第10話:熱狂の鉄と、白き大隊の産声
明治四十四(一九一一)年、夏。
南台湾に位置する高雄の地は、焦げるような太陽の光に炙り出され、むせ返るような熱気に包み込まれていた。
大規模な築港と工業地帯の測量が開始されてから、およそ一年半。かつて鄙びた漁村に過ぎなかった海岸線は、いまや凄まじい活気と土煙が支配する、巨大な建設現場へと変貌を遂げている。
新城和也と康政は、随伴の阿長を引き連れ、まずは現場の背後に広がる「労働者居住区」に足を踏み入れた。
通常、これほどの大規模工事ともなれば、労働者たちが寝泊まりする飯場は汚物にまみれ、疫病の温床となるのが常である。しかし、目の前に広がる光景は、和也の太い腕にすら鳥肌を立たせるほどに異質であった。
碁盤の目のように整然と区画された通りには、赤煉瓦で基礎を固めた清潔な宿舎が立ち並んでいる。各所には巨大な貯水槽が設けられ、そこから引かれた鉄管の蛇口をひねれば、透き通った水が勢いよく飛び出す。
「新城の旦那! 坊ちゃんも、よくおいでなすった!」
手ぬぐいを首に巻いた、筋骨隆々の人足頭が、康政たちの姿を認めるなり駆け寄ってきた。その顔は日焼けして真っ黒だが、頬には健康的な血色がみなぎっている。
「どうだ、ここの暮らしは。不便はないか」
和也が腕を組み、鷹揚に尋ねる。
「不便どころの話じゃねえですよ! 蛇口の水をそのまま飲んでも誰も腹を下さねえし、厠だって水で流せるから少しも臭くねえ。おまけに仕事終わりには、あの馬鹿でけえ湯屋で毎日垢を落とせるんだ」
男は興奮冷めやらぬ様子で、宿舎の奥に建つ公衆浴場の煙突を指差した。
「おかげで、熱病で倒れる奴が一人もいねえ。皆、腹の底から飯を食って、次の日にはあり余る力で土を掘り返せますぜ。こんな極楽みたいな現場、台湾はおろか内地にだってありゃしねえ!」
男が深く頭を下げるのを見て、和也は満足げに鼻を鳴らした。
「父さん。やはり阿長や白石先生に徹底していただいた衛生管理の恩恵は絶大ですね」
康政は、傍らに控える阿長に視線を送り、温和な笑みを浮かべた。
「皆さんの健やかな体こそが、瑞長にとって何よりの宝ですから。どうかご自愛の上、日々の務めに励んでください」
康政の穏やかな声に、人足頭は照れくさそうに頭を掻き、「任せてくだせえ!」と威勢よく現場へと駆けていった。
居住区を抜け、海沿いの重工業区画へと足を踏み入れると、空気は一変した。
清潔な水の匂いは消え去り、肺を焼くような石炭の煤煙と、鉄と泥の入り混じった重い匂いが鼻腔を突く。
海面では巨大な蒸気浚渫船が真っ黒な煙を吐き出しながら、海底の泥を無骨な鉄の爪で掬い上げている。陸地を見渡せば、広大な敷地に無数の円筒形の鋼鉄製貯蔵槽が建設の真っ最中であった。
カン、カン、カンッ!
