第9話:報告の春と、魯来の選択
大正八(一九一九)年、四月。
朝の光が、総督執務室の高い窓から斜めに差し込んでいる。
磨き抜かれた桜材の床に、長方形の陽だまりが三つ。乃木希典は執務机に向かい、青い布表紙の報告書を閉じたところだった。朝鮮半島から届いた三月一日付の報告。独立万歳運動の波は、いまだ京城を中心にくすぶり続けている。
部屋の隅では、副官が控えめに茶の用意を整えていた。
天井の高いこの執務室は、朝のうちはまだ涼しい。しかし昼前には、南洋の熱気が煉瓦の壁を伝って忍び込んでくる。この島の四月を、乃木は十一年の経験で知り尽くしていた。
控えの間から衣擦れの音がして、副官が扉を開ける。
まず入ってきたのは新城和也。背広の襟を正し、総督に一礼する。貴族院議員としての顔と、一人の父親としての顔が、この男のなかで静かに共存しているのを乃木は長く見てきた。
そして、その少し後ろから、もう一人。新城康政が深く頭を下げた。
「新城康政です。ただいま欧州より帰還いたしました」
「無事で何よりだ。和也殿も、ご苦労であった」
副官が足音を殺して下がる。
「して、どうであった。欧州は」
康政は革鞄から厚い書類の束を取り出し、乃木の前に差し出した。
「すべて、このなかに」
乃木は書類を受け取り、頁を繰る。紙の擦れる音だけが、静かな執務室に響いた。
最初の一枚。フランス共和国との仮調印。植民省経済局長ラクロワの署名。マダガスカル共同開発の骨子。乃木の皺深い指が、調印の日付をなぞる。
次の一枚。英国陸軍大臣チャーチルとの会見記録。康政の几帳面な字で『ロマノフ黙認、口頭確約』とある。乃木は息を深く吸い込み、細く吐き出した。
さらにもう一枚。メソポタミア未開発鉱区の共同開発調印書。英国国王の印の写し。
指が印影の上で一旦止まり、次の頁へ。
「……サンドリンガム」
ジョージ五世との面会記録。日英同盟協議会の設立構想。国王の承諾。
乃木は窓の外へ視線を向けた。南国の陽光は変わらず床を照らしている。しかし、この老将の胸の内には、いま別の光景が広がっていた。日露戦争の戦場、旅順の死地、そこで失いかけた息子の命。
あの頃、イギリスは遠い同盟国だった。その国王が、いまこの若者を通じて動いた。
「バチカンは」
「法王陛下より、使徒的祝福の教書を授かりました。全世界の司教区に、財団の医療支援を伝えるよう命じるとの仰せです」
乃木は書類を執務机に置いた。両の手のひらを重ね、目を閉じる。
「……十三の頃から、お前を見てきた。初めてこの執務室に来たとき、お前はまだ子供だった。それがいま、英国国王とローマ法王を相手に、机ひとつで事を運ぶか」
康政は声を発さず、ただ深く頭を垂れた。かつての少年のように承認を求める色はなく、ただ自らの為した事の重さを知る者の静けさがあった。乃木は小さく顎を引き、その事実だけを飲み込む。
和也が身を乗り出した。
「帝都の状況です。原首相、伊藤公爵、児玉参謀総長。いずれも協議会設立に同意され、パリの西園寺全権へ指示が発せられております」
乃木は小さく頷いた。大筋はすでに聞いている。
「軍部には、不満の声もあります。参謀本部のなかには、大陸での単独行動を望む向きも」
「承知している」
乃木の指が、執務机の隅に置かれた青い布表紙の報告書に触れた。
「三月一日。朝鮮で独立を叫ぶ暴動があった。京城を中心に、地方にも飛び火しておる」
部屋の空気がわずかに重くなる。植民地統治の難しさは、乃木自身がこの十一年、骨身に染みて知るものだ。
「しかし、ここは静かだ。林献堂という男がおる。霧峰林家。お前が繋いだ縁だ。彼が台湾の地主層を取りまとめ、過激な動きを封じてくれておる。お前が台湾に蒔いた種は、こういうところでも芽吹いている」
「林さんは、同志です」
康政の返事は、一言だけだった。乃木は机上の報告書を脇へ押しやる。その仕草で、話題が変わる。
「それで、康政。ニコライ殿のことだ。この先、どうする」
「本日は陛下にも、こちらへお越しいただいております」
乃木は傍らの副官に目配せした。副官が一礼し、音もなく執務室を退室する。
廊下に靴音が響く。ひとつ、ふたつ。
