第9話:断絶の糸、未来への布石
明治四十四(一九一一)年、五月。
台北の街は、天を割るような激しい夕立に見舞われていた。赤煉瓦の街路を叩く雨粒は白く煙り、熱を帯びた大地からむせ返るような土の匂いを立ち昇らせている。
その激しい雨が止み、雲の切れ間からオレンジ色の鈍い夕光が差し込み始めた頃。新城邸の広い庭を望む縁側に、四人の若者が座していた。
卓の上には、和子が用意した冷たい緑茶と、甘く煮たパイナップルの果実が並んでいる。
「いよいよ、明日ですね」
康政が静かに口を開くと、隣に座っていた久世が、手元の湯呑みをじっと見つめたまま短く頷いた。
「ああ。荷物はすべて基隆へ送った。あとは、この身を船に乗せるだけだ」
久世の言葉には、感傷を押し殺したような硬さがあった。彼は帝都の第一高等学校、そしてその先の東京帝国大学法科を見据えている。康政には分かっていた。彼が求めているのは、単なる学問ではない。この島を、そして康政が築きつつある瑞長財団の基盤を、中央の理不尽な横槍から守り抜くための「盾」としての権力だ。
(彼が中央の法務や内務の要職に就けば、瑞長が手に入れた『油』や『赤い土』の利権を、国家の名の下に奪おうとする勢力に対し、法理という名の防壁を築ける。彼は僕にとって、最も信頼できる法的な外部脳になるはずだ)
康政は心の中でそう確信し、久世の横顔を穏やかな眼差しで見つめた。
「久世君。内地はここよりも冷えます。特に入試の時期は。……どうか、その研ぎ澄まされた頭脳を曇らせないよう、自愛してください」
「ふん。お前こそ、俺がいない間に台湾を別の国に造り変えてしまうなよ。戻ってきた時に道に迷うのは御免だ」
久世が不器用な笑みを浮かべ、康政の差し出した茶を受け取った。
「俺は、道に迷う心配はないな。空から見下ろせばいいんだから」
御子柴が、膝の上に置いた猛禽の木彫りを愛おしそうに撫でながら笑った。彼は陸軍士官学校へと進む。明治の末、空を飛ぶ機械はまだ「命知らずの曲芸」と揶揄される時代だったが、彼の瞳にはすでに、雲を突き抜ける鉄の編隊が映っていた。
「康政。お前が言っていた、あの『赤い土』の話……あれ、本気なんだな?」
御子柴が声を潜めて尋ねた。
「ええ。あの不毛な土地には、これからの時代に不可欠な金属が眠っています。御子柴君、君が陸軍で航空の道を切り拓く頃には、その『土』から生まれた軽くて強い翼を、僕が用意してみせますよ」
(将来、彼が指揮するであろう航空機を作るには、僕がシンガポールで手に入れたあの土地の権利が、いつか彼の背中を支える最大のリソースになる。その時こそ、彼の野心は真の形を成すだろう)
「約束だぞ。重くて鈍い木と布の翼じゃなく、風を切り裂くような奴を頼むぜ」
御子柴の厚い掌が、康政の肩を力強く叩いた。その手の重みは、未来の戦場を共に歩む盟友の誓いのように、康政の骨にまで響いた。
ふと、御子柴がその手を止め、不思議そうに康政の顔を覗き込んだ。
「そういえば……康政。お前自身はどうするんだ? 俺たち三人は明日、この台湾を出る。だが、お前が内地の学校を受けるなんて話は一度も聞いてないぜ」
その言葉に、それまで静かに茶を啜っていた久世も視線を上げた。
「ああ。一高予科の試験会場にも、お前の姿はなかったな。瑞長の仕事が忙しいのは分かるが、まさか学業を捨てたわけではあるまい」
二人の問いかけに、康政は縁側の外、雨上がりの湿った庭を眺めながら穏やかに微笑んだ。
「僕は、この台湾に残ります。と言っても、遊んでいるわけではありませんよ。台北帝国大学の『特別研究員』として、籍を置くことになりました」
「特別研究員……?」
久世が眉を寄せた。
「学生としてではなく、か? 十七のお前が、研究者として帝大に迎えられたというのか」
「ええ。財団の寄付講座との兼ね合いもありますが、大学側からは自由な研究の場を与えられています。表向きの学問も進めますが……僕が今、最も身につけなければならないのは、別の教養ですから」
康政の瞳に、十七歳の少年には似つかわしくない、冷徹で深遠な光が宿る。
