第1話:豊穣の記録と、志の共鳴
明治四十五(一九一二)年、一月。
台北の街には、新春を祝う爆竹の甲高い音が遠く響き、硝煙の匂いが微かに風に乗って漂っていた。内地ではまだ雪の舞う季節だが、ここ台湾の冬は穏やかで、開け放たれた窓からは柔らかな陽光が瑞長財団本部の執務室に差し込んでいる。
静かな室内で、算盤の珠を弾く小気味よい音だけが規則正しく響いていた。
巨大な紫檀の長机。その端で帳面に細い筆を走らせていた翠玲が、ふうと細い息を吐き出して顔を上げた。
「……明治四十四年度の事業報告書、全項目の照合が終わりましたわ。康政様」
翠玲から手渡された分厚い綴りをめくり、康政は静かに視線を落とす。そこには、ただの文字の羅列ではない、この島が遂げた劇的な変化の結晶が刻み込まれていた。
まずは農業生産高の項。嘉南平原をはじめとする大規模な農地開発面積と、財団の化学生産施設から惜しみなく投下された窒素肥料のトン数。それに比例して、米と甘蔗の収穫量は、わずか数年で史実の数倍という異常な跳ね上がりを見せている。
次いで、工業とインフラの項。長谷川謹介が指揮する縦貫鉄道の貨物輸送量は、前年比で十倍という暴走じみた数値を記録し、それに伴う石炭の採掘量と台湾全土の総発電量も急激な右肩上がりを描いていた。基隆港での貿易取扱高と、工廠で建造された鋼鉄船の総トン数は、もはや一介の民間財団が抱える規模を優に超えている。
そして康政が最も長く視線を留めたのは、衛生と人口動態の項である。
(阿長たちの物流網を利用した徹底的な水際での隔離と防疫。それに加えてペニシリンの各医療拠点への配備。台湾の風土病だったマラリアによる致死率が、信じられない速度で急減している。人口の自然増加率は、すでに内地のそれを大きく凌駕しつつあるな)
令和の知識を持つ康政の裡には、これらの「数字」が意味する未来の姿が明確に描かれていた。内地の資本家に搾取されるための植民地ではなく、自律して規格化された富を生み出し、民の命を育む強靭な『豊穣の島』の輪郭である。
康政が綴りを閉じたとき、控えめなノックの音が鳴り、執務室の扉が開いた。
「新年おめでとうございます、新城殿。今年もこの島は、活気に満ちておりますな」
上質な絹の長着を身に纏い、穏やかな笑みを浮かべて入ってきたのは、台湾中部を束ねる名家・霧峰林家の若き当主、林献堂であった。
康政は立ち上がり、深く頭を下げて林を長椅子へと促した。瑞月が流れるような足取りで近づき、白磁の茶器から立ち昇る芳醇な東方美人茶を二人の前に静かに置く。
無駄な音を一切立てず、ただ流れるような衣擦れの音だけが響く。透き通るような肌と、深い漆黒の瞳。湯呑みに茶が注がれるその一連の動作には一片の隙もなく、林献堂はその洗練され尽くした気品に自然と口を噤み、ただ静かに見惚れていた。
「新年のご挨拶に足を運んでいただき、恐縮です。林先生のお力添えなくして、先ほどの見事な収穫高はあり得ませんでした」
康政の言葉にハッとした林献堂は、茶の香りを楽しみながら、窓の外に広がる台北の活況へと目を細めた。
「二年前……貴方が我々地主の前に現れ、嘉南の土を掘り返すと言い出した時は、正直に申し上げて肝を冷やしましたよ。内地の資本家が、また我々の土地を奪いに来たのだと」
林献堂の指先が、茶碗の縁を静かになぞる。
「しかし、貴方は小作農から搾取するのではなく、共に土を耕し、共に富を分かち合う道を示した。だからこそ、私は同胞たる地主たちに頭を下げて回ることができた。今、農民たちの顔には泥だけでなく、明日への希望がこびりついています。……この島を真に愛してくださり、感謝の念に堪えません」
「私一人では、土を起こすことも種を蒔くこともできません。林先生をはじめとする、台湾の方々の信頼があったからこその実りです。本年も、どうか我々の歩みを支えてください」
康政が真っ直ぐに目を見据えて告げると、林献堂は力強く頷き、茶を飲み干した。支配者と被支配者ではない、同じ島を豊かにする同志としての確かな絆が、そこには結ばれていた。
林献堂を見送った後、康政と瑞月は馬車に乗り、台北郊外に新設された「瑞長医学研究所」へと足を運んだ。
建物の扉を開けると、石炭酸の鋭い匂いと、硝子器具が触れ合う微かな音が空気を満たしている。白衣姿の白石医師と、腕まくりをした高柳が康政たちを出迎えた。
「わざわざ正月からご苦労なこって。こっちは相変わらず、黴と睨めっこの毎日ですよ」