決して早足ではないが、確かな刻みで近づいてくる。その歩みの質だけで、乃木には相手のすべてが察せられた。急ぐ必要のない者。慌てる理由を持たぬ者。かつて広大な帝国を背負い、いますべてを失った者だけが持つ、あの奇妙な静けさ。
扉が開かれた。
痩せた男が立っていた。白髪の混じった髭、深い眉間の皺。しかし背筋の伸びたその立ち姿には、玉座を失ってもなお消えぬものが確かに残っている。
ニコライ二世。乃木は立ち上がり、老体の腰を深く折った。
「ようこそお越し下さった」
傍らの康政が、落ち着いたロシア語に直す。ニコライは微かに首を振り、短く言葉を返した。康政が日本語に戻す。
「……こちらへ来るのは、当然のことです」
乃木は自ら茶を差し出し、執務机ではなく応接用の卓へと場を移した。康政と和也が脇に座り、ニコライと乃木が向かい合う。
通訳を挟んでの会話は、最初のひと言で呼吸が定まった。乃木が話し、康政が低い声でロシア語に直し、ニコライが応じ、康政が日本語に戻す。その穏やかな往復が、やがて部屋の空気に溶けていった。
「ニコライ殿。本日は、今後のことについてご相談申し上げたい。まず、お名前のことです」
ニコライは、青灰色の瞳をまっすぐに乃木へ据えた。諦めでも悲しみでもなく、ただ揺るぎない覚悟をたたえている。
「ニコライ・ロマノフというお名前は、国際政治上、いまだにあまりに重い。しかし、だからといって、すべてを偽りの名で覆い隠すこともあるまい。我々は、こう考えます」
乃木は一呼吸置き、一音一音を噛みしめるように言った。
「姓を『魯来』と改め、個人の名はそのままニコライと。ロシアより来たる、魯来。いかがか」
ニコライは長く茶杯を見つめていた。茶の湯気が、細く立ち昇っている。魯来。ろらい。異国の地で与えられた二文字の名の、胸の内に、何を聞いたのか。故郷の喪失か、新たな受容か、あるいはその両方か。
「……魯来」
自らの新しい姓を、そっと口にする。その声にかすかな震えがあったことを、乃木は聞き逃さなかった。だが顔を上げたとき、その目は乾いていた。
「良い名だ。ロシアから来た者。それ以上でも、それ以下でもない。我々には、それで十分だ」
乃木は深く頷き、初めてその名を声に出した。
「魯来殿。本日より、そのお名前でお呼びすることをお許しいただきたい」
魯来ニコライは、静かに瞬きをした。
和也が半歩身を乗り出し、口を開いた。
「生活のことは、いかがなさいますか。新城邸に引き続きお留まりいただくこともできますが、いずれはご一家として独立されたほうがよろしいかと」
「私もそう考えていた。長く君たちの世話になるわけにはいかない。アレクサンドラも、子供たちも、どこかで」
「帝大があります。台北帝国大学。魯来殿の軍事史学の知識は、学生たちにとって得難い財産です。また、アレクサンドラ様の語学の教養も、皇女様方の音楽や文学のたしなみも、帝大の門は広く開かれております」
乃木が言葉を継ぐ。
「魯来殿には、嘱託として帝大の歴史の講座を預かっていただきたい。肩書きがあれば住居の手配も容易になる。これは総督府としても、やぶさかではない」
魯来ニコライはしばらく茶杯を見下ろしたまま動かなかった。数日前、新城邸の一室でジョージ五世の親書を読んだときのことを、乃木は康政から聞いている。
すべてを失った男が、それでもなお与えられるものの重みを受け止めかねている、そのひそやかなためらい。乃木は急かすことなく待った。
やがてニコライが口を開き、かすれたロシア語を紡ぐ。
「……ありがたい。ロマノフではなく魯来として、この島で一から始めよう。家族にも、そう伝える」
乃木は腰を上げた。言葉を俟たずとも、その仕草だけで万感が伝わる。
「魯来殿。台湾は異郷であろうが、もう異国ではない。どうか、安心して過ごされよ」
老将の真情が込められた響きに、ニコライの青灰色の瞳が、かすかに潤んだように乃木には見えた。
魯来ニコライは立ち上がり、そして、ほんのわずかに、背筋を伸ばして応えた。
「……ありがとう、総督」
たどたどしい、しかし確かな日本語だった。
魯来ニコライが辞し、和也も財団の事務所へと発ったあと。執務室には乃木と康政の二人だけが残された。