「僕はここで、『世界の決まり』を学びます。乃木閣下からご紹介いただいた先生方をお招きして、戦時国際法、そして参謀学としての軍学を。これからの動乱の時代、財団という巨大な船を操るには、商才だけでは足りません。法理という盾と、戦略という矛を、一国の将軍や提督たちと対等に語れる段階まで引き上げておく必要があります」
(将来、君たちが前線で戦う時、僕は机上の空論ではない、真の兵站学と軍法をもって君たちの背後を固めなければならない。君たちが命を懸けて守るものを、僕がルールという名の手口で他国に奪わせないために)
康政の言葉の端々に滲む、ある種の「凄み」に、御子柴と久世は思わず息を呑んだ。
「……軍学だと? おいおい、俺たちより先に参謀本部に入り浸るつもりかよ」
御子柴が呆れたように、しかしどこか誇らしげに笑った。久世もまた、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせる。
「なるほどな。俺が東京で『法』を武器に鍛錬している間、お前はこの島で『世界そのもの』を相手にするための牙を研ぐというわけか。……やはり、お前を一人にしておくのは、別の意味で恐ろしいな」
その時、縁側に続く廊下から、軽やかな足音が二つ近づいてきた。
「一人になんてさせないさ。康政の足元は、俺たちが固めるからな」
ひょっこりと顔を出したのは、トーマスとアリスだった。金糸の髪を短く刈り込んだトーマスの服には鉄粉と機械油の染みがこびりつき、アリスの理知的な碧眼には、学生というよりもすでに実務家の光が宿っていた。
「トーマス、アリス……」
御子柴が目を丸くした。
「お前たち、相変わらず油まみれと薬品の匂いだな。……そうか、お前らも台湾に残る組だったな」
「ああ。俺は特設幼年部の工学部(冶金科)に残る。でも、教室に座ってる時間はもっと減るだろうな」
トーマスが、煤で汚れた鼻の頭を擦りながら笑う。
「毎日親父や荒金親方と一緒に基隆のドックに這いつくばって、特殊鋼の精錬を叩き込まれてる。康政が頭ん中で描く途方もない船を、俺がこの手で本物の鉄にするんだ」
「私は医学部の看護科よ」
アリスが、流暢な日本語で凛と答えた。
「白石先生のところで、最先端の衛生学と防護の技術を学んでるわ。烈や景秀が内地で偉そうな将校や官吏になる頃には、私が瑞長の医療を背負って、どんな戦場でも誰も死なせない仕組みを完成させてみせるから」
同級生たちの真っ直ぐで物怖じしない言葉に、久世はふっと口元を緩め、天を仰いで目を閉じた。
「……やれやれ。東京の士官学校や一高の連中が日露戦争の武勇伝でふんぞり返っている間に、台湾に残る同級生たちは、すでに鉄と命を直接ぶん殴って未来を造ろうとしているわけだ。こりゃあ、内地へ行く俺たちの方が、よほど気張らなきゃ置いていかれそうだな」
「ええ。せいぜい、帝都の淀んだ空気に飲まれないようにしてくださいね」
康政が笑って返し、縁側に集った六人の若者たちの間に、出会った頃と変わらない涼やかな笑い声が弾けた。
そんな男たちの、どこか浮世離れしたやり取りを、少し離れた場所に座っていた響子が、錫の小物入れを指先で弄びながら見つめていた。ふっ、と響子が溜息をつく。
「男の人って、どうしてそうやって大きな話ばかりしたがるのかしら」
響子が独り言のように呟いた、その背後から。
衣擦れの音と共に、甘く、それでいて芯の通った香水の香りが漂ってきた。
「あら。大きな夢を語れない男に、ついていく価値はありませんわよ」
瑞月であった。
漆黒の薄絹の着物に身を包んだ彼女が、優雅な所作で四人のもとへ歩み寄る。西日に照らされた彼女の容姿は、見る者を一瞬で気圧すほどの艶やかさと威厳に満ちていた。交渉の修羅場をいくつも潜り抜け、相手をその美貌と胆力で圧倒してきた瑞月の存在感に、響子の背筋が自然と伸びる。
「橘さん。内地へ行くのでしょう?」
瑞月が響子の前に立ち、その瞳をじっと見据えた。
「はい。日本女子大学校で学びながら、新聞社で筆を磨くつもりです。……女の身でどこまでできるか分かりませんが」
「分からなくて結構。ただ、これだけは覚えておきなさい」
瑞月は響子の肩にそっと手を置き、その耳元で、剃刀のように鋭い声で囁いた。
「ペンは剣よりも強いかもしれませんが、それを使う人間が弱ければ、ただの枝切れと同じです。男たちの波に飲まれそうになったら、自分の美しさも武器になさい。黙らせるのではない、圧倒させるのです。それが、女がこの理不尽な世界で『声』を持つ唯一の方法ですわ」
