第11話:帝都の風と、揺るがぬ礎
明治四十四(一九一一)年、秋。
台北の新城邸では、広大な庭の木々を揺らす風に、微かな秋の涼気が混じり始めていた。
縁側の座布団にあぐらをかき、手元に広げた数枚の和紙をじっと見つめていた和也は、ふっと深く、重みのある溜息を吐き出した。その手には、大磯で静養を続けている伊藤博文からの、墨痕鮮やかな書簡が握られている。
「父さん。お茶を入れ替えましたよ」
十六歳となった康政が、湯気を立てる新しい湯呑みを和也の膝先へ静かに置いた。和也は顔を上げ、康政の落ち着いた瞳を見てわずかに目尻を下げると、書簡を畳に置いた。
「康政、大磯の伊藤公からだ。文面には、公が床に伏している間に、中央で日韓の併合が随分と拙速に進められてしまったことへの、やり場のない無念さが綴られているよ」
和也の声は、家族を、そして財団という巨大な運命を背負う男としての深みが滲んでいた。
康政は自らの湯呑みを両手で包み、温かい茶の香りを静かに吸い込んだ。
(伊藤公が暗殺を免れ、ロシアとの会談を経ずに帰還したことで、強硬派の歩みは一時的に鈍ったはずだった。だが、彼らはあのハルビンの事件そのものを、併合を強引に推し進めるための口実として利用した。熱狂という名の奔流がもたらす、歴史の道筋を引き戻そうとする力は凄まじいな)
康政は、心の中では冷徹にこの時代の地政学的な慣性を読み解きつつも、和也の方へ向き直ったその瞳には、父を気遣ういつもの温かな光を宿していた。
「父さん。伊藤公の言葉が中央の熱狂にかき消されつつある今だからこそ、僕たちがすべきことがあります」
「……と言うと、帝都へ行くことか」
「はい。上層部の声高な理想や精神論に付き合うのではなく、実際に現場で兵や物資を動かす中堅の将校たちと、直接の繋がりを持っておくのです。彼らの兵站という急所を僕たちが握っておけば、それがひいては、この台湾の平穏を守る強い防壁になります」
和也は茶を一口啜り、康政の言葉を噛みしめるように庭の緑へ目を向けた。
「そうだな。お前の言う通りだ、康政。理屈をこねる奴らよりも、泥を被って現場の理に励む連中こそが、最後には国を動かす。だが、帝都の連中は一筋縄ではいかん。康政、一人で行かせるわけにはいかんな」
和也は、同じ部屋の少し離れた文机で帳簿の整理をしていた瑞月を振り返った。
「瑞月さん。康政が少しばかり帝都の連中を相手にするんだが、同行してやってくれないか。瑞月さんがいてくれれば、あちらの古臭い連中も、迂闊な真似はできんだろう」
瑞月は静かに筆を置き、優雅な所作で振り返った。その艶やかな唇が、ふわりと綻ぶ。
「ええ、和也様。康政の手助けとなるよう、しっかりと務めさせていただきますわ」
南風に黒髪を揺らす彼女の表情は、どこまでも自然で、和やかな響きに満ちていた。
十日後。
基隆港から船旅を経て横浜港へ到着した康政と瑞月は、汽車を乗り継ぎ相模湾の波音が響く大磯へと足を運んだ。
駅を降りた彼らの周囲には、瑞長財団の手配した東京支部の者たちが、護衛として付き従っている。康政たちを幾重にも守る、静かな意志がそこにはあった。
松林に囲まれた、静謐な別邸。
潮騒が遠く聞こえる奥の間へと通された康政と瑞月は、畳の上で深く頭を下げた。座椅子に腰を下ろしていた伊藤博文は、ずいぶんと痩せ細っている。
「伊藤公、御機嫌麗しゅう存じます」
まずは面識のある瑞月が、透き通るような声で挨拶を口にし、隣に控える少年へ視線を向けた。
「本日は、財団の設計理事であり、和也様の御令息である康政をお連れいたしました」
伊藤は目尻の皺を幾重にも深くして顔をほころばせ、康政をじっと見つめた。
「おお、君があのハルビンの手配をした若き知恵袋か。あの時は、君たちが送り届けてくれた薬と、横浜までの迅速な手配に命を救われた。よく来てくれたな」
「お初にお目にかかります、新城康政と申します。お身体の具合はいかがでしょうか」