茶を代えさせた乃木は、執務机の向こうで少しだけ背を楽にした。公式の場が解かれたあとの、年長者としての顔に戻る。康政もまた、茶碗を手にしたまま、総督府の高い天井をぼんやりと見上げていた。
しばらくの沈黙ののち、康政が茶碗を置いた。
「じつは、控えの間に橘響子が来ております。橘少佐の姪です。欧州にも同行しまして、ジョージ五世から直々の礼状をいただくまでになりました。明日、東京へ発ちます。発つまえに、ご挨拶をと」
乃木は窓の外へ目をやった。赤煉瓦の中庭では、梔子の白い花が南国の陽を浴びて咲き始めている。
「通せ」
橘響子は、控えの間の長椅子に腰を下ろしていた。
康政が執務室に入ってから、どれほど経ったかはわからない。副官が戻り、扉を示す。響子は膝の上の鞄の持ち手をきつく握り込み、一度だけ深く息を吸って立ち上がる。もはや保護されるだけの子供ではない。わずかな強張りののち、その視線はまっすぐに前を見据えていた。
控えの間を通り、執務室の重い扉の前で足を止める。副官が恭しく扉を開き、響子は敷居を跨いだ。
部屋の奥、執務机の向こうに乃木希典が座っている。軍服ではなく簡素な紺の和服。痩せた体つき、深い皺。しかしその目には、不思議な温かさがあった。壁際には康政が控え、響子に軽く目礼を寄越す。
「乃木総督。橘響子でございます」
声は、震えなかった。乃木は手で卓の前の椅子を示した。
「楽にせよ。いまは総督ではない。新城君の古い友人として、じゃ」
響子は椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を揃えた。鞄のなかには、擦り切れた革表紙の手帳が入っている。欧州半年の旅のすべてを綴ったこの一冊が、いまの自分を支えるすべてだった。
「東京へ発つそうだな」
「はい。極東公論の社員として、記者を続けます。欧州で見たこと、聞いたこと、そしてこれから起きることを、自分の言葉で書くために」
乃木はしばらく響子の顔を見つめていた。記者としての資格を値踏みする視線ではない。この若い女が何を見て、何を背負い、その結果として何を選んだのかを見極めようとする静かな目。
響子はその視線を受け止め、逸らさなかった。
「橘さん。お前が見てきたものを、書け。誰に遠慮することもない。それが、この老いぼれからの、餞だ」
餞。その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。響子は唇を引き結び、深く頭を下げた。
顔を上げたとき、壁際の康政と目が合った。彼は何も言わない。だがその穏やかな微笑みが、渡り廊下の梔子の前で言った言葉を思い出させる。
『それができるようになったとき、響子さんの手帳は、はじめて本物の原稿になります』
響子は鞄を開け、手帳を取り出した。半年の旅のすべてが詰まったこの一冊を、いまはまだ誰にも見せられない。しかし、いつか。
手帳を両手で包み込むように持ち、それからそっと、鞄の奥へとしまい込んだ。
乃木が腰を上げた。その仕草に合わせて響子も立ち、康政も姿勢を正す。
「橘さん。東京は冷たい街だ。だが、お前はもう、一度冷たさを知っている。同じ川で二度は溺れぬ」
「ありがとうございます、総督」
響子はもう一度深く礼をし、扉へ向かった。
振り返らなかった。振り返る必要はなかった。
総督府の正面車寄せに出ると、陽はすでに高く昇り、赤煉瓦の壁がまぶしいほどに照り返っていた。
後を追って出てきた康政が、響子の隣に並ぶ。
「明後日、でしたね」
響子は小さく頷いた。康政は息を吐き、それから響子に向き直る。
「東京は、響子さんにとって一度は傷ついた場所です。でも、もう同じ傷は負わない。響子さんご自身が、それを証明なさる番です」
響子は少しだけ顎を上げた。
「私、書くからね。誰にも止められない」
康政は一瞬目を細め、それから、荒海へ漕ぎ出す同志を見送るように微笑んだ。
「楽しみにしています」
南国の熱を帯びた風が、二人のあいだを吹き抜ける。その短い言葉が、何よりの餞だった。響子は背を向け、ひとり正面階段を下りていく。
鞄のなかでは、手帳が黙って次の頁を待っている。南国の風が、まだ何も書かれていないその白い頁の上を、見えない指でそっと撫でていった。
読んで頂きありがとうございます。




