第5話:南風の迎春と、白銀の防壁
明治四十四(一九一一)年、元旦。
帝都であれば底冷えする雪雲に覆われている季節だが、南の島・台湾の正月は、うららかな春を思わせる柔らかな陽光に包まれていた。
台北に構えられた新城家本邸の広間は、心地よい風が吹き抜けるように障子が開け放たれ、祝いの席特有の華やいだ香りが立ち込めている。朱塗りの重箱に詰められた黒豆や数の子といった日本古来の豪奢なおせち料理の隣には、黄金色に輝く台湾名産のカラスミや、八角の香りが食欲をそそる豚の角煮が所狭しと並べられていた。
「こらこら、沙絵子。そっちはお酒ですよ」
和子が目を細め、小走りで卓へ向かおうとする小さな背中を慌てて追いかける。
昨年の初夏に初めて自力で立ち上がった沙絵子は、今や赤い晴れ着を揺らしながら、しっかりとした足取りで畳の上を縦横無尽に歩き回っていた。彼女の黒曜石のような丸い瞳は、部屋のあちこちにある珍しいものへ次々と向けられ、好奇心の赴くままに小さな手を伸ばす。
「にーにっ!」
沙絵子は方向を変え、上座の近くで茶を啜っていた康政の膝へ、ぽすんと音を立てて勢いよく飛び込んだ。
「おっと。元気ですね、沙絵子」
康政は湯呑みを卓に置き、よじ登ろうとする妹の柔らかい身体を両手でふわりと抱き上げた。きゃあきゃあと声を上げて笑う沙絵子の小さな両手が、康政の頬をぺちぺちと無邪気に叩く。康政は目を細め、その温かく心地よい重みを腕の中にしっかりと抱き留めた。
「いやあ、子供の成長というのは本当に早いものだな」
羽織袴姿の和也が、大ぶりの盃になみなみと注がれた祝い酒をあおりながら、豪快な笑い声を上げる。その目尻はこれ以上ないほどに下がり、父親としての喜びに満ちていた。
「ほら、お嬢様。お口の周りが汚れておりますよ」
侍女のリンが、白い手拭いを手に膝行で近づき、康政の腕の中で暴れる沙絵子の口元を優しく拭う。沙絵子はリンの顔を見て「りんっ」と舌足らずな声を出し、またけらけらと笑った。
部屋には、穏やかな波音と、絶えることのない家族の笑い声だけが満ちている。
康政は、妹の小さな背中を規則正しい拍子でぽんぽんと撫でながら、窓の外に広がる青い空へゆっくりと視線を向けた。その表情には何の気負いもなく、ただ目の前にある温かな体温と、正月の穏やかな空気を全身で味わうような、深く静かな微笑みだけが浮かんでいた。
一月四日。新年の静寂が明け、台湾の経済が再び力強く脈打ち始めるこの日。
基隆の港を見下ろす高台に建つ瑞長財団の迎賓施設『基隆園』は、早朝から凄まじい熱気と喧騒に包まれていた。
財団の全容を象徴するかのような、数千人規模の大新年会。
広大な庭園には、いくつもの巨大な火床が設けられ、そこでは台湾の伝統的な祝宴に欠かせない「豚の丸焼き」が、香ばしい油の音を立てて黄金色に焼き上げられていた。当時の台湾において、これほど大量の豚を一度に振る舞うのは、まさに財団の圧倒的な富の証明である。さらに驚くべきは、庭園の片隅で、内地の基準ですら規格外と言えるほどの「牛の半身」が、幾つも豪快に炙られていたことだ。当時の台湾で食用牛をこれほど贅沢に扱うのは極めて珍しく、職人たちはその芳醇な肉の香りに目を輝かせていた。
「皆、よく集まってくれた。今年も、君たちの健やかな力に期待しているよ」
和也が穏やかな、しかしよく通る声で挨拶をすると、庭園を埋め尽くした職人や工員たちから、地鳴りのような歓声が上がった。
その熱狂の渦の中で、日焼けした顔を綻ばせながら、大ぶりな肉を頬張っている一団があった。
昨年春、帝都の最高学府からやってきた学生たちである。かつて彼らの顔を覆っていた青白い秀才の面影や傲慢さは、もはや微塵も残っていない。彼らは、文字通り土にまみれて働く現場の職人たちと肩を組み、なみなみと注がれた酒を勢いよく煽っていた。
「康政様!」
宴の席の片隅から、二人の若者が息を切らして駆け寄ってきた。一人は帝大の工学部からやってきた学生で、もう一人は外国人技師の息子であるトーマスだ。二人とも顔や手は煤で真っ黒に汚れ、額には大粒の汗が光っている。
「どうした、二人とも。宴の最中だぞ」
和也が立ち止まる。
「出たんです! 康政様、つい先ほど、基隆の試験場で……っ」
学生は興奮のあまり言葉を詰まらせ、分厚い革手袋を引き抜いた。その手のひらは無数の火傷の痕と、硬く盛り上がったマメに覆われていた。
「基隆の設備で試験的に精錬された『軽銀』を土台にした、新型の空冷式発動機……ついに、目標としていた出力を叩き出して、連続稼働を突破しました!」
トーマスも、金色の前髪を油まみれの手で掻き上げながら頷いた。
「凄まじい力だったよ、ヤスマサ! 鉄の土台じゃ重すぎて飛べなかったけど、あの軽銀の心臓なら、確実に機体を空へ持ち上げられる!」
(アルミニウムのクランクケースを用いた、星型空冷エンジン……実用段階の出力を得たか)
