第8話:南風の帰還と、未来を救う白い船
明治四十四(一九一一)年、四月。
南シナ海を渡る風はすでに初夏の湿り気を帯び、基隆港の海面を眩しいほどの銀色に煌めかせていた。長旅を終えた巨大な客船が、黒煙を吐き出しながら接岸する。
タラップを下り、台湾の地へと降り立った新城和也と康政、瑞月たちをむせ返るような島の活気が全身で包み込んだ。
台北の新城邸。
使い込まれた重厚な玄関の扉が開かれると、奥から弾むような足音が近づいてきた。
「お帰りなさいませ、あなた。康政も、無事で何よりです」
出迎えた和子は、和也の顔を見るなり、胸元に手を当てて小さく息を吐き出した。その安堵の表情の隣で、リンが三つ指をついて、深く、そして丁寧にお辞儀をしている。
「父さん! にいさま!」
廊下の奥から飛び出してきたのは、沙絵子だった。小さな足で床を蹴り、和也の太い足に勢いよくしがみつく。
「ああ、ただいま戻った。二人とも、留守を頼んで悪かったな」
和也が相好を崩し、沙絵子の頭を大きな手で包み込むように撫で回す。康政は持っていた鞄を床に置き、膝を突いて沙絵子と視線を合わせた。
「ただいま、沙絵子。約束通り、お土産があるよ」
康政が鞄の底から取り出したのは、シンガポールの市場で慎重に選び抜いた、南洋の硬い木で作られた虎の木彫りだった。
沙絵子は目を丸くしてそれを受け取ると、小さな両手で虎をしっかりと握りしめた。
「がぁお!」
声を上げて虎を空中で大きく振り回す。木彫りの虎が風を切り、沙絵子の満面の笑みが弾けた。
「気に入ってくれたようですね」
「ええ。でも、また何かを壊さないか、気をつけて見張らないといけませんね」
和子が目尻を下げ、沙絵子の無邪気な動きを目で追う。和也は革鞄から、極上の滑らかさを持つ鮮やかな緋色の絹織物と、細工の凝った小瓶に入った香水を取り出した。
「和子、リン。これはシンガポールで瑞月に見立ててもらったものだ。受け取ってくれ」
「まあ……これほど見事な絹、台北でも滅多にお目にかかれません。ありがとうございます」
和子は絹の手触りを確かめるように指先を滑らせ、リンは香水の小瓶を両手で大切に包み込み、頬をほんのりと朱に染めた。
その日の午後、邸宅の縁側で休んでいた康政のもとへ、学友の三人が顔を出した。
「康政君、無事に帰ってきたのね」
響子が袴の裾を翻して近づいてくる。その後ろから、久世と御子柴も姿を見せた。
「ええ。皆さんも、変わりないようで安心しました。これ、受け取ってください。シンガポールで見つけたものです」
康政は縁側に置いた小箱から、それぞれへの土産を取り出した。久世には、実用的な銀色の万年筆の留め具を。御子柴には、今にも空へ飛び立ちそうな猛禽の木彫りを。そして響子には、細かな装飾が施された錫の小物入れを手渡す。
「錫の細工。悪くない。新聞の切り抜きでも入れておくとするわ」
響子は小物入れの蓋を開け閉めし、微かな金属音を響かせて満足げに頷いた。
「空を飛ぶ鳥か。縁起がいい。ありがたく貰っておくぞ」
御子柴は木彫りの鷹を日に透かし、久世は無言で自身の胸ポケットに銀の留め具を滑り込ませた。
康政は、それぞれの道を歩み出そうとしている三人の顔を、ただ穏やかな眼差しで見つめていた。
数日後。
瑞長財団本部の会議室。
開け放たれた窓からは台北の街の喧騒が遠く聞こえてくるが、室内は張り詰めた静寂に支配されていた。
円卓の上座には和也が座し、その隣に康政、瑞月、霧島。そして財団の金庫番として一切の無駄を許さない翠玲、物流と警備の責任者である阿長、医療部門を統括する白石医師が顔を揃えていた。
そして、部屋の壁際から鋭い眼光を放っていたのは、乃木総督率いる台湾軍に所属し、乃木大将直属という立場で財団に出向している三人の将校であった。
軍医出身の熱き武人、高柳中尉。
歩兵科の精鋭にして規律の権化、橘少佐。
そして、日露の戦火を生き延びた乃木大将の次男、保典中尉である。
「シンガポールでの交渉は、上々の成果を上げました」
霧島が書類を整えながら、低い声で口を開いた。
「大英帝国とオランダの資本から、極上の油の安定供給、そして蘭印の沿岸部に広がる『赤い土』の土地の権利、スズの優先供給権を勝ち取りました」
「ご苦労だった。だが康政、お前がこれほど急いで我々を集めた理由は、これだけではないはずだ」
和也が、卓上で組んだ太い腕の上に顎を乗せ、康政を見据えた。
「はい、父さん。これからが本題です」
康政は立ち上がり、全員に書面を配った。
「まず、早急に手配していただきたいものがあります。タングステン、マンガン、そしてクロムと呼ばれる特殊な金属です。翠玲さん、財団の資金を用いて、世界中の市場から目立たないよう、かつ迅速に買い集めていただけますか」
