強や内地の政敵から越権行為と横槍が入るやもしれません。ゆえに、総督からいただいたこの許可を携え、この足で内地の伊藤公と児玉大将に電信を打ちます」


 康政は、静かに、しかし有無を言わさぬ説得力を持って告げた。


「シンガポールでの縁を使い、この派遣を『香港の疫病防除を目的とした、大英帝国からの非公式な医療支援要請』という大義名分に仕立て上げるよう、内地の御二方に根回しを依頼します。伊藤公と児玉大将が動き、英国が表立って要請した形となれば、いかなる列強も総督の決断に口出しはできません」


 その言葉を聞いた瞬間、乃木は呆れたように目を丸くし、やがて腹の底から低く笑い声を漏らした。

「……ふっ。相変わらず、空恐ろしい若者よ。先に私に筋を通し、その上で政治の重鎮と大英帝国をも巻き込んで、完璧な大義名分を創り上げるというのか。……表は英国と日本の美しい人道支援、裏は泥沼の権益争いか」


「すべては、百年先の礎を築くためです」


「よかろう。内地の狐狸こりどもへの連絡は任せる。出航は三日後だったな。高柳たちに伝えよ、大英帝国の面子など気にするな。ただひたすらに、我々の『仁』を尽くしてこいと」


 三月初旬。台北郊外の機動医療部隊の訓練施設には、初夏の気配を孕んだ風が吹き抜けていた。

 康政は瑞月を伴い、泥濘の中で最終訓練に励む部隊の視察に訪れていた。ハルビンでの功績により異例の昇進を果たした高柳は、その襟元に輝く真新しい階級章に恥じぬ、堂々たる歴戦の指揮官の顔で康政を迎えた。


「高柳少佐、橘少佐。急な呼び立てを許してください」

 康政の言葉に、高柳は泥のついた手袋を脱ぎ、規律の取れた所作で敬礼を返した。

「いいえ。我々医療部隊の練度はすでに極限にあります。いつでも動ける準備はできておりますよ、康政様」


 康政は、乃木総督からの認可が下りたことを二人に伝えた。そして、その真の目的が、混沌の大陸における「命の奇跡」の実演と兵站網の構築、さらには特殊鋼に不可欠な希少金属の確保であることを静かに説いた。

「高柳少佐、軍医であるあなたにしかできない任務です。武器を持たず、医術と糧秣をもって軍閥たちの心を掌握していただきたい。……出航は三日後。基隆の港に瑞長丸を回航させます。部隊の移動と機材の搬入、抜かりなくお願いします」


 高柳は、康政の瞳に宿る冷徹なまでの先見性と、それを包み込む深い想いに改めて背筋を正した。

「承知いたしました。三日の猶予があれば十分です。部下たちには、これが単なる演習ではなく、我々の未来を懸けた真の戦いであることを叩き込んでおきましょう」



 三日後の夜。基隆港の第三埠頭。

 茜色の夕日が落ち、闇夜に浮かび上がる漆黒の船体は、瑞長財団の旗艦『瑞長丸』であった。

 漆黒に磨き上げられた船体は、二本の煙突から上質な石炭が燃える透き通るような薄煙を上げ、静かにその時を待っていた。この船は、単なる新鋭の高速船ではない。康政の指示のもと、数ヶ月の工期をかけて財団の全技術を結集した「動く要塞」にして「洋上の高度医療拠点」へと生まれ変わっていた。


 特筆すべきは、その内装に隠された革新的な設備の数々である。

 船底近くには、主機の廃熱を利用した「海水蒸留設備」が唸りを上げている。これにより、寄港して水を補給することなく、三百名以上の隊員に潤沢な飲用水を供給し、さらには高度な外科手術に不可欠な無菌の純水をも自給自足することが可能となった。

 また、貨物室の深部には、氷を一切使わずに電気の力で冷やす「大規模冷蔵設備」が鎮座している。これは、熱に弱く変質しやすいペニシリンを最適な温度で守り抜き、さらには大陸の泥沼で戦う兵士たちへ新鮮な肉や野菜、そして冷えた果物を提供するための、当時としては魔法に近い設備であった。


 船橋の奥では、早川徳次が張り巡らせた電気回路が、牧野の完成させたばかりの改良型無線電信機に命を吹き込んでいる。これらすべての最新鋭機器が、瑞長丸を単なる「船」から、時代を先駆ける「科学の結晶」へと変えていた。


 タラップの前には、整然と並ぶ三百名の医療部隊があった。

 彼らの背後では、大量の木箱が慎重に、かつ迅速に積み込まれていく。

 数千の命を繋ぐための薬と、完全な栄養価を誇る「新型糧秣」。そして、かつて康政が伊藤博文をも驚かせた、刃物を使わずに手だけで開封できる「台湾産果実の缶詰」である。


 荷役の喧騒が、ふと水を打ったように静まり返った。

 夜の帳が下りる埠頭を、純白の豪奢な航海服に身を包んだ瑞月が、音もなく歩いてきたからだ。その絶世の美貌と、周囲を平伏させるような絶対的な威容に、工員たちも衛生兵たちも、一様に息を呑んで立ち尽くした。

 その後ろからは、黒い外套を羽織り、分厚い革鞄を提げた法務顧問・霧島誠一郎が、銀縁眼鏡を光らせて静かに続いた。


「瑞月姉さん、霧島さん。準備は」

「万全ですわ。康政」


 瑞月の声は、澄んだ鈴の音のように美しかった。

「燕たちが大陸の軍閥どもを集めます。彼らの理性を奪い、思考を泥沼に沈めるのは、私の最も得意とする仕事ですわ」

「高柳少佐たちが『命の奇跡と潤沢な水、そして甘美な食事』を与え、瑞月代表が彼らを心酔させる。あとは、私がこの契約書に署名させるだけです。彼らは涙を流して感謝しながら、自らの足元にある鉱山を我々に差し出すでしょうな」

 霧島が、革鞄を軽く叩きながら冷たい笑みを浮かべる。


「お願いしましたよ、瑞月、霧島さん。そして高柳少佐、橘少佐」

 康政は、船の前に並び立った四人の顔を、深い信頼を込めて見渡した。

「大陸の地下に眠る希少金属は、我々の未来の船や機関エンジンを形作るための『骨』となります。彼らの血を止め、腹を満たし……その対価として、彼らの足元にある鉱物を一つ残らず、私たち財団の元へ」


「はっ!」

 高柳と橘が直立不動で敬礼を捧げ、瑞月と霧島が静かに頭を下げる。


「出航!」


 橘少佐の号令とともに、瑞長丸の重厚な汽笛が基隆の夜空に鳴り響いた。

 巨大な推進器が海水を掻き回し、漆黒の船体が岸壁から離れ始めた。

 甲板には、命を救う覚悟と、時代を買い取るための知略が同乗していた。


 康政は、風に吹かれながらその威容が水平線の彼方へ消えていくのを、言葉もなく見送った。

 蒸留された清らかな水、冷蔵された命の薬、そして絶世の美。それらを積み込んだ瑞長丸の航跡は、清朝崩壊という巨大な歴史のうねりを切り裂き、瑞長財団の新たな覇道を、世界に刻みつけようとしていた。

読んで頂きありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
> その静寂を、控えめだが切迫した戸を叩く音が破った。 >「若様。失礼いたします」 > 音もなく入室してきたのは、筆頭侍女のリンであった。 →ノックをして、声を掛けて入室してきたのに、『音もなく』と…
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