耳をつんざくような金属音が絶え間なく鳴り響く。焼けて赤く発光する鉄の鋲が宙を舞い、それを受け取った職人が凄まじい腕力で鉄板に打ち込んでいく。
「和也様! 康政君!」
轟音を切り裂くように、若い男の声が響いた。
足元の泥を跳ね上げながら小走りで近づいてきたのは、頭からつま先まで泥だらけになった作業着姿の青年――八田與一であった。小脇に分厚い図面の束を抱えた彼の瞳は、熱病に浮かされたようにギラギラと輝いている。
「おお、八田君! 山の様子はどうだ」
和也が笑いながら、泥だらけの八田の肩を叩いた。八田は姿勢を正し、息を弾ませながら口を開いた。
「お約束通り、山間の巨大な堰堤と水力発電所は完成いたしました。巨大な水車はすでに轟々とうなりを上げ、送電網の敷設も最終段階です。いつでもこの高雄へ、途方もない量の電力を送り込めます!」
その報告に、和也の目が鋭く光った。
「やったな。これでいよいよ、この島が本当の化け物になる準備が整ったというわけか」
康政は、傍らに置かれた頑丈な木箱の中の赤褐色の土――シンガポールの交渉を経て、成分分析と試験精錬のために先行して持ち込まれた蘭印の泥に視線を落とした。
「八田さん。あなたの造り上げた莫大な電力が、この施設に注ぎ込まれる時……この不毛な土は、世界を変える金属に生まれ変わるのです。本当に、素晴らしい仕事をしてくださいましたね」
康政が深い敬意を込めて語りかけると、八田は泥だらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
彼が完成させた水力発電インフラこそが、瑞長の心臓だ。これで内地の重工業すら凌駕する土台が揃う。
巨大な変電設備の骨組みを見上げながら、康政は胸の内で静かに熱い炎を燃やしていた。
数日後。
舞台は変わり、台北市外、基隆河の沿岸に広がる錫口の平野。
見渡す限り、木々や起伏が不自然なほどに削り取られ、ただ平坦な土の地面が地平まで続いている。
康政と白石医師は、その広大な平野を見下ろす小高い丘の上に立っていた。
「よぉーし! そこで止まるな! 搬送班、次亜塩素酸の桶へ手袋を浸せ!」
泥だらけの平野に、橘少佐の腹の底から絞り出すような怒号が響き渡る。
眼下では、白い腕章を巻いた数千人規模の集団が、泥まみれになりながら狂ったような速度で動き回っていた。彼らが手にしているのは銃ではない。巨大な白い天幕の支柱であり、担架であり、そして消毒液の入った重い木樽である。
「天幕の設営完了! 施術台、固定!」
「負傷者搬入! 止血帯よし、ただちに洗浄へ移る!」
高柳中尉が懐中時計を片手に、鋭い目で彼らの動きを追っている。
それは、軍隊の過酷な規律と、白石が構築した新城規格の衛生観念が完全に融合した、異様な訓練風景であった。
何もない泥の平野に、数十人の男たちが一斉に取り掛かり、わずか数分のうちに巨大な救護所を立ち上げる。そこへ負傷者役の兵士が次々と運び込まれ、入り口で徹底的な泥の洗浄と消毒が行われた後、清潔な天幕の奥へとシステマチックに送られていく。
泥の海の中に、決して汚れを許さない「絶対的な白」の領域が、瞬く間に形成されていくのだ。
「信じられません」
隣に立つ白石医師が、震える手で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「私が理想とした衛生管理の徹底が、これほどの規模と速度で……しかも、野戦の泥の中で実現されるなど。高柳中尉と橘少佐の手腕、まさに神業です」
「ええ。高柳中尉の医療統括と、橘少佐の兵站と規律の統括。二人の歯車が完璧に噛み合っています。彼らこそが、やがて世界を救う『白き盾』となるのです」
康政は、泥まみれになりながらも一糸乱れぬ動きを見せる大隊の姿に、温かい眼差しを向けた。
康政の視線は、訓練の様子だけにとどまらなかった。
広大な平野の片隅に、周囲の天幕とは明らかに異質な、頑強な鉄骨とトタンで組まれた巨大な格納庫が建っていた。その入り口には『台北帝都大学・航空飛行学部』と墨書きされた真新しい看板が掲げられている。
開け放たれた鉄の扉の奥。
そこには、軍服を脱ぎ捨て、油まみれの作業着に身を包んだ乃木保典中尉の姿があった。彼は数人の大学の技術者たちを相手に、木材と帆布で組まれた巨大な骨組みを指差し、身振りを交えて激しい議論を交わしている。
時折、ノコギリで木を挽く音や、金属の留め具を金槌で打ち込む乾いた音が、風に乗って丘の上まで届いてくる。
康政は、幾千の足跡で踏み固められた、見渡す限りの平らな大地を見つめた。
ここはただの練成地ではない。
「康政君? どうかしましたか」
黙り込んだ康政に、白石が不思議そうに声をかけた。
「いえ。あまりにも頼もしい光景に、見惚れていただけです」
康政は白石に向かって穏やかに微笑むと、再び眼下の平野へと顔を向けた。
泥臭い号令の声。担架のきしむ音。そして、格納庫から響く微かな金属音。
遠く離れた海峡の向こうで、学友たちがそれぞれの戦場に身を投じているように。ここ台湾の地でもまた、鉄と血の通った巨大な歯車が、確かな重みを持って回り始めている。
康政は、吹き抜ける南風に詰め襟の首元をわずかに緩めると、来るべき嵐の時代を見据えるように、ただ静かに目を細めた。
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