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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第5章:飛躍の盤面 知の要塞

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第12話:鉄の規律と、静かなる実利

明治四十四(一九一一)年、秋。

 帝都の街路に立ち並ぶ銀杏が、緑から黄金色への衣替えを始めようとする頃。康政と瑞月は、目白台に広大な敷地を構える児玉源太郎の私邸を訪れていた。

 かつての台湾総督であり、瑞長財団が産声を上げた日より最大の理解者として陰に陽に支え続けてきた老将は、書斎の重厚な革張りの椅子に深く身を沈めて二人を迎えた。日露の激戦を潜り抜け、今は陸軍の中枢で政戦両略に心を砕く男の顔には、隠しきれない深い疲労の影が同居している。


「……康政君か。和也殿から連絡は受けていたよ。遠路、よく来てくれたな」

「児玉大将、御機嫌麗しゅう存じます」

 瑞月が深く、しかし流れるような所作で一礼し、康政もそれに倣って静かに頭を下げる。

「本日は、数日後に控えた軍務局の先生方との会合に先立ち、ご挨拶に伺いました」

「うむ。和也殿も相変わらずのようだな。……して、そちらの箱は?」

 児玉の視線が、瑞月の手元にある白木の箱へ向けられる。康政は温和な笑みを浮かべ、自らその箱を開いて卓の上に置いた。

「台湾の現状報告も兼ねて、新たに開発した糧秣の見本を持参いたしました。お身体の足しになれば幸いです」

 箱の中に整然と並んでいたのは、金属の鈍い光沢を放つ円筒形の容器――台湾特産の果実を封じ込めた缶詰であった。

「大将、こちらを試していただけませんか。台湾産のサトウキビから精製した、最良の砂糖を用いております」

 康政はそう言うと、缶の蓋に付いた小さな金属のリングを指し示した。

「開けるのに、刃物などの道具は要りません。その環を指で引くだけで開くようになっております」

 児玉は怪訝そうに太い眉を寄せたが、康政に促されるまま環に指をかけ、手前へ引いた。パチン、と小気味よい音がして、金属の蓋が驚くほど滑らかに剥がれていく。立ち昇ったのは、南国の太陽を凝縮したような瑞々しい甘い香りであった。

「……ほう。これは、驚いたな」

 児玉は添えられた匙で果実を一口運び、目を細めた。そして、缶の蓋の構造をじっと見つめ直す。

「戦場では、缶切り一つ失うことが部隊の生死を分ける。極寒の地で手がかじかんでいればなおさらだ。指一本で開くこの『手軽さ』……。そして疲労を癒すこの砂糖の滋養か。康政君、これは紛れもない軍略だぞ」

「間もなく稼働する高雄の生産設備によって、これらはいつでも万単位で量産可能となります」

 康政の静かな答えに、児玉は匙を置き、長く重い息を吐き出した。

「……今の陸軍上層部は、先の戦の勝利に酔いしれ、気合いと精神の鍛錬ばかりを声高に叫んでいる。だがな、康政君。精神だけで腹は膨れんし、敵の弾が防げるわけでもない。数え切れないほどの将兵が、病で大陸の土となったあの苦しい現実から、意図して目を背けているのだ」

 児玉は卓上のインク壺を引き寄せ、万年筆を手に取った。

「これから会う軍務局の宇垣一成という男は、数少ない『数字と兵站の重み』を知る実務家だ。だが、それゆえに民間に対しては石橋を叩いて壊すような慎重さがある。……これを持っていきなさい」

 児玉が書き上げたばかりの封書を、康政に差し出した。

「この添え状があれば、君たちをただの薬屋とは扱わんだろう。軍の面子を立てるための、いわば口添えだ。今の軍の空気に確かな布石を打つには、奴の理解が不可欠になる」

「お心遣い、感謝いたします」

 康政は両手でそれを受け取り、深く一礼した。



 数日後の夕刻。九段坂の上に建つ、重厚な煉瓦造りの洋館――偕行社かいこうしゃ

 陸軍将校たちの集うその建物には、軍靴が床を叩く響きと、強い葉巻の匂いが立ち込めていた。

 奥まった特別室の扉が開かれると、そこには宇垣一成大佐を筆頭とする数名の中堅将校たちが、軍服の襟を正して待ち構えていた。

 瑞長財団は現在、陸軍に対し初期型の塗布用ペニシリンを大量に納入している大口の取引相手である。だが、宇垣たちの視線には、優秀な薬屋に対する敬意以上に、軍の補給体系という聖域に食い込もうとする民間資本への、抜き身の刀のような警戒が宿っていた。