響子は一瞬、息を呑んだ。瑞月の瞳の奥にある、冷徹なまでの自己統治と、誇り。
「……はい。瑞月さん。肝に銘じます」
響子の瞳に、これまでとは違う、鋭い覚悟の光が宿った。
翌朝。
基隆港の岸壁は、出航を待つ人々の熱気と、巨大な煙突から吐き出される石炭の煤煙に包まれていた。
そこには、三千トン級の定期船「亜米利加丸」が、黒々とした船体を横たえている。タラップの下には新城家の面々だけでなく、旅立つ三人の「実の家族」たちも、万感の思いを胸に集まっていた。
久世の父は、厳格な地方官吏らしく口を真一文字に結び、直立不動の姿勢で息子を見つめていた。言葉はなくとも、その握りしめられた拳が、息子への期待と別れの辛さを物語っている。
御子柴の周りには、泣きじゃくる幼い弟たちと、何度も息子の着物の汚れを払おうとする母親の姿があった。
「男がいつまでも泣き言を言うな」
御子柴は照れ隠しに弟の頭を小突いたが、その瞳は潮風のせいか、赤く潤んでいた。母親は鼻を赤くしながら、息子の好物を詰めたという大きな風呂敷包みを、何度も何度も手渡そうとしていた。
響子の両親は、内地へ娘を一人で出す不安を押し殺し、誇らしげに、しかし心配そうに手を振り続けている。彼らは康政や和也に向かって、何度も「娘をここまで引き上げてくださり、ありがとうございます」と深々と頭を下げていた。
和也は、彼ら実の家族たちの想いをも背負うように、三人の前に立った。
「……行け。そして、死ぬ気で学んでこい。お前たちが内地でどれほど傷つこうと、この台湾には、新城が、瑞長がある。お前たちが帰ってくる場所は、俺が、康政が、石にかじりついてでも守り抜いてみせる。何も恐れず、前だけを見て歩め」
和也という男の人生の厚みがこもったその言葉に、三人の家族たちも一斉に頷き、堪えていた涙を拭った。
瑞月は、その光景から一歩引いた場所で、新城の人間としての矜持を保ちながら泰然と見守っていた。彼女の漆黒の衣装が潮風にたなびく。その揺るぎない立ち姿は、瑞長という巨大な「家族」の壁そのものであり、旅立つ若者たちの背中を支える静かな力となっていた。
「皆様、お時間ですわ」
瑞月が短く告げると、三人はそれぞれの家族と最後の手を握り合い、覚悟を決めたようにタラップを上り始めた。
やがて、船の甲板から無数の五色の紙テープが、雪のように岸壁へと投げ降ろされた。
康政の頭上に、赤い紙テープが舞い落ちてくる。彼はそれを、吸い寄せられるように右の手のひらで受け止めた。
そのすぐ隣では、久世の父が青いテープを、御子柴の母が黄色いテープを、指が白くなるほど強く握りしめている。
銅鑼の音が打ち鳴らされ、巨大な船体がゆっくりと岸壁から離れ始めた。
白く泡立つ波紋が、船体と陸の距離を広げていく。
康政の手の中にある赤いテープが、徐々に引き絞られ、ピンと一本の筋となって張った。甲板の上で、響子が、御子柴が、久世が、何かを叫びながら大きく手を振っている。家族たちは皆、我慢しきれずに「達者でな!」「頑張るんだよ!」と声を張り上げ、万歳三唱の渦が岸壁を激しく揺らした。
テープは限界まで伸びきり、康政の指先に、彼らの未来の重みが、そして別れの熱い摩擦が伝わってきた。
――ふつり。
手応えが消えた。
千切れた五色のテープの端が、海風に煽られて虚空を舞い、やがて汚れた海面へと力なく落ちていく。
康政は、手のひらに残った、わずか数寸の赤い紙切れを見つめた。隣では、御子柴の母が千切れたテープを胸に抱き、ついに泣き崩れていた。久世の父は、空になった手を静かに下ろし、遠ざかる船影をいつまでも凝視していた。
船はみるみるうちに遠ざかり、港の外、蒼い大海原へとその姿を消していく。
和也が康政の隣に並び立ち、何も言わずにその肩を強く抱き寄せた。康政は、父の体温を感じながら、水平線の向こう側を真っ直ぐに見据えた。
康政は、握りしめていた赤いテープを大切に懐へとしまった。
潮風が、彼の詰め襟の首元を冷たく吹き抜けていく。
足元の石畳を強く踏みしめ、康政は、父と共に、そして友を送り出した家族たちと共に、次なる戦場へ一歩前に出た。
読んで頂きありがとうございます。




