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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えていくまで  作者: ふじやん
第5章:飛躍の盤面 知の要塞

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第7話:帝国の算盤と、極東の毒薬

 数日後。

 シンガポールの熱気は、夕刻を迎えても一向に引く気配を見せない。港を赤く染め上げる落日が、海面を鈍い黄金色に光らせていた。

 ラッフルズ・ホテルの広々とした特別室。開け放たれた窓から入り込む潮風が、薄絹の寝台覆いを静かに揺らしている。

 長椅子に身を預けた和也は、手元のグラスで琥珀色の洋酒をゆっくりと揺らしていた。氷が溶けて立てる微かな音が、静寂に包まれた部屋に響く。

 向かいの椅子では、康政が分厚い洋書の頁をめくっていた。その穏やかな横顔には、数日前に巨大資本の重役たちと刃を交えた疲労の色は微塵も伺えない。


 重厚な扉が三度、静かに叩かれた。

「和也様、康政様。霧島です」

「入れ」

 和也の低く落ち着いた声に応じ、霧島と燕、そして瑞月が部屋へと足を踏み入れた。燕が素早く窓辺に歩み寄り、外の様子と隣室の気配を確かめてから小さく頷く。

「ご苦労だったな。皆、掛けてくれ」

 和也がグラスを卓に置き、長椅子の背から身を起こした。

「向こうの様子はどうだ」

 霧島は手にした革張りの手帳を開き、眼鏡の奥の瞳に鋭い光を宿した。

「この三日間、彼らは文字通り不眠不休のようです。シンガポールの海底電信局から、ロンドンとハーグに向けて凄まじい数の暗号電報が飛び交いました。我々が提示した満州での無傷の防疫実績、そして『琥珀色の水』の真贋を、彼らの諜報網のすべてを懸けて裏付けたはずです」

「そして、それが真実だと知った」

 康政の穏やかな声に、霧島は深く頷いた。

「はい。昨夜遅く、本国からフェーンとアーバスノット宛てに特急の返信があった模様です。彼らの顔色は、初日の余裕から一転し、血走った飢餓感に満ちていました。明日の第二回会談、彼らは確実に仕掛けてきます」

「ご苦労様です、霧島さん、燕さん」

 康政は本を閉じ、労うように微笑んだ。

(彼らの焦燥は頂点に達した。労働力の大量死という致命傷を塞ぐための『規格』と、それを支える『特効薬』。大英帝国とオランダの資本が、それをただ指を咥えて見ているはずがない。次に彼らが打ってくる手は、一つしかない)



 翌日、午後。

 再び設けられた巨大資本の重役会議室。

 天井の吊り扇が唸りを上げているにも関わらず、部屋の空気は初日よりも遥かに重く、息苦しいほどの熱を帯びていた。

 円卓を挟んで対峙する和也たちの前に座るフェーンとアーバスノットの顔には、もはや初日のような見下した笑みはない。彼らの目は酷く充血し、卓上で組まれた両手は微かに震えすら帯びていた。


「ミスター・シンジョウ。単刀直入に申し上げよう」

 アーバスノットが、乾いた唇を舌で舐め湿らせてから口を開いた。

「貴方方の持つ『防疫の仕組み』と、あの『琥珀色の水』の製造法。……そのすべての権利を、我が社に譲渡していただきたい」

 フェーンが、内ポケットから一枚の小切手を取り出し、和也の目の前へと滑らせた。

 そこに数字は書かれていない。白紙の小切手であった。

「金額は、貴方方が望むままに書き入れていただいて構わない。どれほどの数百万英ポンドであろうと、本国からの決済は降りている。大英帝国とオランダ王国が、貴方方の事業を買い取ろうと言っているのだ」


 圧倒的な資本の暴力。

 対等な取引ではなく、莫大な金銭で相手の技術そのものを丸ごと飲み込み、自分たちの独占事業へと変えてしまう。それこそが、彼らが世界を支配してきた常套手段であった。

 息を呑むような沈黙が、会議室に降り下りた。

 和也は白紙の小切手に視線を落とし、ゆっくりと目を伏せた。そして、深く息を吸い込むと、静かに顔を上げた。その漆黒の瞳には、一切の揺らぎがない。

「お断りする」

 低く、しかし部屋の空気を震わせるほどの重圧を持った声であった。

「我々は、目先の金欲しさに家族の血肉を売り払う質屋ではない。瑞長は、我々自身の手で百年先の土台を築く。そのための油の取引に応じられないというのであれば、この話はここまでだ」

 和也がゆっくりと立ち上がろうとする。

「ま、待たれよ!」

 フェーンの顔から血の気が引き、喉仏が大きく上下した。彼らは、札束で頬を叩けば極東の企業など容易く平伏すと高を括っていたのだ。


 その狼狽の間隙を、漆黒のドレスに身を包んだ瑞月が縫った。

 彼女は椅子から立ち上がることなく、手元の絹張りの扇子をゆっくりと開いた。扇子が微かな風を生み、彼女から立ち上る白檀と極上の香水の香りが、フェーンたちの鼻腔を甘く撫でる。

