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明治~昭和? リノベーション記  温和な実務家のお節介が、国家をニコニコに変えるまで  作者: ふじやん
第5章:飛躍の盤面 知の要塞

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第6話:星港の怪物と、初日の盤面

 明治四十四(一九一一)年、春。

 大英帝国の威信を象徴する白亜のヴィクトリア様式建築が並ぶ中心街は、容赦なく照りつける熱帯の太陽を反射し、視界の端を白く滲ませている。通りを行き交うのは、最新型の欧州製自動車と、けたたましい声を上げて客を引く無数の人力車、そして重荷を引く牛車である。

 港から吹き抜ける風は、蒸気船が吐き出す石炭の黒煙、生ゴムの強烈な酸味、そして八角や丁字といった香辛料のむせ返るような匂いを多分に孕み、ねっとりとした熱となって肌に絡みついてくる。大通りを一本裏へ入れば、赤茶けた瓦屋根が密集する中華街の喧騒と、高床式の住居が連なるマレーの町並みが広がり、東洋と西洋、莫大な富と底辺の労働が混然一体となって煮え滾っていた。


 その混沌から切り離されたかのような、白亜の最高級西洋宿『ラッフルズ・ホテル』。

 風通しの良い回廊を抜け、特別室の重厚なマホガニーの扉が開かれると、燕が音もなく部屋の隅々へと視線を走らせ、開け放たれた窓の外や隣室を確認した。安全を確認した彼女が小さく頷くのを見て、部屋の中央で待っていた霧島と瑞月が、静かに、そして深く頭を下げた。


「和也様、康政様。異国への長旅、誠にご苦労様でございました」

 漆黒の極上な絹を用いた昼用の礼服に身を包んだ瑞月が、洗練された所作で顔を上げた。

「ああ。瑞月も、霧島も燕も、よくやってくれた。不慣れな地での数ヶ月、心細い思いをさせたな」

 和也が上着を脱ぎながら、穏やかな笑みを浮かべて労いの言葉をかけた。その声には、財団を背負う代表としての風格と、家族同然の仲間たちを慈しむ温かな色が滲んでいる。

「滅相もございません。和也様たちが到着されるまでの間、シンガポールの金融街を少しばかりかき回しておりましたよ」

 霧島が眼鏡の奥の目を細めて静かに笑い、分厚い革張りの鞄から幾つもの書類を取り出し、卓上に広げた。

「霧島さん、ありがとうございます。相手の腹の内、聞かせてもらえますか」

 康政の問いに、霧島は真面目な顔つきのまま一枚の書類を指し示した。

「はい。彼らは我々を、単なる極東の成金とは見ていません。台湾での巨大水路や工場の実績を正確に把握し、『豊富な資金と未知の技術を持つ新興勢力』として、最大限の警戒を払っています。特に……あの『琥珀色の水』については、彼らも喉から手が出るほど欲しがっているようです」