「新城康政君。児玉閣下からの添え状、確かに拝受した。掛けたまえ」

 宇垣の声は低く、室内には軍人特有の重く張り詰めた空気が満ちていた。

 その息苦しいまでの空間を、静かな衣擦れの音が切り裂いた。

 瑞月が一歩前へ進み出たのである。彼女は言葉を一切発することなく、卓の上に置かれた茶器へ手を伸ばした。白磁の急須を傾ける、細くしなやかな指先。湯呑みに注がれる緑茶の微かな水音。ガス灯の柔らかな光が、彼女の艶やかな黒髪と、洗練され尽くした所作のすべてを照らし出している。

 ただ茶を淹れ、卓の前に置く。その一連の動きの中に、一片の無駄も、隙も存在しない。

 葉巻を手にしていた将校の手が止まり、紫煙が空中で揺らいだ。彼らは、瑞月の放つ静謐な美しさに気圧され、無意識のうちに組んでいた足を下ろし、背筋を正していた。


「宇垣先生。本日は、我々がお納めしている薬の今後の展望について、お話ししたく参りました」

 康政の穏やかな声が、静寂を取り戻した室内に響く。宇垣は目の前の茶に口を付けることなく、鋭い眼光を康政に向けた。

「新城君。君たちの薬の効能は、もはや疑っておらん。特に、伊藤公を救ったという点滴や経口の新型……あれを全軍に配備したいという声は、前線の軍医からも上がっている。だがな」

 宇垣は言葉を切り、深い苦渋を滲ませた。

「軍にも予算という壁がある。平時において、あれほど高価で希少な新薬を万単位で買い揃えることは、現状の陸軍には不可能だ。君たちを儲けさせるために、兵の外套や弾薬を削るわけにはいかんのだよ」

 宇垣の言葉には、国を預かる実務家としての切実な現実があった。康政は、その言葉を遮ることなく、静かに頷いた。


「おっしゃる通りです。先生方が、予算の壁に苦しんでおられることは存じております。我々も、不当な値を付けるつもりはございません。……ところで、先生。我々が内地の二箇所の造船所にて、二万トン級の大型船を二隻、同時に建造していることはすでにご存知かと思います」

 宇垣の眉が跳ね上がった。軍の諜報網が掴んでいる情報を、相手から先に、しかも平然と明かされたからだ。

「……いかにも。一介の薬屋が、なぜ戦艦に匹敵する巨艦を二隻も造る。陸軍の輸送を独占し、我々の首根っこを押さえるつもりか」

「独占が目的ではありません。我々が巨艦を造り、高雄に巨大な工場を建てるのは、軍の『予算の壁』を我々の手で取り払うためです」

 康政は、卓の上に児玉に見せたのと同じ新型糧秣の缶詰を提示し、その場で自ら蓋を開けて見せた。甘い香りが、葉巻の煙を押し退けるように室内に広がる。

「桁違いの量産と、二隻の巨艦による自前の輸送網。これらが揃えば、薬の単価もこの滋養に富んだ糧秣も、軍が無理なく買える価格まで押し下げられます。我々がこの巨大な盾を造り上げるのは、有事の際、国が動けない時でも高雄の砂糖や薬を確実に前線へ届けるためなのです。初期の莫大な建造費用は、すべて我々瑞長が被ります」


康政のその提案に、宇垣たちは言葉を失った。軍の台所事情を理解し、そのリスクを民間の資本で肩代わりするという、あまりにも合理的な「実利」の提示。

 宇垣は、康政が単なる理想家ではなく、二隻の巨艦という物理的な質量を背景にした、恐るべき実務家であることを理解した。

「新城君。君は、我々が喉から手が出るほど欲しいものを、最も痛いところを突きながら差し出してくるな」

 宇垣は深々と椅子に背を預け、ようやく少し冷めかけた茶に口を付けた。

「よかろう。君の言う通りだ。高雄の工廠が稼働した暁には、一度この目で確かめに行かせてもらおう。……君たちの造るその盾、当てにさせてもらうぞ」

 宇垣の頷きに、康政は再び温和な微笑みを浮かべ、静かに一礼した。

読んで頂きありがとうございます。


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