「少しばかり、残念に思いますわ」

 瑞月の鈴を転がすような、それでいて背筋に氷を滑らせるような冷ややかな声が響いた。

 彼女の透き通るような白い肌と、長い睫毛に縁取られた瞳。男たちの理性を狂わせる美貌が、フェーンとアーバスノットの視線を否応なく釘付けにする。

「これほど素晴らしい仕組みを、貴方方がお気に召さないのであれば……我々はこの仕組みを持って、太平洋を渡るしかありませんわね」

 瑞月は扇子で艶やかな口元を隠し、瞳だけを弧の字に曲げた。

「例えば、アメリカの『スタンダード・オイル』の紳士たちなど、大層喜んで我々を迎え入れてくださるでしょう。彼らもまた、アジアへの進出に熱心なようですし」


 アーバスノットの太い腕が、卓に置かれた小切手を握り潰すように硬直した。

 スタンダード・オイル。ロイヤル・ダッチ・シェルにとって、世界中で血みどろの覇権争いをしている最大の宿敵である。もしこの『労働力を守る魔法』が米国資本の手に渡れば、アジアにおける英蘭の覇権は根本から崩れ去る。

 美しくも残酷な死刑宣告。逃げ道を塞がれた重役たちの額から、大粒の汗が卓へと滴り落ちた。


「我々は、貴方方の労働者の命を救い、共に繁栄する道を望んでいます」

 極限まで張り詰めた空気の中、康政がどこまでも温和な声で口を開いた。

「我々が求めているのは金銭ではありません。台湾の工業都市を動かすための『極上の油』の長期安定供給。そして……」

 康政は、一枚の海図を卓上に広げた。

 そこに記されていたのは、蘭印インドネシアのバンカ島や、ビンタン島周辺の沿岸部。

「我々の厳格な衛生規格を証明するためには、他国の法が及ぶ場所ではなく、我々自身が管理する『港湾施設と生活基盤』を自前で建設する必要があります。つきましては、この沿岸部に広がる『赤い土』の不毛な土地。こちらの所有権を、瑞長財団へ譲渡していただきたい」

「……赤い土の土地、だと?」

 フェーンが、怪訝な顔で海図を覗き込んだ。

「ええ。農業にも向かない土地ですが、港を築き、外部と隔離された衛生的な街を作るには丁度良いのです。さらに、労働者へ衛生的な食糧を供給するため、我々は『缶詰』の工場も稼働させます。ついては、油の輸送の折に、貴方方の領地で採掘される『スズ(錫)』も、市場価格で優先的にお譲りいただきたい」


 康政の言葉に、フェーンとアーバスノットは顔を見合わせた。

 彼らの認識では、あの沿岸部の赤い土など、作物の育たない無価値な泥でしかない。スズにしても、食品の保存用に過ぎないありふれた金属だ。莫大な英ポンドを支払うどころか、そんなゴミ同然の土地の権利とスズを融通するだけで、あの魔法のような『防疫の仕組み』が手に入り、米国資本への流出も防げるというのか。


(スズは、缶詰のブリキに必須。だがそれだけではない。あの不毛な『赤い土』――ラテライト土壌。その下には、航空機の骨組みとなるアルミニウムの原料『ボーキサイト』と、強靭な特殊鋼を生み出す『ニッケル』の巨大な鉱床が眠っている。その価値を、彼らはまだ知らない)

 康政は、内心の昂りを微塵も表に出さず、ただ穏やかに微笑んだまま相手の返答を待った。


「……ミスター・シンジョウ」

 アーバスノットが、大きく息を吐き出しながら立ち上がった。その顔には、安堵と強烈な欲望が入り混じっている。

「どうやら、我々は極東の偉大な友人と、素晴らしい契約を結ぶことができそうだ。あの赤い土の土地の権利と、スズの優先供給。そして極上の油。……すべて、貴方方のご希望通りに手配しよう」


 アーバスノットが差し出した右手を、和也が力強く握り返した。

 大英帝国とオランダの巨大資本が、極東の民間企業の軍門に下った瞬間であった。



 数日後。

 シンガポール港の桟橋には、出航の時を待つ巨大な客船が黒煙を上げていた。

 すべての契約手続きを終えた新城一行は、見送りに来たフェーンたちと紳士的な挨拶を交わし、タラップを上っていく。

 甲板に出た和也は、海風に上着の裾を激しく翻しながら、遠く北の空――故郷である台湾の方角を見つめた。

「父さん。これで、高雄を動かすための血が手に入りましたね」

 隣に並び立った康政が、静かに声をかける。

「ああ。血だけではない。お前が望んだ、あの赤い土とスズもな。……これから忙しくなるぞ、康政」

 和也が、康政の肩を大きな手で力強く叩いた。

 康政は頷き、手すり越しに広がる果てしない青い海へ視線を向けた。波のうねりが、巨大な鉄の船体をゆっくりと揺らしている。

 南の島で待つ家族の温かな笑顔と、これからの十年で築き上げる巨大な鉄の森。そのすべてを現実のものとするための確かな鍵を懐に抱き、二人は南シナ海を渡る風を、ただ静かに全身で受け止めていた。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

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