「痛みは随分と和らいでいる。だが、康政君……私は、自らの不甲斐なさを恥じているのだ」
伊藤は、力なく膝へ視線を落とした。
「あの半島の統治について、私の目算では、あと十年、二十年の月日をかけるつもりであった。教育と産業の土台を根付かせ、両国の民が緩やかに手を取る道を模索していたのだ。だが、山縣ら急進派どもは、私が床に伏せっている間に、併合の印を押してしまった。……すまない、命を救ってもらったというのに、この有様だ」
畳の上に置かれた伊藤の手が、微かに震えている。康政は、温和な瞳でその述懐を受け止めた。
「伊藤公。過ぎた時間は戻りません。ですが、公が示された『緩やかに手を取る道』という志は、決して消えてはいません。僕たち瑞長財団は、いかなる嵐が吹こうとも、教育と産業で生活を豊かにするという道を手放すつもりはございません」
康政はそう告げると、瑞月が傍らに置いていた白木の箱を二つ、伊藤の前へ進めた。一つにはガラス瓶が、もう一つには金属の光沢を放つ円筒形の容器が収められている。
「こちらは基隆の設備ですでに製法を確立した薬と、新たに開発を終えた新型の糧秣……『缶詰』の完成見本です。蜜柑や魚だけでなく、台湾特産のパイナップルやマンゴーを、最も栄養価の高い状態で封じ込めました。間もなく稼働する高雄の生産設備によって、これらは量産可能となります。また研究所では労咳に対しても、有効な薬の研究を進めております」
伊藤の目が、驚きに大きく見開かれた。その時、伊藤の傍らに静かに座していた二人の男と、部屋の入り口近くに控えていた若者が、僅かに身を乗り出した。
「おお、そうであった。丁度良い折だ」
伊藤はどこか誇らしげに目を細め、彼らを康政に向けた。
「康政君、不意の引き合わせで驚かせたかもしれんが……彼らは、私の目が黒いうちに、どうしても君と会わせておきたかった男たちだ。内政を担う原敬、そして外交を担う牧野伸顕。後ろにいるのは牧野の身内で、吉田茂という。原、牧野。この康政君こそが、瑞長財団の若き知恵袋だ」
原敬が、鋭い眼光を十六歳の少年へ向けた。
「康政君、君たちが台湾で築いている産業基盤の規模は、我々も耳にしている。だが、軍という組織は自らの外側にある大きな力を嫌うものだ。いかに優れた薬や兵糧であろうと、一介の民間組織が兵站の要を握ろうとすれば、彼らは必ず君たちを飲み込もうとするだろう。その摩擦を、どう躱すつもりかね?」
「正面から競い合うつもりはありません。きっと彼らは大陸の広さと悪疫、熱病、そして補給の壁にぶつかり、万策尽きるでしょう。その時に瑞長財団の生産基盤が必要になる、軍が我々の領域に手出しできない状況ができるのです。……原先生、是非近いうちに、高雄の地へ視察にお越しいただけませんか。我々が何を護ろうとしているか、その目でお確かめいただきたいのです」
原は、少年が口にした一筋縄ではいかないと言える構想と、迷いのない招待の言葉に、一瞬言葉を失い、小さく息を呑んだ。
続いて牧野伸顕が、静かな口調で尋ねた。
「先日、シンガポールで君たちが大英帝国やオランダの巨大資本と渡り合い、油や資源の権利を引き出したと聞いた。列強の資本を相手にするのは、一歩間違えれば国を巻き込む火種になる。それをどう治めるつもりか」
「国と国とが表立って動けば、必ず火種となります。だからこそ、我々のような民間の商いの形をとるのです。財団が衛生の仕組みを提供し、彼らが資源を出す。互いの利で結びついた関係であれば、列強も無闇に手は出せません。牧野先生、外交の表舞台で戦う貴方様の盾となる準備が、台湾にはございます。是非一度、伊藤公と共に南の島の空気を感じに来てください」
牧野は、外交官にも劣らぬ国際感覚と実利に基づいた回答に、深く感銘を受けたように見えたが、その瞳の奥ではなお慎重な光が揺れていた。