高柳が苦笑しながら、研究所の奥へと康政たちを案内する。そこには、山のように積まれた洋書の文献と培養皿に囲まれ、双眼の顕微鏡を鬼気迫る様子で覗き込んでいる一人の若い男がいた。
「渭水。特別顧問が見えられたぞ」
高柳が声をかけると、青年は弾かれたように顔を上げ、慌てて椅子から立ち上がった。指先にはインクの染みがこびりつき、目の下には深い隈が刻まれているが、その双眸には燃え盛るような強い光が宿っている。
彼の名は、蒋渭水。
乃木希典総督の肝煎りで創設された『台北帝国大学医学部』の俊英でありながら、財団が設けた「瑞長奨学金」の第一期生として、自らこの研究所の門を叩いた若き秀才である。
「あ、新城顧問……! 新年のご挨拶も遅れまして、申し訳ありません」
「構いませんよ、蒋さん。研究の邪魔をしてしまいましたね」
康政が温和な声で労うと、蒋渭水は強く首を横に振った。一年前、帝大で高柳が行ったペニシリンの実地指導に彼がどれほどの衝撃を受け、財団の理念に己の命を懸けようと決意したか、康政は幾度も聞かされていた。
「白石先生のご指導のもと、新しい放線菌の培養を急いでおります。『白い死神』……結核菌の増殖を抑え込む手立てが、ようやく少しずつですが、増産の形になりつつあります」
ペニシリンでは太刀打ちできない病魔を打ち倒すため、蒋渭水は寝食を忘れて顕微鏡のレンズに食らいついていた。
瑞月が音もなく蒋の傍らに歩み寄り、冷めきっていた彼の茶碗を下げ、新しく温かい湯気を立てる薬草茶をそっと置いた。その涼やかで美しい所作に、蒋はふっと肩の力を抜き、わずかに頬を染めて頭を下げた。
康政は、蒋の机に置かれた膨大な観察記録の束に視線を落とし、静かに口を開いた。
「結核の研究は、必ず歴史の闇を照らす光になる。どうか、ご自身の身体も労わりながら進めてください」
康政の言葉に蒋渭水が強く頷くのを見て、康政は続けて白石と高柳へ向き直った。
「白石先生。以前から指示を出していた鎮痛剤の件ですが、量産化の目処は立ちましたか」
「ええ。工程の規格化が終わりまして、もう間もなく、各医療拠点へ十分な量を回せるようになります」
白石が丸眼鏡の位置を直しながら答えると、康政は深く頷いた。
「よかった。病そのものを治すことはもちろん重要ですが、我々はまず、患者を苦痛から解放してあげなければならない。痛みに苛まれ続ければ、人は人としての尊厳を保てなくなります。治療の第一歩として、誰もが等しく痛みを和らげられる環境を整えたいのです」
ただ効率よく命を長らえさせるのではなく、患者の『尊厳』を護る。
その康政の静かな、しかし確固たる理念を耳にした瞬間、蒋渭水の手の中で握られていた万年筆が微かに震えた。彼が医学を志した根底にある『台湾の民を救いたい』という熱が、眼の前に立つ少年の底知れぬ慈愛と深く共鳴したのだ。
蒋渭水は唇を引き結び、康政の背中に向かって深く、そして長く頭を下げた。
日が落ち、街に灯りがともり始める頃。
財団本部での執務と視察を終えた康政は、新城邸の重厚な玄関扉を開けた。
「おにいさま!」
靴を脱ぐ間もなく、奥の廊下から短い足音がパタパタと近づいてくる。少し背の伸びた妹の沙絵子が、新しい着物を着て、満面の笑みで両手を広げて駆け寄ってきた。
その瞬間、結核や大規模農地開発について冷徹な計算を巡らせていた若き総帥の顔が、見る影もなく崩れ去る。
「沙絵子! ああ、お正月の晴れ着もとびきり可愛いな。はい、兄様からのお年玉だぞ」
康政は床に膝をつき、飛び込んできた妹を抱きしめ、懐から赤いぽち袋を取り出して手渡した。その後ろから、母の和子が「お帰りなさい、康政。甘やかしてばかりね」と苦笑交じりに歩いてくる。
傍らに控えていた侍女のリンが、両手を前で揃え、恭しく頭を下げる。
「お帰りなさいませ、若旦那様」
「ただいま、リン。正月から家のことを色々とありがとう」
康政が穏やかに微笑みかけると、リンは少しだけ口元を綻ばせ、康政が脱いだ上着を静かに受け取った。
居間にはストーブの温かな熱が満ち、厨房からは正月の祝膳の香りが漂っている。窓の隙間から、夜空に放たれた爆竹の音が、遠い雷鳴のように心地よく響いてくる。
康政は沙絵子の柔らかな髪を撫でながら、差し出された温かい茶飲み茶碗を両手で包み込み、ゆっくりと息を吐き出した。
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