 琥珀色の水。すなわち、ペニシリン。

 日露の戦いにおいて、日本軍の傷病兵の致死率を劇的に下げた奇跡の特効薬として、随行記者の手記を通じて世界中の医療機関にその名が轟き始めている。

 彼らはあの薬を、単なる『高価な商品』だと考えている。だが、我々が売りに来たのはモノではない。労働者の命を守るための『仕組み』だ。

 康政は、内心で静かに現状を分析した。

「相手は大英帝国を代表するガスリー商会と、ロイヤル・ダッチ・シェルの重役です。彼らは金さえ積めば『琥珀色の水』の製造法を買い叩けると思っている節があります」

 霧島の言葉に、和也は卓上に置かれた冷えた果実水を一口含み、康政たちを見渡した。

「我々は技術を切り売りする質屋ではない。皆が安心して暮らせる、百年先の土台を築きに来たんだ。……さあ、行こうか」

 和也の穏やかだが揺るぎない言葉に、一行は静かに頷き合った。



 同日、午後。

 港を行き交う無数の蒸気船を一望できる、巨大資本の重役会議室。

 マホガニーの円卓を挟んで和也と康政、瑞月と霧島が座り、その後ろには燕が控えている。

 対面に座るのは、シェル石油の極東統括支配人ヴァン・デル・フェーンと、ガスリー商会の専務理事アーサー・アーバスノットであった。

 銀髪を撫でつけたフェーンは、冷徹な青い瞳に微かな笑みを浮かべ、和也に向かって大仰に両手を広げた。

「ミスター・シンジョウ。貴財団の台湾での活躍、聞き及んでおります。今日は我々の世界最高品質の油について、良い取引ができることを期待していますよ」

「お褒めに預かり光栄です。我々も、新たな工業の命となる油について、貴殿らと手を取り合いたいと考えております」

 和也が、微動だにせず堂々と応じる。相手の策略を見透かすような、深く澄んだ漆黒の瞳。

 アーバスノットが、太い葉巻の煙をゆっくりと天井の吊り扇へ向かって吐き出し、口角を上げた。

「協力は惜しみません。ところで、例の『琥珀色の水』。我が社の農園や油田でも多くの労働者が悪疫に倒れていましてね。あの薬の製造法を譲っていただけるなら、対価は望むまま支払おう」


 金銭による解決。彼らは市場を独占している立場を最大限に利用し、札束で未知の技術を丸ごと飲み込もうとしていた。

 和也は表情を一変させることなく、沈黙をもってその言葉を受け流す。重苦しい圧力が、会議室の空気を徐々に張り詰めさせていく。

 フェーンらがいぶかしげに眉をひそめたその瞬間に、白磁のティーカップがソーサーに置かれる、澄んだ高い音が響いた。


「適正価格、と仰いますが」

 瑞月であった。

 吊り扇の微風に揺れる漆黒のドレス。彼女がゆっくりと顔を上げると、部屋の空気が一瞬にして白檀と上質な香水の甘い香りに塗り替えられた。

 透き通るような白い肌と、男たちの視線を釘付けにする美貌。彼女は極上の英国英語を紡ぎながら、艶やかな唇に冷たくも蠱惑的な微笑みを浮かべた。

「南方の密林で、悪疫によって数万の労働者が倒れ、貴方方の計画が数年単位で遅れている現状……それを金で埋め合わせるのが、果たして『最善』と言えるのでしょうか?」


 アーバスノットの葉巻を持つ手が止まった。フェーンの瞳から、先程までの余裕が消失する。

 極秘事項であるはずの損失と労働力不足を、極東から来たこの息を呑むほど美しい女が、寸分の狂いもない数字と共に突きつけてきたのだ。彼女の魔性とも言える魅力に目を奪われていた重役たちは、自分たちの弱点を正確に抉られたことに気づき、額に冷たい汗を滲ませた。

「……病による損耗は避けられない経費です。それが何か?」

 フェーンが声を低くして睨みつける。しかし瑞月は、その威圧を涼風のように優雅に躱し、さらに深く、男の視線を絡めとるように微笑んだ。

「避けられない、のですか。やはり、偉大なる商人をもってしても、病を防ぐことは不可能なのですね。安心いたしましたわ」


 男たちの矜持を撫でながら、根底からへし折る挑発。

 場が瑞月の毒に支配されたその間隔を突き、康政が静かに動いた。

 彼は極めて温和な手つきで、一冊の報告書をフェーンたちの目の前へ滑らせた。

「……これは?」

「現在、北の大地で恐るべき致死率の肺ペストが猛威を振るっています。ですが、我々瑞長が管理している小規模な拠点は、周囲が死の街と化す中、ただの一人も感染者を出さずに稼働しています。我々は、病が防げないなどとは欠片も思っておりません」


 フェーンらが弾かれたように報告書を手に取る。そこには、微細な網目の衛生覆面、徹底した水質管理、そして『琥珀色の水』の的確な運用記録が、冷徹な数字として記載されていた。