部屋の隅で筆を走らせていた吉田茂は、そのやり取りを食い入るように見つめていた。原や牧野といった国の重鎮を相手に、一歩も引かず、むしろ彼らを唸らせるような答えを返す少年。吉田は、この十六歳の少年が数十年先の国の形を見透かしているような底知れなさに、筆を握る手にじわりと汗を滲ませていた。
伊藤は三人の反応に満足げに頷き、文箱から和紙の束を取り出した。
「原、牧野。国を動かすには、時にこうした枠に収まらぬ力が必要になる。康政君の誘い、私も身体が許せば是非受けたいものだ。この縁、決して絶やすなよ。康政君、これは海軍の秋山、そして陸軍の宇垣らへの書状だ。私の威光が少しでも残っているうちに彼らと会い、君たちの確かな布石を打っておきなさい」
夜の帝都・銀座。
ガス灯の柔らかな光が赤煉瓦の街並みを照らし、行き交う馬車の蹄の音が夜気を震わせている。表通りの喧騒から少し入った場所にある洋食屋『煉瓦亭』の二階席。
人目を避けるように選ばれたその場所には、康政の到着を待っていた久世、御子柴、響子の姿があった。
「康政くん、長旅でお疲れではありませんか」
響子が微笑みながら、冷たい水の入ったグラスを滑らせる。
「ありがとう、響子さん。皆も元気そうで何よりです。……そちらの方々は?」
康政の問いに、御子柴が隣に座る、どこか生真面目そうな青年を紹介した。
「俺と同じ陸軍士官学校で学ぶ、栗林忠道だ。精神論ばかりの授業に疑問を持つ、数少ない学友でな」
栗林は居住まいを正し、「初めまして。栗林です」と短く、しかし芯のある声で挨拶した。
続いて久世が、隣に座る、育ちの良さを感じさせる端整な顔立ちの青年を紹介する。
「一高で知り合った近衛文麿君だ。彼もまた、今の帝都の浮ついた空気に、私と同じような戸惑いを感じていてね」
近衛は柔らかな微笑みを浮かべ、「久世君から、君の話は予々聞いているよ。新城康政君」と、落ち着いた口調で語りかけた。
気心の知れた顔を見た彼らの肩から、帝都生活の張り詰めた緊張がふっと抜けていくのがわかった。
紹介を終えた後、康政は鞄から、黄金色に輝くマンゴーの砂糖漬けが入った小袋と、ずしりと重い数個の円筒形の缶を取り出し、テーブルに置いた。
「父さんから預かってきた、台湾の土産です。この菓子と、パイナップルやマンゴーを最新の技術で封じ込めた缶詰です。皆さんに、と」
「ほう、これは珍しい。士官学校の粗末な飯より、ずっと旨そうだ」
栗林が興味深げに缶を手に取り、その重みを確かめる。一方で響子や久世は、懐かしい故郷の香りがする菓子を口に運び、目を細めた。
「新城君、今の帝都の浮ついた空気より、君の言う『揺るぎない土台』に僕も興味がある」
近衛が柔らかな微笑みを浮かべ、康政を見つめた。
康政たちの席から少し離れた窓際では、瑞月が一人で紅茶を口に運んでいる。
ガス灯の光に照らされたその際立つ美貌に、声をかけようとした酔客も、彼女の涼やかな視線に触れた途端に気後れしたように立ち去っていく。彼女の静かな佇まいは、若者たちの穏やかな時間を守る、何よりの防護壁となっていた。
「近衛さん、台湾に足を運んでもらえたら理解できると思うよ。百聞は一見にしかずと言うしね。それにしても、帝都は窮屈じゃないか?」
康政が問いかけると、栗林が苦い表情で答えた。
「ああ。兵器の質や補給の数字よりも、気合いを説く空気ばかりだ。兵が飢えては戦にならんというのに」
近衛は何かを深く考え込むように、手元の缶を見つめていた。
「皆さんがここで冷静に学んでいる間に……僕は台湾に、誰もが健やかに暮らせる土台を完成させます。精神論に疲れたら、いつでも帰ってきてください」
康政の温和な励ましは、冷たい帝都の風にさらされていた若者たちの胸に、静かに、しかし深く染み込んでいった。久世が口元を綻ばせ、御子柴は照れ隠しに菓子を口にし、マンゴーの缶を愛おしそうに撫でる。
ガス灯の揺らめく窓辺で、時代を背負うことになる若者たちは、久方ぶりの穏やかな時間を分かち合っていた。
読んで頂きありがとうございます。