翠玲は帳簿の数字を鋭い目で追い、艶やかに微笑んだ。
「ええ、お任せください。将来の鉄道建設や掘削事業に必要な『特殊鋼の原料』として、不自然のないように確保してみせますわ」
康政は頷き、本命の議題へと移った。
「橘少佐。そして高柳中尉、乃木中尉。あなた方に、わが財団の将来を左右する巨大な『翼』の指揮をお願いしたい」
康政は、一枚の巨大な図面を卓の中央に広げた。そこに描かれていたのは、二万トン級という、当時の日本には存在しない巨艦の設計図であった。
「排水量二万トン。この『統合支援艦』を二隻、内地の巨大造船所に外注して建造します」
その桁外れの規模に、高柳中尉が鋭い眼光を向けた。
「康政殿。二万トンと言えば、戦艦に匹敵する巨体だ。この船を何に使うおつもりか」
「これは『海に浮かぶ新城規格の病院』であり、同時に『海を渡る巨大な倉庫』でもあります」
康政は図面の各区画を指差した。
「船内には最新の施術室、精密な検査設備、そして膨大な薬剤区。さらには、新城規格の衛生管理を徹底した広大な病室を設けます。高柳中尉、白石先生、この船そのものが、最前線に展開する一つの高度な医療拠点となります」
白石は、図面に描かれた酸素供給の系統図や消毒設備の配置を見つめ、驚きを隠せない様子で眼鏡を拭き直した。
「さらに重要なのが、給糧艦としての機能です」
康政は、船体下部に広がる巨大な空間を指し示した。
「船内に大規模な冷蔵区画を作ります。新鮮な食肉、野菜、果実、さらには氷菓子に至るまで、数千人の将兵に長期間、高品質な食糧を供給できる能力を持たせます」
「推進機は蒸気タービン、副主機としてディーゼルエンジン。これにより、停泊時には陸上の救護所へ電力を供給し、即座に不夜城のような医療拠点を築くことができる。そして後甲板には……」
康政は、平坦に設計された甲板を見つめた。
「海難救助を目的とした水上機の運用設備を設けます。乃木中尉。あなたには、この『空からの眼』の責任者となっていただきたい」
保典中尉が、一歩前に出た。
「私に、空を飛べと仰るのか」
「そうです。竣工までの二年間、台北帝都大学の航空科学部へ派遣いたします。そこで最新の航空理論を学び、自ら試作機の舵を握る試験飛行の操縦士となっていただきたい。そして将来、この艦に搭載される水上機や哨戒艇の指揮官として、救難の先頭に立っていただく。……保典さん、空からしか見えない命があるのです」
保典は若々しい顔を引き締め、力強く頷いた。
「命を救うための空。……承知いたしました。乃木保典、全身全霊を懸けて航空の道を切り拓きましょう」
「康政殿。構想は分かった。だが、これほどの巨艦、竣工まで早くとも一年半、普通なら二年はかかる。その間、我々は遊んでいるわけにもいかぬぞ」
高柳中尉が、低く鋭い声で尋ねた。
「もちろんです、中尉。その時間こそが、この計画の成否を分けます」
康政は高柳を真っ直ぐに見据えた。
「船という『器』ができても、中身を動かす『人』がいなければただの鉄屑です。高柳中尉には医療大隊の練成を、橘少佐には船の警備と兵站、そして規律を司る防衛部隊の練成をお願いしたい。竣工までの二年間、二隻分、すなわち二組の大隊を、新城規格の高度な技術を兼ね備えた組織として鍛え上げていただきたいのです」
康政は、さらに言葉を重ねた。
「おそらくですが、欧州はきな臭い。遠からず、大きな戦になる可能性が高い。その時、我々はこの船を『中立の人道支援』として真っ先に送り込む。世界が血を流す中で、我々の規格で数万の命を救い、腹を満たしてみせるのです。それが、瑞長財団を世界に認めさせる唯一無二の手段となります」
会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。
瑞月が漆黒の扇子を静かに閉じ、和也がゆっくりと立ち上がった。
「……二年間か。長いようで、短いな。乃木中尉、高柳中尉、橘少佐。日本の未来を、瑞長の未来を、そして世界で救われるべき数万の命を、あなた達の手に託す。最高の部隊を造り上げて頂きたい」
「はっ!」
三人の将校が、一斉に踵を鳴らして敬礼した。
窓の外では、四月の瑞々しい南風が台北の街を吹き抜けている。
康政は、目の前の巨大な図面を見つめながら、これから始まる二年の修練が、世界の歴史をいかに変えていくのかを、静かに、しかし熱く胸の内で描いていた。
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