 薬という『点』だけでは防げない。衛生と兵站の『線と面』……規格化された仕組みがあって初めて、労働力は守られる。彼らは今、その事実に戦慄しているはずだ。

 報告書を繰る重役たちの顔色から、みるみると血の気が引いていくのがわかった。

「我々は、単に薬を売りに来たのではありません」

 康政が、澄み切った瞳で大英帝国の重役たちを真っ直ぐに見据えた。

「貴方方の労働者の命を救い、利益を倍増させる仕組みを、我々の油と共に運用するためのご相談に参ったのです」


 フェーンは額の汗を拭い、引き攣った笑みを浮かべて荒く息を吐いた。

「……素晴らしい。だが、我々の一存で決めるには重すぎる話だ。本日の会議は、ここまでとさせていただきたい」

「ええ、構いません。どうか本国と、ゆっくりご相談ください」

 和也と康政が、同時に静かに一礼をする。相手の重役たちは、和也たちを見送るや否や、部下に向かって本国への暗号電報の手配を怒鳴り声で指示し始めた。



 数時間後。

 ラッフルズ・ホテルの広々とした特別室。

 窓からは南国の夜風が入り込み、吊り扇をゆっくりと回している。和也は羽織を脱ぎ、安楽椅子に深く腰掛けて、康政や瑞月、霧島たちと今日の会談を振り返っていた。

「お疲れ様、瑞月。あの重役たちの顔、見たか? 完全に腰が引けていたな」

 和也が穏やかに笑いかけ、冷えた果実水のグラスを瑞月に差し出した。

「ええ、和也様。まさかあの地位の男性たちが、あんなに見事に言葉を失うとは思いませんでしたわ」

 瑞月も肩の力を抜き、ふわりと微笑んでグラスを受け取る。

「霧島さん、向こうの動きはどう見ますか?」

 康政の問いに、霧島は手帳を閉じながら答えた。

「間違いなく本国のロンドンやハーグに確認を入れるでしょうね。ハルビンでの実績が本物だと確信した時、彼らは焦燥と欲望の板挟みになります。その裏取りには、少なくとも二、三日はかかるはずです」

「そうか。ならば明日は、少し街を見て回るとしよう」

 和也が膝を叩き、楽しげに目を細めた。

「シンガポールは世界中からモノが集まる港だ。将来の高雄や基隆のために、何がどのように流れているのか、市場を歩いておきたい。それに……」

 和也は少しだけ声を和らげ、康政を見た。

「留守番をしている和子や沙絵子たちへのお土産も探さないとな。沙絵子は最近、珍しいおもちゃに目がないし、リンもきっと楽しみにしているだろう」

「いいですね。僕も市場調査、ご一緒します」

 康政は、和也の優しい父親としての顔に微笑みながら頷いた。



 翌日。

 瑞長の一行は、シンガポールの活気溢れるアラブストリートから中華街、そしてインド人街へと足を運んでいた。

 市場には、見たこともない色鮮やかな熱帯の果実、乾燥させた香辛料、色とりどりの織物、そして大量のゴム製品が所狭しと並べられている。

「康政、見ろ。ここにある生ゴムの量は台湾の比ではない。やはり世界最大の結節点だな」

 和也は、積み上げられた物資の荷札や、運び込む港湾労働者たちの動きを鋭い目で見つめていた。

「ええ、父さん。高雄をこれ以上の港にするためのヒントが、あちこちに落ちていますね」

 康政は、人力車と牛車が混在する道路の交通整理の様子をメモしながら答えた。


 一方で、市場の喧騒の中、彼らは土産物屋の前に立ち止まった。

「和也様、和子様にはこの上質なシルクのショールはいかがでしょうか。リンさんにはこちらの香油が喜ばれると思いますわ」

 瑞月が、鮮やかな緋色の布を手に取りながらアドバイスを送る。和也は「ほう、それはいい」と頷き、嬉しそうに品物を吟味し始めた。

「康政様、沙絵子様にはこれなどいかがでしょう?」

 燕が指し示したのは、南洋の硬い木を精巧に削り出した、一頭の虎の木彫りであった。その力強くも愛らしい造形に、康政の顔が綻ぶ。

「沙絵子はこれを投げ飛ばして遊ぶかもしれませんが、喜んでくれそうですね。これにしましょう」

 康政は、小さな虎の置物を手に取り、大切に懐へしまった。


 灼熱の太陽の下、一行はいつもの家族のような賑やかさで市場を歩き続ける。

 瑞月が市場の男たちをその美貌で呆然とさせている横で、和也は満足げに大きな土産の包みを抱えていた。

 台湾に残した家族の笑顔を思い浮かべながら。そして、数日後に再開される、この巨大な富の源流を掴み取るための戦いへ向けて、一行は静かに、しかし力強く英気を養っていた。

読んで頂きありがとうございます。


誤字報告助かります。感謝申し上げます。

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