康政は、興奮に震える学生の硬く分厚い手を、自らの両手でしっかりと握りしめた。
「素晴らしい成果です。机上の数式を、皆さんのその手が、見事に現実の塊へと変えたのですね」
康政の静かで、敬意の込められた言葉に、学生は顔をくしゃくしゃにして頷いた。
「はいっ……! ですが康政様、あの発動機を載せて本当に空を飛ばすためには、今の油では燃焼が安定しません。もっと純度が高く、力の強い『極上の油』が大量に要るんです」
「ええ、分かっています」
康政は、真っ黒に汚れた二人の顔を真っ直ぐに見据えた。
「皆さんが造り上げたこの翼を、決して地面の上の屑にはしません。空を飛ぶための極上の油は、私と父さんで、必ず南方の海から持ち帰ってきます。だから皆さんは、機体の骨組みの設計を急いでください」
「はいっ!」
宴の喧騒が遠くの潮騒のように聞こえる基隆園の一室。
厚い扉が閉められた瞬間、広場の熱気は遮断され、部屋の中には氷のように冷たく、張り詰めた空気が満ちた。
和也と康政が長机に着くと同時に、阿長が一枚の暗号電報を卓上に滑らせた。大陸の奉天と大連に置かれた、瑞長の小規模な調査拠点から入った特報である。
「北の大地は今、文字通りの地獄と化しているようです」
阿長が、重い声で口を開いた。
「昨年の秋から満州の地で発生した肺ペストですが、冬の冷え込みと共に凄まじい速度で拡散しております。感染者は血を吐き、数日のうちに命を落とすとのこと」
和也が電報の文字を目で追い、眉間を鋭く寄せた。
「悪疫……か。現地の軍部や鉄道の状況はどうなっている」
「最悪、の一言です。強硬派は広大な土地の維持に固執しておりますが、馬賊や義兵の果てしない遊撃戦によって、命綱である鉄路のあちこちが寸断されています。ただでさえ極寒の中で物資の補給が滞っているところへ、この悪疫の蔓延です。兵舎という密閉された空間が仇となり、機能そのものが内側から崩壊しかけております」
(致死率はほぼ百パーセントに至る死の病。史実における満州での被害は絶望的だったはずだが……)
「僕たちの拠点の状況は」
康政の問いに、阿長は深く頷いた。
「白石医師の定めた掟が、機能しております。大連の港湾と、奉天の中継拠点にいる我々の職員、および船員たちは、支給された微細な網目の『衛生覆面』をいかなる時も外さず、次亜塩素酸の水溶液による手洗いと、外部との徹底的な接触の遮断を厳守しています。結果として……周囲の街で死体の山が築かれる中、瑞長の拠点からは、ただの一人も感染者を出していません」
分厚い扉の向こうから、かすかに宴の歓声が聞こえる。
巨大な軍の組織が瓦解していく死の雪原の中で、極東の民間企業が置いたちっぽけな拠点が、無傷で稼働し続けているという、あまりにも異常な現実。
和也がゆっくりと顔を上げ、康政を見た。
「軍の上層部が、我々の拠点の異常さに気づくのは時間の問題だな」
「ええ、父さん。強大な武力も、兵士が息絶えればただの鉄屑です。極寒と飢え、そして悪疫の恐怖に精神をすり減らした彼らは、必ず『なぜ瑞長の人間だけが生き残っているのか』を血眼になって探り始めます。彼らが我々の持つ『実務と防疫の規格』を喉から手が出るほど欲しがる環境が、これで整いました。」
季節は巡り、明治四十四年の春。
南国の海風が心地よい熱を帯び始めた基隆の港に、欧州へと向かう巨大な外洋客船が停泊していた。黒煙を吹き上げる煙突と、重厚な鉄の船体が、波のうねりに合わせてゆっくりと上下している。
香港へ先行している霧島と燕、そして英国人社交界の奥深くに浸透した瑞月からの電報が届いたのは、つい数日前のことだった。
『シンガポールニテ、巨大資本ノ重役陣トノ会談ノ席、整イタリ。準備万端ニテ御出立サレタシ』
客船の巨大なタラップの前に、和也と康政が立っていた。
「和也さん、康政。どうか、お気をつけて」
和子が、夫と息子の顔を交互に見つめる。和子に抱かれた沙絵子が、「にーにっ」と短い腕を一生懸命に伸ばした。
「ああ、行ってくるよ。留守の間、皆を頼んだぞ」
和也が妻の肩を優しく抱き、沙絵子の柔らかな頭を撫でる。
康政もまた、背後に控える阿長やリン、そして見送りに集まった白石や高柳たちへ向かって、深い信頼を込めて深く頭を下げた。
「台湾の土台は、皆様にお任せします。私と父さんは、皆さんが創り上げたこの実務の力を、世界の心臓部へ叩きつけてきます」
港に、出航を告げる汽笛の音が鳴り響いた。
和也が踵を返し、康政がそれに続く。二人は振り返ることなく、海風に上着の裾を翻しながら、巨大な鉄の階段を一段、また一段と踏みしめて上っていく。
南の島の家族と、若者たちが組み上げた鉄の翼。そして、極寒の地で進行する冷徹な盤面。そのすべてを背負い、新城和也と康政は、巨大な帝国資本が支配する灼熱のシンガポールへと、確かな足取りで歩みを進た。
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